歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪粟津則雄の小林秀雄論 その2≫

2021-06-14 18:24:42 | 文章について

【はじめに】


今回のブログも、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
 今回は、小林秀雄の『モオツァルト』、バルザック論、ドストエフスキー論、ラスコーリニコフとムイシュキンを中心に述べてみたい。



【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】

小林秀雄論 (1981年)




粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈
・小林秀雄のバルザック論
・小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界
・ラスコーリニコフとムイシュキン
・小林秀雄の批評の信条






小林の『モオツァルト』論に対する粟津の解釈


小林は、「モオツァルトの音楽の深さと彼の手紙の浅薄さとの異様な対照」という問題について、次のように述べている。
「成る程、モオツァルトには、心の底を吐露する様な友は一人もいなかつたのは確かだらうが、若し、心の底などといふものが、そもそもモオツァルトにはなかつたとしたら、どういふ事になるか。(中略)彼は、手紙で、恐らく何一つ隠してはゐまい。不器用さは隠すといふ事ではあるまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己も大した事を引出し得まいといふ事だ」

モオツァルトは、不思議な孤独をかかえていたとする。つまり、閉じることによってではなく開くことによって、他人に対して鎧うことによってではなくいかなる鎧もつけえぬことによって孤独であるような孤独。つねにおのれの全身をわれわれにさらしていながらわれわれを超えた謎であるような孤独。
このように、粟津は説明している。そして、この孤独こそ、小林が『モオツァルト』で、渾身の力をもって描きあげようとしたものであったと、粟津は理解している。

『モオツァルト』の第一稿が書き始められたのは、昭和18年末から昭和19年6月に至る中国旅行中であるといわれる。(新潮社版全集の吉田熙生の解題による)
つまり、『実朝』執筆に続く時期であることに粟津は注目する。そして、『モオツァルト』には、実朝でとりあげた主題をさらに純化拡大したようなところがあるという。

『実朝』のなかで、小林は、実朝について、次のように語っていた。
「奇怪な世相が、彼を苦しめ不安にし、不安は、彼が持つて生れた精妙な音楽のうちに、すばやく捕へられ、地獄の火の上に、涼しげにたゆたふ」と。

また、実朝と西行について、次のように語る。
「成る程、西行と実朝とは、大変趣の違つた歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれ乍ら、これに執着せず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾を透して遠い地鳴りの様な歴史の足音を常に感じてゐたところに思ひ至ると、二人の間には切れぬ縁がある様に思ふのである。二人は、厭人や独断により、世間に対して孤独だつたのではなく、言はば日常の自分自身に対して孤独だつた様な魂から歌を生んだ稀有な歌人であつた」と。

小林は、実朝や西行のうちに、このような孤独を見定めた。
小林は、『モオツァルト』のなかで、「モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)といふものだ」というスタンダールの評言や、ゲオンの「tristesse allante」という評言に共感を示している。
そして、次のように語る。
「確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。(中略)まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせつてもゐないし急いでもゐない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺つてゐないだけだ。彼は悲しんではゐない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのまゝの命であり、でつち上げた孤独に伴ふ嘲笑や皮肉の影さへない」と。

『実朝』から『モオツァルト』へという道は、小林にとっては、ごく自然な純化の道であったようだ。
小林は、『西行』『実朝』『モオツァルト』という順序で書いていった。
この順序は、孤独がついに言葉から離れ去るにいたる順序であると、粟津は捉えている。ここに小林の孤独の観念の特質を見てとる。
小林がこのような順序をとったのは、ひとつには、イデオロギーに対する激しい嫌悪のせいであるようだ。そして、「十九世紀の文学が、充分に注入した毒に当つた告白病者、反省病者、心理解剖病者等」に対する激しい嫌悪のせいであった。
こういったことに対する嫌悪が、また否応ない歴史の流れのなかで、小林が味わっていた孤独が、小林の孤独の観念を、モーツァルトの孤独にまで純化拡大することを要求したと、粟津はいう。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、369頁~374頁)

小林秀雄のバルザック論


小林秀雄は、『私小説について』(昭和8年10月)および『文学界の混乱』8昭和9年1月)において、私小説を論じている。

久米正雄は、次のような意味のことばを残した。
芸術は、真の意味で別の人生の「創造」ではなくせいぜいその人びとの踏んできた一人生の「再現」としか思われない、バルザックの大小説も結局作りものとしか思われず彼が制作の苦痛を語った片言隻語ほども信用が置けぬ。

この久米のことばを引いて、小林は記す。
「極く普通に読めば、かういふ考へ方は自然主義の影響がいかにも強く現れてゐるので、一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるといふ明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至つてはじめて持つたのである」

つまり、故郷を失い、青春をも失ったという、そのことが、人びとに、こういう明瞭な自覚や意識を持つことを可能にした。
小林は、このような自覚や意識にもとづいて、次のように断言する。
「バルザックの小説はまさしく拵へものであり、拵へものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服し棄て切れたからこそ拵へものの裡に生きる道を見つけ出したのである」

小林は人びとにこのような自覚や意識を強いた重要な契機として、マルクス主義の到来をあげている。粟津は、この点に着目している。
小林は、その登場以来、当面の敵として、マルクス主義文学の抽象性と観念性とを、終始一貫して攻撃し続けてきた。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、148頁~149頁)

小林は、「文学は絵空ごとか」(昭和5年9月)において、正宗白鳥とバルザックとドストエフスキーについて、次のように論じている。
「若し散文的精神といふものが、言語上の観念美は勿論の事、世のあらゆる造型美に誑かされない精神を指すとすれば、正宗氏の精神は正しく生れ乍らの散文精神である。氏は深刻な雑文家である。ドストエフスキイとかバルザックとかの、普通の小説概念では律し切れない茫漠たる小説家には、この深刻な雑文精神が見られる。正宗氏は恐らく生れ乍らの最も散文的な小説家だ、この点で、現在の作家の中で氏に最も近い作家は、人々は奇妙に思ふかも知れないが、私は宇野浩二氏だと思つてゐる」

小林は、正宗白鳥の「深刻な散文精神」のうちに、ある解放を味わっているようだ。
(そこにおのれの批評性がもっとものびやかに吸収しうる場所を見出していると、粟津は見ている)
白鳥の「散文精神」は、ドストエフスキーやバルザックのうちに見られるものとつらなっている。つまり、小林は、大正期の作家のひとりである正宗白鳥の「散文精神」のうちに、ドストエフスキーやバルザックと直接つながる契機を見てとっている。
(ただ、白鳥は、これらの大作家たちのように、巨大なロマネスクを編みあげはしなかったのだが)

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、116頁~117頁)

小林秀雄のドストエフスキー論~ロシヤと日本の社会と思想界


小林の『ドストエフスキイの生活』の重要な特色として、ドストエフスキーの生きた社会がはらむ「矛盾」に強い光をあてている点を、粟津は指摘している。

「理想と現実との大きなひらきの為に、西欧の浪漫主義はロシヤの文学界に鮮やかな姿をとつて実現されなかつたのみならず、当然複雑な混乱を巻き起した。だが、当時やうやく貴族階級の手を離れて、職業化しはじめたロシヤの文学に生気を与へたものは、又この混乱に外ならなかつたのである。ロシヤの社会が浪漫派文学を生んだのでも、受け入れたのでもなく、西欧の浪漫派文学の輸入によつて、ロシヤに文壇といふ一社会がはじめて出来上つたのだ、と、やや逆説的だが言ふ事が出来るだらう」と小林はいう。

ロシヤが19世紀を通じて苦しまなければならなかった独特の矛盾として、次のものを挙げている。
〇ブルジョアジイの発達にとって、君主政体のみならず君主独裁すら必要とする矛盾
〇皇帝の独裁を甘受せざるを得なかった当時の薄弱な工業資本主義も、その市場の獲得とともに、産業の組織に必須なインテリゲンチャを必要とした
〇ロシヤのインテリゲンチャの頭脳にまず棲息したものが、西欧の革命的ブルジョアジイの夢であった
〇ロシヤのインテリゲンチャが、西欧派と国粋派の両派に分れて論戦をした時、ナロオドという農民の姿があった

この農民の姿とインテリゲンチャとの関係について、小林は次のように記す。
「尚インテリゲンチャは足許にナロオドといふ深淵を感じて思索する不安を無くする事は出来なかつた。この不安は、ロシヤ十九世紀思想家等に独特なものであり、彼等の天才と偉大と悲惨との心理的苗床であつた。彼等は遂に西欧の十九世紀思想家等の抱いた知識に対する教養に対する毅然たる自信を獲得する事は出来なかつた。自分達の知識や修養は借り物である、ナロオドの土地から育つたものではない、といふ意識が絶えず彼等を苦しめたのだ」

この小林の叙述は、19世紀ロシヤの社会や思想界ではなく、20世紀日本の社会や思想界であるような錯覚を覚えると、粟津はいう。
(もちろん細部においてはちがいがあると断りつつ)

〇皇帝の独裁と工業資本主義との結びつきは、天皇制と明治の資本主義との結びつきに通じる
〇西欧の浪漫主義文学の輸入によってはじめて文壇という一社会が出来たという指摘について、浪漫主義文学に自然主義文学を付け加えれば、日本に適用しても、見当外れでない
〇ナロオドのかげにおびえ、おのれの思考の架空性に苦しむ西欧派と国粋派の対立も、日本における西欧派と国粋派の対立に(さらに「ブルジョア文学者」と「プロレタリア文学者」の対立に)あてはめることができる

なお、小林は、『私小説論』において、明治にいたるまで持続した文学伝統が、西欧文学を輸入するに当たって、いかに独特の変形を行ったかを、精到に分析している。
そして、日本独特の事情と、19世紀中ばのロシヤの若い作家たちが直面したものとのちがいについて、小林は次のように記す。
「新しい思想を育てる地盤がなくても、人々は新しい思想に酔ふ事は出来る。ロシヤの十九世紀半ばに於ける若い作家達は、みな殆ど気狂ひ染みた身振りでこれを行つたのである。併し、わが国の作家達はこれを行はなかつた。行へなかつたのではない、行ふ必要を認めなかつたのだ。彼等は西欧の思想を育てる充分な社会条件を持つてゐなかつたが、その代りロシヤなどとは比較にならない長く強い文学の伝統を持つてゐた」

ただ、日本の場合、このような事態を生み出した文学の伝統は、急激な近代化を通して解体し四散した。もはやそれは「育つ力のない外来思想」を平然と無視しうるほどの力を持たなかった。ただ、その外来思想は、新たなる伝統を形作るには程遠かった。こうして、混乱そのものが社会の特質となったとする。

一方、ロシヤの場合も、19世紀中葉のロシヤ社会の混乱が、混乱そのもののもっとも純化されたありようとして、なまなましくよみがりえた。このような混乱のなかで生きたロシヤの作家が、当時の小林にも緊急の問題となりえた。

小林は、『ドストエフスキイの生活』のなかの『作家の日記』を論じた章で、ドストエフスキーとフローベルを比較して次のように記す。
「フロオベルに孤独なクロワッセが信じられたのも、己れの抱懐した広い意味での教養に、衆愚を睥睨する象徴的価値が信じられたが為だ。併しドストエフスキイには、信ずるに足るクロワッセの書斎がなかつた。ロシヤの混乱を首を出して眺める窓が彼にはなかつた」

この点、粟津はコメントしている。
信ずるに足る書斎も、社会の混乱を首を出して眺める窓も持たぬ点は、ドストエフスキーも小林も同様であっただろう。小林もまた、文芸時評における伝統の欠如というかたちで、このことを思い知らされていたはずだろう。
小林にとって、ドストエフスキーとは、どんな人物であったのか。
にわか普請の書斎や抽象的な窓を作ることなく、むしろ進んで混乱のなかに身を横たえ、混乱をおのれの特権と化したような人物として、映ったようである。

(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、180頁~183頁)

ラスコーリニコフとムイシュキン



「人生の門出に際して、ムイシュキンは、その清らかな視力、無垢な生命感を、どう取扱ふべきかを知つてゐない。併し作者にはそれで充分だつた。それだけで既に充分に晴朗なものであり、同時に威嚇的なものと見えたに違ひない。凡そ人間的可能性を剝奪されたともみえるムイシュキンの極度の無抵抗性の上に、無気味な独特な人間観照の世界が自ら開けて行く様を見給へ。人々は彼を白痴と呼びながら、知らず識らずのうちに、この世界に足をとられる。ムイシュキンは己れの善良の故に亡びるのだが、人々の平安は又ムイシュキン故に、破れるのである」
と小林は記す。

ラスコーリニコフは、その孤独を抱いてシベリヤにまで追いやられたのに対して、ムイシュキンの孤独は、その「清らかな視力」と「無垢な生命感」をもって、人びとのなかに立ち戻る。
しかし、ムイシュキンの孤独が、人びとと融和するに至ったということではなく、ムイシュキンもまた、ラスコーリニコフと同様、人びとのあいだにあって充分に孤独である。
ただ、ムイシュキンには、ラスコーリニコフにはまだあったような、人びとを拒むという動機が、最初から欠けていた。つまり、ムイシュキンは、彼をとりまく人びとをそのままに受け入れながら、充分に孤独であった。

ラスコーリニコフが、殺人という架空の行為やソーニャとの出会いを通して、孤独をわがものとしたのに対して、ムイシュキンの孤独は、そのまま日常感になっている。そのために、ムイシュキンの孤独は、一見いかにも日常的でありながら、魔的である。

小林は、『白痴』を、「一種の比類ない恋愛小説」と評した。
ドストエフスキーが描いた奇妙な恋愛関係を次のように分析した。
「三人の男女はムイシュキン無しには生きてゐない。彼等はムイシュキンといふ不可解な男を糧としてわづかに生を享けてゐる。而もムイシュキンには人々に働きかける能力が全くかけてゐる。彼等はムイシュキンの極端な無抵抗性のうちに、自分等の姿を、自ら限定せざるを得ない。彼等にとつてムイシュキンは空気の様に無色であり必須である。四人の関係に、恋愛関係、いや人間関係とすら言ひ切れぬものの存するのは、この関係を宰領するムイシュキンの言はば魔性によるのだが、彼自身、自分の魔性を、明らかに意識してはゐない」

この小林のことばは、この恋愛関係の特質を簡潔に要約している。
そして、さらに記す。
「彼らの演ずるものは、外見はどう見えようとも、恋愛劇でも心理劇でもない、悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何の責任も持たない。言行に責任を持たぬ人間等の手によつて凡そ劇は出来上らないのである。繰り拡げられるのはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」

この小林のことばは、『白痴』という作品の見事な分析である。
そればかりではないと粟津はみている。
ラスコーリニコフの孤独にその身を重ねあわせた小林の批評意識が、ムイシュキンを通して、その批評意識の新たな、危機をはらんだ相を確認しているという。

小林はまた記す。
「ムイシュキンは常に不安であるが、これは殆ど不安な意識とさへ呼び難いもので、彼が不断に人前に曝してゐるものは、言はば生れたばかりの命の動揺であり不均衡である」
このような小林のことばから、小林が批評に際して、ムイシュキンのように、対象の前でおのれが、「生れたばかりの命の動揺」や「不均衡」と化するのを覚えたのではないかと、粟津は推察している。そして、ムイシュキンをこのような姿にまで追いつめたドストエフスキーの歩みが、小林自身の批評の歩みの背後でなまなましく響いていたとする。
いわば、小林は、ラスコーリニコフとムイシュキンとのうちに、小林自身の批評の危機にあふれた両極を見たという。そして、ドストエフスキーが、この二人の人物を、ある感覚や予覚と化しながらその生の精髄を描き出したことのうちに、小林自身の批評の可能性を見たとする。

小林は、『白痴』論の冒頭で、ドストエフスキーの作家的特質について語っている。ドストエフスキーが「何を置いても深刻な生活人」であり、「その表現とは、その生活情熱の分析に他ならなかつた」と小林は記す。

そして、フロベールとドストエフスキーとを比較して、次のように正確な指摘をしている。
「例へば、フロオベルの様な何を置いても冷酷な観察家であつた人が、若しドストエフスキイの様な絶望的な境遇にあつて制作を強ひられたなら、自分の仕事を守るために専ら境遇と戦つたであらう」

そしてドストエフスキーの場合は、
「絶望的な境遇を彼がいかに嘆かうが、実際には境遇は彼の仕事にかけがへのない内容を提供してゐるのである。動かし難い必要物と化してゐるのだ。こゝからフロオベルの均整のとれた静観的リアリズムとは凡そ反対な荒々しい実践的な彼のリアリズムは発してゐる」
ドストエフスキーとフロベールのリアリズムに関して、荒々しい実践的なリアリズムと、均整のとれた静観的なリアリズムを対比して捉え、ドストエフスキーの場合、絶望的な境遇がその小説の内容を提供したという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、217頁~219頁)

小林秀雄の批評の信条について


「重要なのは思想ではない。思想がある個性のうちでどういふ具合に生きるかといふ事だ」と小林は記す。
これは、批評家として出発した当初からの小林の批評の信条にほかならなかったと、粟津は捉えている。
この信条を、ラスコーリニコフという危険な存在を通して確かめることに、『罪と罰』論における小林の批評的冒険があったとする。


老婆殺しを犯した大学生ラスコーリニコフは、反逆児だが、19世紀文学がばらまいたどの反逆児にも似ていないと小林は言う。
「彼は飽くまでも見すぼらしい。どういふ意味ででも彼を理想化する余地はないのだ。彼が好んでかぶるニヒリスト、乃至はマニヤックの仮面も、その効用を彼に説く力はない。むごたらしい自己解剖が彼を目茶々々にしてゐる」という。
そしてこの奇妙な反逆児にとっての、この事件の空想性、架空性を精妙に分析している。

小林は、『罪と罰』という作品の内部に閉じこもり、次のようなラスコーリニコフ像を描いている。
ラスコーリニコフとは、「自分の行動が確然たる自分の思索の結果である事を、はつきり知つてゐる一方、自分が行動に引摺られる単なる弱虫である事もはつきり知つてゐる」といった男である。
(小林は、こういう男が「どの様な身振り」で老婆を殺すかということについて、眼をこらした)

小林は、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの孤独の独創性に注目した。
(J.M.マリーは、ラスコーリニコフのあいまいさと不徹底とを見た。ラスコーリニコフの行為の架空性に飽き足りず、「寧ろスヴィドリガイロフにこの小説の真の主人公、この作者の真に新しい言葉を見付け出さう」としたと、小林自身も触れている)

ラスコーリニコフにとって、「孤独はあらゆる意味で人生観ではない、人生にのぞむ或る態度たる意味はない。彼は孤独の化身なのである」と小林は言う。
「彼は自分の孤独をどういふ意味ででも観念的に限定してゐないのである。彼にとつて孤独とは『啞で聾なある精神』だ。彼は孤を抱いてうろつく。そして現実が傍若無人にこの中を横行するに委せるのだ。彼はたゞこれに堪へ忍ぶ」という。

このような小林の評言は、のちに書く『実朝』や『西行』のなかにあっても、さしつかえないようなものであると、粟津は理解している。
つまり、小林が、その後の文章のつねに変わらぬ主調音となった感のある「孤独」という観念を、ラスコーリニコフの孤独を通して確認したように思われるという。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、204頁~209頁)




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