ブログ原稿≪小暮満寿雄『堪能ルーヴル』を読んで 【読後の感想とコメント】その9≫
(2020年7月28日投稿)
【小暮満寿雄『堪能ルーヴル 半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』はこちらから】
小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
今回のブログでは、ゴッホの画風や人物像を探ってみたい。
まず、ゴッホの生涯と絵画について、高階秀爾『近代絵画史(上)』(中公新書、1975年[1998年版])により、概観する。
次に、オルセー美術館のゴッホ作品について、小島英煕『活字でみるオルセー美術館』(丸善ライブラリー、2001年)をもとに、みておきたい。
ゴッホのタッチおよびドラクロワとの影響関係については、西岡文彦『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)をもとに考えてみたい。
また、小林秀雄の著作『ゴッホの手紙』と『近代絵画』にも、ゴッホについて言及しているので、その内容および批判点を合わせて紹介しておきたい。
最後に、オルセー美術館所蔵であるゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫について、フランス語の解説文を読んでみたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ゴッホ(1853~1890)の生涯は、わずか37年の短いものであった。しかも、最初、画商や本屋の手代や伝道師を志したゴッホが、画家として生きたのは、修業時代までをふくめて、ようやく10年ほどの期間にすぎなかった。
もしゴッホが本当にゴッホになった時期、すなわち、他の誰も真似することのできない、あの強烈な色彩と独特な様式を確立したアルル時代から数えるなら、その活動期間は3年にも満たない。
しかしゴッホは、それほどまでに短い生涯の間に、彼自身憧れていた、あの南フランスの燃えさかる太陽のように、生命を燃焼させ、驚くべき数の作品を生み出した(そして静かに自ら生命を絶った)。
ゴッホが、かなり遅くなってから絵画に身を捧げるようになったのは、彼が自己を生かす道を求めて模索してきたからである。ゴッホは、セザンヌのように、絵画のために生きた人ではない。むしろゴッホにとって、生きるために絵画が必要だったとされる。
そもそもゴッホの激しい生命力は、自己のすべてを捧げて仕える対象を必要とした。ゴッホは、愛さずには生きていけない人間であった。しかし、彼のその愛はあまりにも強烈であるので、つねに手厳しく相手から拒否された。ゴッホが最初の情熱を燃やしたロンドンの下宿屋の娘アーシュラも、彼が自分の身体を痛めつけてまで心のうちを伝えようとした相手である従妹の“K”も、その「愛」を受け入れなかった。
ゴッホが伝道師を志してベルギーでも最も貧しいボリナージュの炭坑に赴き、坑夫たちと同じように厳しい生活をしながら熱心に道を説いた時でも、人々は、気味悪がって彼を避けた。
また、ゴッホは南フランスのアルルで、共通の理想に燃える芸術仲間が集まって共同で制作に励むというユートピアを夢みた。そして、パリの仲間に呼びかけた時、やって来たのはゴーギャンただひとりであった。そのゴーギャンとの共同生活も、わずか2か月ほどで、あの悲劇的な破局を迎える。
ゴッホの「愛」は激しく抑制のきかないものであったために、冷たく拒否された。ゴッホの悲劇は、報われぬ愛の悲劇だったと高階氏はいう。
さて、ゴッホはオランダのフロート・ツンデルトに、プロテスタントの牧師の息子として生まれた。曲折を経た後に、1879年ごろ、ようやく絵画を志す。
1886年の2月、ちょうど印象派の最後の展覧会が開かれる年にパリにやって来るまでは、いわばゴッホの修業時代であった。この時期、ゴッホはまだあの後年の強烈な色彩を見出していない。逆にねっとりとした暗い色調で、農民や機織工など、ミレーを思わせる働く人々の主題を好んで描き出した(事実、この時期に熱心にミレーの模写をしている)。
パリでは、まずコルモンのアトリエに学んだが、ピサロを通して印象派を知るにおよんで、急速に明るい色彩に目覚めていくようになる。一時は、新印象派の分割主義にも惹かれたが、ひとたび色彩の持つ感覚的な魅力に取り憑かれると、いっそう明るい太陽に憧れて、ちょうど2年後、1888年の2月にアルルに赴いた。もちろん、すでにパリに来る前から知っていた日本の浮世絵版画の影響も、この南仏行きに大きな役割を果たした。
1888年10月にゴーギャンがやって来て、クリスマスにあの不幸な衝突と耳切り事件が起こるまで、この年の夏が、ゴッホの短い生涯において、いちばん落ち着いた、安定した時期であったようだ。太陽の輝きに憧れたゴッホは、太陽の光の強烈な夏の時期に最も創作意欲をかきたてられ、憑かれたように作品を描き続けた。
しかし秋とともに悲劇は始まった。10月にゴーギャンがやって来た時には、ゴッホは大喜びで迎えたが、あまりに強いふたりの個性は衝突が避けられなかった。激しい口論の後、耳切り事件が起こり、ゴッホは病院へ、ゴーギャンはそのままパリに発ち、共同生活は破綻した。この時から、ゴッホの神経症の発作は激しいものになる。
1889年5月から、サン・レミの病院で神経を療養する身となる。アルル時代がゴッホの古典主義時代であったとすれば、サン・レミ滞在の時期は、いわばゴッホのバロック時代であったと高階氏は捉えている。
事実、激しく捩れながら燃え上がる糸杉、波打つような山脈、大地全体が震えている麦畑などが、その画面を特徴づけている。
(ただ、冬になると、ゴッホの情熱はまたもやそのエネルギーを失って深い絶望が襲った)
1890年5月、南フランスを去って、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズに落ち着く。しかし、今度は夏の間生き抜くだけの力ももはや持ってはいなかった。
それでもなお多くの忘れがたい作品を残した後、7月27日、烏の飛ぶ麦畑の見える裏の丘で、自ら拳銃を自分の身体に射ちこむ。ガシェ博士の手当を受けながら、2日後に世を去る。
ところで、ゴッホは南フランスから弟のテオに宛てて、次のように書き送っている。
「私は赤と緑とで、人間の恐ろしい情念を表現したい」
ゴッホは、その晩年の3年間において発見したものは、強烈な色彩の持つ表現力であった。ゴッホにとっては、そのカンヴァスの上で、輝く赤や緑や黄色は決して外の自然をそのまま写し出した色ではなく、むしろ、自身の心のなかの世界を反映したものであった。ゴッホが描き出す世界は、印象派の求めたような「自然の断片」ではなく、悲しみや恐れや喜びや絶望など、さまざまの情念の色に染め上げられた人間の心の深淵の世界であった。風景も、静物も、肖像も、ゴッホの眼を通して眺められると、ゴッホ自身の内面の世界の投影に変貌してしまう。そのような内面的な世界を他人に伝える手段として、あの強烈な色彩があった。ゴッホにおいては、色はそのまま魂の鼓動を伝えるものであったといわれる。
また、このようなゴッホの色彩は、20世紀の表現主義的傾向を予示するものとなった。1901年、ゴッホの回顧展が開かれた時、その会場を訪れたヴラマンクは、そこから深い啓示を受けた。ゴッホは、その色彩表現を通じて、20世紀絵画の流れの重要な源泉のひとつとなったと高階氏は理解している。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、168頁~176頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
ゴッホは悲劇の画家である。
印象主義の歴史の最終局面にちらっと登場し、あっと言う間に印象派を越えて、燃え上がるような色彩の独自の画風を確立した。しかし、37歳の若さで命を絶った。
先述したように、画家としての活躍はたかだか10年である。その過酷な人生とすばらしい絵画は、日本では明治末年、白樺派の紹介によって知られ、純粋な芸術家として敬愛された。その強烈な絵と劇的な人生は、今もって人を魅了してやまない。
バブルの1987年3月、ロンドンのオークションでゴッホの「ひまわり」が2475万ポンド(約58億円)で落札され、戦後の美術市場の最高値を圧倒的に上回ったことは、存命中は1点しか売れなかった、この画家の悲劇性を強く印象づける大事件となったと小島英煕氏は捉えている。
さて、ゴッホのコレクションは、ゴッホの弟で画商のテオ(テオドルス)に残された遺産が主体になった母国オランダのゴッホ美術館やクレラー・ミュラー美術館が豊富である。
それに比べて、オルセー美術館の場合は数が限られる。というのは、画家の晩年に付き合いのあったガシェ博士の遺贈コレクションを中心に発展したものだからである。
それでも、代表作の「自画像」(1889年)、「ガシェ博士の肖像」(1890年)、「オーヴェールの教会」(1890年)を始め、多くの作品が所蔵されている。
小島氏は年代順に、オルセー美術館のゴッホの作品を挙げている。
<初期>
〇「オランダの農婦の頭像」(1884~85年)
〇「かまどの傍らの女」(1885年頃)
<パリ時代>
〇「アニエールのレストラン、シレーヌ」(1887年)
〇「銅壺のあみがさ百合」(1887年)
〇「自画像」(1887年)
〇「イタリア女」(1887年)
<アルル時代>
〇「ジプシーの家馬車」(1888年)
〇「ウージェーヌ・ボックの肖像」(1888年)
〇「アルルのダンスホール」(1888年)
〇「アルルの女」(1888年)
<ゴーギャンと共同生活をした時期>
〇「アルルの寝室」(1889年)~「黄色い家」の寝室を描いた絵
<精神病院に入院した時期>
〇「サン・レミの病院」(1889年)
<ミレーの模写>
〇「昼寝」(1889~90年)
<オーヴェール・シュル・オワーズに行ってからの作品>
〇「庭のマルグリート・ガシェ」(1890年)
〇「コルドヴィルの藁葺き屋根の家」(1890年)など
それらの作品を見ていくと、ゴッホの作風が10年という短い期間に、劇的な変遷をとげて来ているのが分かる。
それぞれの時代に傑作が生まれたが、それはゴッホの生き方そのものであった。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、120頁~123頁)
【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】
活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)
先述したように、小暮満寿雄氏はオルセー美術館所蔵の名作として、ゴッホの『オーヴェールの教会』(1890年)を紹介していた(小暮、2003年、237頁~240頁)。
ここでは、西岡文彦氏の『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)に拠りながら、ゴッホの作品とタッチについて解説しておきたい。
晩年の名作『オーヴェールの教会』は、ゴッホの最後の滞在地となったパリ郊外の村で描かれた。
特有のうねるような線と強烈な色彩が、異国風の独自の建築様式を錯覚させる。しかし、モデルとなった建物は、驚くほどに普通の教会であるそうだ。
晩年のゴッホの画風の代名詞となった渦巻くタッチは、反復する発作に、みずからすすんで入院したサン・レミの精神病院で確立したものである。
そうした事情も手伝って、この渦巻きを不安な内面の反映する見方が一般化し、作品は聖書や文学を引き合いに無数の解釈を生み出している。
しかし、こうした文学的な解釈はゴッホの物語を劇的にはしても、タッチの意味するものを実感として納得させてはくれないと西岡氏は批判している。つまり、直線も平気で曲げて渦巻くゴッホ晩年のタッチがどのような造形的な根拠をもつのかを教えてくれない。
そこで、この造形的な根拠を明かす資料として、西岡氏が注目するのが、ゴッホの素描である。謎の渦巻きの発生源を、これほど明瞭に物語ってくれる資料はないという。
素描の変貌を見ると、ゴッホの渦巻きはアルルの炎熱から生じていると西岡氏はみている。
ゴッホのペン画の線が、風にそよぐ木の葉や打ち寄せる波ではなく、本来、揺らぐはずのないものを描いて揺らぎ始めるのは、アルルの夏からである。
その最初の揺らぎが、8月なかばに描かれた積み藁に生じている。積み上げられた藁束は、かがり火のように激しくうねり、渦を巻いている。例えば、次のような作例がある。
〇ゴッホ『積み藁』1888年 ブダペスト、国立美術館
アルルの炎天下に描かれた積み藁の素描である。藁を描くタッチが晩年の渦巻くタッチを予見するようなうねりを見せている
〇ゴッホ『木のある岩』1888年 ゴッホ美術館
『積み藁』と同時期に描かれた素描である。タッチはまだ直線的ながら、遠景の木の枝のみがかすかに渦巻いている
炎暑で生じた陽炎が実際に積み藁を揺らいで見せたのか、あるいは炎天下のゴッホの幻視を反映した意匠なのか、これ以降、急激にゴッホの筆致は揺らぎ始める。
そしてこの渦巻くタッチが、ドラクロワ、モンティセリゆずりの強烈な色彩を得た時に、ゴッホ晩年の独自の画風が出現する。
ところで、ゴッホの手紙には、アルルの強烈な陽光を見慣れた目で、なお色彩が輝いて見える画家はドラクロワとモンティセリのみだと書いてあるそうだ。
光栄にもゴッホが、このドラクロワと対比させた日本の画家がいる。幕末の浮世絵師、「画狂人」こと葛飾北斎である。ゴッホの手紙に、この北斎以外に名前の登場する浮世絵師はいないという。
この北斎の描く波に驚嘆したテオに、ゴッホは、限られた色彩で驚くべき効果を上がるドラクロワの素描の、同じ効果を線で表現しているのが北斎だと書いている。
抑揚に富んだ北斎の線の表現力は驚異的であるといわれる。その表現力は、墨一色で刷った木版画で真価を発揮している。画面でその線は、ゴッホさながらにうねり、渦巻いている。例えば、北斎の次の作品である。
〇葛飾北斎『北斎漫画』1817年
阿波鳴門の海に渦巻く波の描写が圧巻である。過剰とも思える描写で画面を埋め尽くすタッチの迫力は、他の浮世絵師には見られない特徴であると西岡氏は指摘している。
陽炎に揺らぐゴッホの素描に劣らず、北斎の線もまた濃厚な空気感に揺らぎ渦巻いていた。
うねり渦巻くタッチに加えて晩年のゴッホを特徴づけているのが、そのタッチの寸断である。早描きの線が、生乾きの下地を引きずって色を変わる前に中断されたために生じた寸断であると考えられている。
この寸断された色彩が渦を巻くのが、有名な『星月夜』と『糸杉のある麦畑』である。
〇ゴッホ『星月夜』1889年 ニューヨーク近代美術館
渦巻くような夜空と燃え上がるような糸杉が描かれる。ゴッホの最も有名な作品のひとつである。
〇ゴッホ『糸杉のある麦畑』1889年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
燃え上がるような糸杉とうねる雲にゴッホ晩年の特有のタッチが見える。
このように、燃え上がるような糸杉や渦巻くような夜空を描いて、ゴッホ様式がまったく独自の境地に到達している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、116頁~126頁)
【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】
二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
ここでは、小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』を取り上げることによって、ゴッホの理解を深めてみたい。
文芸評論家の饗庭孝男氏は『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)の「第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』」において、小林秀雄の『ゴッホの手紙』について批評している(饗庭、1997年、228頁~258頁)。
そもそも、小林秀雄の『ゴッホの手紙』とは、どのような著作なのかをまず説明しておこう。
昭和22年3月、読売新聞社主催、文部省後援によって、「泰西名画展」が開かれた。小林秀雄はここでゴッホの複製画を見た。その感動が翌23年に書き始められ、雑誌『文体』に載せられる『ゴッホの手紙』となる(のちに、昭和26年から『芸術新潮』に14回の連載)。
小林は、次のように書いている。
「それは、麦畑から沢山の烏が飛び立つてゐる画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であつた。尤もそんな事は、後で調べた知識であつて、その時は、たゞ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、たうとうその前にしやがんみ込んで了つた。」
小林が見たという複製の絵は、『麦畑の上を舞う烏』(1890年7月9日以前、現在ラーレンのゴッホ・コレクション蔵)である。小林が見た複製画は宇野千代の尽力で、後に小林の手元に届けられることになる。『文体』は、この宇野千代らが出していた雑誌であったそうだ。
小林秀雄の『ゴッホの手紙』は、この画家の複製画の感動から出発し、その「精神」を弟テオ宛の書簡集(1872~1886年)によりながら浮彫りにしようと試みたものである。
(後年に小林がオランダのクレラ・ミュラーで見た例の麦畑の絵の原画に接した時に、「この色の生ま生ましさは、堪え難いものであった」と感想を記している)。
小林は、ゴッホの手紙を告白文学の傑作と考えて、それに基にして、ゴッホ像を浮き彫りにし、その作品を解説している。
小林は、ゴッホの手紙を引用しつつ、その絵について、丁寧に解説を加えている。例えば、有名な≪糸杉≫の絵について、取り上げている。まず、ゴッホの手紙を引用している。
「僕の考へは絲杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、絲杉で作り上げたいと思つてゐる。僕が現に見てゐる様には、未だ誰も絲杉を描いた者がないといふ事が、僕を呆れさせるからだ。線といひ均衡といひ、エヂプトのオベリスクの様に美しい。緑の品質は驚くほど際立つてゐる。太陽を浴びた風景中の黒の飛沫だが、その黒の調子は、僕に考へられる限り、正確に叩くには最も難かしい音(ノオト)だ」(No.596)
アルル時代の≪向日葵≫よりの明らかな前進であると小林は捉えている。
〇ゴッホ≪糸杉と果樹(糸杉のある麦畑)≫1889年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
線は素速く、柔軟に動き、微妙な旋律を追い、色調による音域は増大して、いよいよ複雑な和音を伝えるようであると、小林は分析している。
当時の手紙から推察すれば、ゴッホの夢想は、しばしばエジプト芸術の上を馳けている。オベリスクの驚くべき均衡を想ったゴッホは、エジプト人の太陽を想っている。ゴッホの千里眼のようなナチュラリストの眼は、ゴッホの言う「清浄な静かな、聡明な優しいエジプトの王様」を見たかもしれないと小林は想像をめぐらしている。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、172頁~174頁)
小林によれば、ルネサンスの画家による遠近法の発見は、あるがままの世界から見えるがままの世界へ、精神の確実性から視覚のイリュージョンへ飛び移る道を開いたという。
このいわば、美学上の懐疑主義は、印象派の出現に至って、観念から感覚への飛躍を完了した。世界は、色の反映と波動との限りない多様性となったとされる。
ところで、ゴッホは、アントワープに移る前、アムステルダムの国立美術館を訪れ、オランダの巨匠達の絵から感動を受ける。当時の手紙は、ドラクロアの色彩論による彼らの色調の分析でみたされていると小林は述べている。
手紙から推察すれば、ゴッホを動かしたのは、まずドラクロアの色彩論の印象派の先駆としての性質だったといわれている。
これは、ゴッホの天賦の視覚の鋭敏が直ちにこれを応じた事であり、ゴッホが苦しんだのは、色彩のもっと本質的な問題であったと小林はみている。色の明るい暗いなどに問題があるわけはないという。ゴッホは手紙に次のように記している。
「現代の明るい絵など近頃殆ど見てゐない――、だが問題そのものはとことんまで考へたのだ。コロー、ミレー、ドービニイ、イスラエル、デュプレ其他の人だつて明るい絵は描いてゐるのだよ。といふ事はかういふ事だ、人間はどんな隅々までも、どんな深さまでも、見透す事が出来るのだ、たとへ、色彩の段階がどんなに深からうと」(No.405)
「絵画に於ける色彩とは、人生に於ける熱狂の様なものだ。こいつの番をする事は、並大抵の事ではない」(No.443)
「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ。自然の色から出発するな」(No.429)
ドラクロアから、ある物に固有な色彩というものはない、ということをゴッホは学んだようだ。
ゴッホにとって色彩の問題は、外部から知覚に達する色彩ではなく、これに画家の精神が暗黙のうちに付与する内的な意味合いである。つまり色彩は誰にでも知覚されるが、色彩による表現は画家だけに属する。表現するとは自然に対抗して、ゴッホの言葉では、créer, agir(創り、行う)事である。そして、ゴッホは上記に引用したように、「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ」と言い切るまでに至ると、小林は解説している。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、72頁~75頁)
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ゴッホの手紙
ところで、小林秀雄はゴッホの手紙を引用しつつ、丹念にゴッホ像を描いているが、饗庭孝男氏はこのゴッホ像には、「民衆」の観念が、「階級」的視野とともに欠落していると批判している。この点について、説明してみよう。
ゴッホは、その生涯をつうじて、ほぼ同じ時代を呼吸した自然主義のゴンクール兄弟、ゾラ、モーパッサン(ゴッホより3歳下にすぎない)、少し前のレアリスムに属するバルザック等を読んでいた。
彼らの精緻な観察と分析は、ゴッホの手紙に多くの共感と賞讃のあとをのこしている。ゾラの『ジェルミナール』『居酒屋』、モーパッサンの『メゾン・テリエ』等が、ゴッホの前半における写生のレアリスムの時代をとおしてだけではなく、アルルの時代にも「自然」と労働者、農民の生活への同化と共鳴に大きな役割を果たした。
ゴッホが1881年、従姉妹ケーに求婚して拒否されるや、身重の娼婦クリスティンと同棲する動機は、自らが所属する中産階級のインテリから、すすんで自己を疎外するとともに、下の庶民階級への精神的同化を果たそうと試みた体験であったと言うことができると饗庭氏はいう。
そして、それは芸術家の「社会」における自己疎外と違和の問題と重なりながら、ミシュレの「民衆」の観念にたいする共鳴ともむすびつき、彼の生きた時代の思想の大衆化現象(自然主義)の一つのあらわれと饗庭氏は見ている。
このことは同時に、画家ミレーの倫理的な絵画ともひびき合っていたにちがいないとする。
ゴッホはそこに単に福音書的意味を見たのではなかった。そこには、レアリスムから自然主義へ移行する文学の営みとともに、貧しい印刷工から身をおこしたミシュレの「民衆」の観念にみられる労働をとおしたユマニスムにかようものがあったと解釈している。
ミレーの「働く人たち」の素描をくりかえし写すことはゴッホにとって、労働と「民衆」の観念を体現することでもあったとする。
さらに、ミシュレの書物、『愛』の裡に、愛する女のなかに自由な現代的な魂を創造すること、偏見から女を解放するという教えを読んで、ケーやクリスティンに向かった事実も、先のことと無縁ではないと推測している。
それがゴッホにとっていかに観念的であったにせよ、時代の思考と深く共振するものを感じていたことに注目する必要があると饗庭氏は主張している。
このことが同じくユゴーの『レ・ミゼラブル』にたいするゴッホの感動につながっているはずであるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、243頁~244頁)
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小林秀雄とその時代 (小沢コレクション)
ところで、小林秀雄は『近代絵画』(新潮社、1958年)において、ゴッホとセザンヌとの違いについて言及している。
ゴッホは、死ぬ前の手紙の中で、「自分は仕事に生命を賭した」と書いている。ゴッホの最期を看取った医者のガシェは、「芸術に対するゴッホの愛と言ふのは当らない。それは信仰、殉教まで行つた信仰だつたと言ふべきだ」と言っているが、そういう言葉なら、セザンヌにも、一応当てはまったかもしれないと小林はいう。
しかし、ゴッホが、セザンヌのような画家と大変異なっていたところは、絵の仕事は、遂にゴッホという人間を呑みつくす事はできなかったというところであると小林は述べている。
これは、普通の意味で、ゴッホが自分の絵に不満を持っていたとか、自分の持っていたものを表現しきれずに終わったとかいう事ではない。この画家のもっと深い生き方、彼に固有の運命的なものに関わるものであると断っている。
セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、絵のうちに吸収され、集中されていたようだ。また、セザンヌの書簡集は、その絵にくらべれば、全く言うに足りぬ表現で、その絵を照らすような意味合いは、ほとんど見当たらないとみている。そして、セザンヌが絵のモチーフという場合、それは、いわば、世界は一幅の絵となるためにあるという意味であった。
一方、ゴッホという熱狂的な生活者では、生存そのものの動機に強迫されて、画家が駆り出されるともいえるとする。ゴッホという人間を知る上で、その書簡集が大変重要なのは、単にそれがゴッホの絵の解説であるがためではない。書簡と絵とが、同じ人間のうちで、横切り合うからであると小林はみる。
(小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年、94頁~95頁)
このように、小林は、ゴッホの絵と書簡集に関して、卓見を述べている。しかし、この小林の著作『近代絵画』に対しても、饗庭氏の批判がある。
小林の『近代絵画』は、「ボードレール」「セザンヌ」「ゴッホ」「ゴーガン」「ルノアール」「ドガ」「ピカソ」の8章から成り立っている。「人間劇」という観点からすれば、「ゴッホ」「ゴーガン」には、その色彩がつよいとされる。
だが、巨視的に見れば、絵画をとおして「近代」がどうあらわれたか、という問題意識がもっとも目立つ。
詩から詩でないものを排除したとするボードレールの、自覚的な言語感覚とパラレルに、ドラクロワ論を土台にして、絵画における自立性を序章にすえたのも、その目配りによるものであるようだ。
しかし、具体的に言って、「近代」のはじまりにレンブラントの『夜警』を挙げる。この画家が、アムステルダムの射撃隊の二十人余りの組合員からの注文にもかかわらず、二人の士官を肖像画らしく仕上げたものの、あとは暗い背景におとしこんだとして、その理由を「美しい画面を構成したという画家の本能」におき、そこに画家の自立をのべた。この点は、小林が1947年以後、洗練された絵を見ているにもかかわらず、参考書を読んで書いたためにおこった間違いであるという。
むしろ、小林はドラクロワの「色彩」が「主題」にまさる絵を挙げることからはじめるべきであったろうと饗庭氏は批判している。
(饗庭、1997年、250頁)
ところで、このゴッホへのドラクロワの影響については、先述したように、小林秀雄氏も触れていた。この点、西岡文彦氏が詳しく解説しているので、紹介しておこう。
ゴッホには、「補色」という効果を応用した次のような絵がある。
〇ゴッホ『夜のカフェ』1888年 ニュー・ヘヴン、イエール大学美術館
すさまじいばかりの絵の具の盛り上げが、赤と緑の補色の効果を劇的にしている
〇ゴッホ『パイプをくわえた自画像』1889年
赤い背景と緑の上着、橙の背景と青い帽子が補色の対比を見せている
補色は、色彩が最も強烈な対比を見せる組み合わせである。三原色の赤・青・黄に、それぞれ他の二原色を混ぜた緑・橙・紫が補色となる。つまり、赤の補色は緑(黄色+青)、青の補色はオレンジ(黄色+赤)、黄色の補色は紫(赤+青)である。
補色の効用は、互いの色彩を強化するとことにある。画家で最初に補色を理論化したのはドラクロワといわれている。ドラクロワは、ルーヴルから出て来た黄金の馬車の黄色い輝きが紫の残像を引くのを見て、この色彩の効果に気づいたという。
色彩が相互に輝きを与え合うゴッホの配色は、このドラクロワの補色理論を基本にしていると西岡氏は強調している。つまり、印象派の原点ともされるのが、この19世紀ロマン派絵画の旗手ドラクロワだという。いまや古典名画を代表する画面が、当時の目には度肝を抜く原色のぶるかり合いに見え、波打つような独特のタッチが人々を驚かせた。
奔放なタッチと荒れ狂う色彩は、当時の画壇の帝王アングルの写実描写と真っ向から対立した。両者の画風は、「色」対「線」の対決として画壇をにぎわせた。
二人を取り上げた戯画が残っている。彩色用の太筆をかざしたドラクロワが、線描用の細筆をかざしたアングルに、さながら騎士の槍試合を挑んでいる対決風景を描いたものである。アングルの細筆は、事物を背景から厳密に隔てる輪郭線を描く筆を表しており、ドラクロワの太筆は、事物と背景を同じ色彩の奔流として描く筆を表しているそうだ。
ドラクロワの革新的な画風は、「絵画の虐殺」とまでいわれた。
この「虐殺」に続いて、ヨーロッパ絵画の伝統にどどめを刺したのが、印象派である。
その光と色彩の大海は、ドラクロワの描く水滴から生じたとされている。これは、出世作『ダンテの小舟』(1822年、ルーヴル美術館)の地獄の亡者の体に、赤、黄、緑、白の独立した点が描かれた水滴のことである。画面から離れて眺めると、ひとつに融合して輝くようになっていた。この水滴に印象派の色彩に先駆するタッチが見えるとされる。
絵の具を混ぜて生じる濁りを避けて、見る者の視覚のなかで混色するこの手法は、印象派の手法の基本をなすものであった。
さざ波のような筆致で描くモネの睡蓮も、震えるような色彩のルノワールの少女像も、カラー印刷のアミ点のようなタッチのスーラの風景も、この水滴の延長上に生じた技法であると西岡氏は解説している。
ドラクロワはこの手法のヒントをどこから得たのか?
それは、2世紀前のバロックの巨匠ルーベンスが描いた女神の肌の水滴だそうだ。
〇ルーベンス『マリー・ド・メディシスのマルセイユ到着』1625年頃、ルーヴル美術館
ルネサンス風の写実描写としか見えないルーベンスながら、間近に見る巨大な画面は、無数の色彩の集積である。肌色のひとつを、緑と青と赤と黄色と白の細かいタッチで塗り込めて、驚くほど豊かな色彩としている。その肌色に照り映えた水滴が、ドラクロワの水滴となって、印象派の色彩を準備したと西岡氏は理解している。
ドラクロワの色彩理論に感動したゴッホが、アントワープへ向かった大きな目的のひとつに、このルーベンスを見ることであったといわれている。このドラクロワの色彩のルーツに触れた後、ゴッホはパリで、ドラクロワの復活としての印象派に出会う。
ハルスのタッチとルーベンスの色彩に触れたゴッホは、パリで浮世絵と印象派の洗礼を受け、モンティセリの豪放な画風に心酔する。
この後、「日本人がやり残したこと」を成就するために、「南仏の日本」アルルに向かい、独自の画風を切り開いたのである。
(この西岡氏の解説は、ルーヴル→オルセー、そしてルーベンス→ドラクロワ→ゴッホという流れがよりよく理解できる解説で、傾聴に値する)
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、108頁~115頁)
【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】
二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
最後に、ゴッホの≪オーヴェール=シュル=オワーズの教会≫(L’église d’Auvers-sur-Oise)という作品のフランス語の解説文を読んでみよう。
〇Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.に次のような解説文がある。
Vincent Van Gogh 1853-1890
L’église d’Auvers-sur-Oise, vue du chevet (1890)
Après son internement à
l’asile de Saint-Rémy-de-Provence,
Van Gogh revint dans la région
parisienne. Il s’installa à Auvers-
sur-Oise auprès du docteur Gachet,
spécialiste des maladies nerveuses,
mais aussi amateur d’art et ami des
impressionnistes. De Provence, Van
Gogh avait rapporté le souvenir de
la lumière méditerranéenne. Mais
alors que le soleil semble inonder
les abords de l’église et projeter
une ombre nette sur les chemins
du premier plan, le ciel, très foncé,
crée un effet de nocturne. « J’ai un
grand tableau de l’église du village,
un effet où le bâtiment paraît
violacé contre un ciel d’un bleu
profond et simple, de cobalt pur ;
les fenêtres à vitraux paraissent
comme des taches bleu outremer,
le toit est violet et en partie orangé.
Sur l’avant-plan, un peu de verdure
fleurie et du sable ensoleillé rose. »
(Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.)
【語句】
Auvers-sur-Oise オーヴェール=シュール=オアーズ(ママ):パリ北西郊、オアーズ川沿いの町。19世紀末、ドーヴィニー、コロー、セザンヌなど多くの画家が住む。ゴッホの墓がある。(『仏和大辞典』より)
※なお、Auvers-sur-Oiseの読み方、表記法には幾通りかある。このブログでは統一していない。
chevet [男性名詞](教会堂の)後陣(apse)
son internement [男性名詞]拘禁(internment)、(精神病院などへの)監禁、強制収容(restraint)
l’asile [男性名詞]収容所(asylum)
(cf.) asile d’aliénés 精神病院(lunatic asylum, mental hospital)
Saint-Rémy-de-Provence サン=レミ=ド=プロヴァンス:マルセイユの北西方、アルル北東の町。ゴッホが一時収容された精神病院がある。
Van Gogh [発音:ヴァンゴッグ]ファン・ゴッホ(1853~1890);オランダの画家
revint <revenir再び来る、戻ってくる(come back)の直説法単純過去
la région [女性名詞]地方、地域(region)
région parisienne パリ都市圏(パリ市とその周辺)(the Paris area)
Il s’installa <代名動詞s’installer (àに)居る(settle)、身を寄せる(settle in, set up house)の直説法単純過去
auprès de ~のそばに(close to)、~付きの(to)
spécialiste [男性名詞、女性名詞]専門家、専門医(specialist)
maladie [女性名詞]病気(disease)
nerveux(se) [形容詞]神経の(nervous) maladie nerveuse 神経病
amateur [男性名詞](女性にも用いる)愛好家、ファン(lover)
amateur d’art 芸術愛好家(art lover)
impressionniste [男性名詞、女性名詞]印象派の画家(impressionist)[形容詞]印象派の
Provence [女性名詞](南仏の)プロヴァンス[地方]
avait rapporté <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(rapporter)直説法大過去
rapporter 持ち帰る(bring back)
le souvenir [男性名詞]思い出、形見、みやげ(memory, souvenir)
la lumière [女性名詞]光(light)
méditerranéen(ne) [形容詞]地中海の(Mediterranean)
alors que +直説法 ~の時に(when)、~であるのに(while)
le soleil [男性名詞]太陽(sun)、日光(sunlight)
semble <sembler ~のように思われる、~らしい(seem)の直説法現在
inonder 氾濫する、あふれさせる(flood)
abord [男性名詞]接近(access)、[複数]周辺、付近(surroundings)
projeter 企てる、投影する(project)
projeter une ombre 影を映す(投ずる)(cast a shadow)
net(te) [形容詞]はっきりした、鮮明な(clear, neat)
chemin [男性名詞]道(path, way)
plan [男性名詞]面(plane)、(絵画の)景(ground)
premier plan 前景(foreground)
le ciel [男性名詞]空(sky)
foncé (←foncerの過去分詞)[形容詞]濃い、暗い(dark, deep)
crée <créer創作する(create)の過去分詞
un effet [男性名詞]結果、効果(effect)
nocturne [男性名詞](美術)夜景画(nocturne, night scene)、[形容詞]夜の(nocturnal)
J’ai <avoir持つ、持っている(have)の直説法現在
l’église [女性名詞]教会(church)
un effet [男性名詞]効果(effect)
le bâtiment [男性名詞]建物(building)
paraît <paraître+属詞 ~のように見える、~らしい(seem)の直説法現在
violacé [形容詞]紫がかった(purplish)
profond [形容詞]深い、濃い(deep)
cobalt [男性名詞](化学)コバルト(cobalt)、コバルトブルー
pur [男性名詞]純粋な(pure)
fenêtre [女性名詞]窓(window)
vitrail(複~aux) [男性名詞]ステンドグラス[の窓](stained glass[window])
paraissent <paraître+属詞 既出 直説法現在
tache [女性名詞]しみ(spot, stain)
outremer [男性名詞]群青色、ウルトラマリン(=bleu ~)(ultramarine)
le toit [男性名詞]屋根(roof)
est <êtreである(be)の直説法現在
violet [形容詞]紫色の(purple, violet)
partie [女性名詞]部分(part)
→en partie部分的に(in part, partly)
orangé [形容詞]オレンジ色の(orange-colo[u]red)
avant-plan avant [男性名詞]前部(forepart, front)、[形容詞]前の(front, fore)
plan (絵画の)景(ground)
un peu de 少量の、若干の(a little of, a bit of)
verdure [女性名詞](草木の)緑(greenness, verdure)、緑の草木(greenery)
fleuri(e) (←fleurirの過去分詞)[形容詞]花が咲いている(in bloom, in flower)
sable [男性名詞]砂(sand)
ensoleillé (←ensoleillerの過去分詞)[形容詞]日が当たっている、晴れた(sunny, sunlit)←soleil(太陽)から
【Musée d’Orsay はこちらから】
【Musée d’Orsay guide】
Musee d'Orsay, guide
≪試訳≫
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)
≪オーヴェール=シュル=オワーズ教会 後陣の眺め≫
サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院を出た後、ファン・ゴッホはパリ近郊に戻って来た。彼は、オーヴェル=シュル=オワーズに身を寄せ、ガシェ博士に付いた。ガシェ博士は、神経病の専門医であるだけでなく、芸術愛好家で印象派の画家の友人でもあった。プロヴァンス地方から、ファン・ゴッホは地中海の光という思い出を持ち帰った。しかし、日光は教会の周辺にあふれ、前景の道の上にはっきりした影を映しているように思われるのに、空は大変暗く、夜景画のようである。
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。
フランス語の解説文にもあるように、本作の前景は太陽に明るく照らされているが、教会は自身の影の中にたたずみ、光を反射することも放射することもない。
また、別れ道のモチーフは、≪カラスのいる麦畑≫(Champ de blé aux corbeau、1890年、ゴッホ美術館、アムステルダム)にも現れている。
ところで、上記のフランス語の解説部分での引用部分は、ゴッホの手紙に基づいているようだ。つまり、
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。」
これは、ゴッホが妹ウィルヘルミナに宛てた手紙(1890年6月5日)の中で、記してあることだそうだ。
上記の続きには、次のようにある。
「私がニューネンで、古い塔と墓地を描いた習作とほぼ同じ内容で、ただほんの少し色彩豊かで金がかかっているというだけである。」
この手紙にもあるように、ゴッホは、オランダのニューネンで同様の作品≪ニューネンの古い教会の塔≫(1855年、ゴッホ美術館)を描いていたとされる。
(Wikipediaの「オーヴェルの教会」の項目を参照のこと)
ところで、周知のように、オーヴェール=シュル=オワーズには、ゴッホの墓がある。
西岡文彦氏は、『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)の執筆に先立って、そのゴッホと弟テオの墓前に出かけたそうだ。
西岡氏は、その著作において、「結 墓碑銘――オーヴェールの鳥の巣」(146頁~155頁)と題して、次のようなゴッホのエピソードを紹介している。
ゴッホの自殺の1カ月半ほど前の6月10日、テオ夫婦は子供を連れて、オーヴェールのゴッホを訪ねている。
この時、ゴッホは、鳥の巣を手に駅まで迎えに来たという。鳥の巣は、自分の名前を持つ生後4カ月の甥のおもちゃに用意してきたものであった。
この鳥の巣にゴッホは格別の愛着を抱いていた。入院先から母親に宛てた手紙にも、この頃しきりに故郷を思い、木の上にあったカササギの巣をはっきりと思い出すと書いている。
この甥フィンセント・ウィレムは、のちにゴッホ美術館を建てることに尽力する。この美術館は、断固として売却に応じず自宅に作品を所蔵し続けた甥が、ゴッホを愛する人々のために建てた、世界最大規模の個人美術館である。フィンセントはこの美術館の実現のために、所蔵するゴッホの全作品を破格の安価で国に譲渡している。
このゴッホ美術館は、オーヴェールで贈られた鳥の巣の返礼に、フィンセント・ウィレムが亡き伯父に贈った魂の巣であるかもしれないと西岡氏は記している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、146頁~155頁。なお、テオ夫婦のオーヴェール訪問については、小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、210頁にも記載がある)
【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】
二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
(2020年7月28日投稿)
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小暮満寿雄『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』
【はじめに】
今回のブログでは、ゴッホの画風や人物像を探ってみたい。
まず、ゴッホの生涯と絵画について、高階秀爾『近代絵画史(上)』(中公新書、1975年[1998年版])により、概観する。
次に、オルセー美術館のゴッホ作品について、小島英煕『活字でみるオルセー美術館』(丸善ライブラリー、2001年)をもとに、みておきたい。
ゴッホのタッチおよびドラクロワとの影響関係については、西岡文彦『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)をもとに考えてみたい。
また、小林秀雄の著作『ゴッホの手紙』と『近代絵画』にも、ゴッホについて言及しているので、その内容および批判点を合わせて紹介しておきたい。
最後に、オルセー美術館所蔵であるゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫について、フランス語の解説文を読んでみたい。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ゴッホの生涯と苦悩と絵画
・オルセー美術館のゴッホ作品
・ゴッホの渦巻くタッチ
・小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
・ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ
・ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む
【読後の感想とコメント】
ゴッホの生涯と苦悩と絵画
ゴッホ(1853~1890)の生涯は、わずか37年の短いものであった。しかも、最初、画商や本屋の手代や伝道師を志したゴッホが、画家として生きたのは、修業時代までをふくめて、ようやく10年ほどの期間にすぎなかった。
もしゴッホが本当にゴッホになった時期、すなわち、他の誰も真似することのできない、あの強烈な色彩と独特な様式を確立したアルル時代から数えるなら、その活動期間は3年にも満たない。
しかしゴッホは、それほどまでに短い生涯の間に、彼自身憧れていた、あの南フランスの燃えさかる太陽のように、生命を燃焼させ、驚くべき数の作品を生み出した(そして静かに自ら生命を絶った)。
ゴッホが、かなり遅くなってから絵画に身を捧げるようになったのは、彼が自己を生かす道を求めて模索してきたからである。ゴッホは、セザンヌのように、絵画のために生きた人ではない。むしろゴッホにとって、生きるために絵画が必要だったとされる。
そもそもゴッホの激しい生命力は、自己のすべてを捧げて仕える対象を必要とした。ゴッホは、愛さずには生きていけない人間であった。しかし、彼のその愛はあまりにも強烈であるので、つねに手厳しく相手から拒否された。ゴッホが最初の情熱を燃やしたロンドンの下宿屋の娘アーシュラも、彼が自分の身体を痛めつけてまで心のうちを伝えようとした相手である従妹の“K”も、その「愛」を受け入れなかった。
ゴッホが伝道師を志してベルギーでも最も貧しいボリナージュの炭坑に赴き、坑夫たちと同じように厳しい生活をしながら熱心に道を説いた時でも、人々は、気味悪がって彼を避けた。
また、ゴッホは南フランスのアルルで、共通の理想に燃える芸術仲間が集まって共同で制作に励むというユートピアを夢みた。そして、パリの仲間に呼びかけた時、やって来たのはゴーギャンただひとりであった。そのゴーギャンとの共同生活も、わずか2か月ほどで、あの悲劇的な破局を迎える。
ゴッホの「愛」は激しく抑制のきかないものであったために、冷たく拒否された。ゴッホの悲劇は、報われぬ愛の悲劇だったと高階氏はいう。
さて、ゴッホはオランダのフロート・ツンデルトに、プロテスタントの牧師の息子として生まれた。曲折を経た後に、1879年ごろ、ようやく絵画を志す。
1886年の2月、ちょうど印象派の最後の展覧会が開かれる年にパリにやって来るまでは、いわばゴッホの修業時代であった。この時期、ゴッホはまだあの後年の強烈な色彩を見出していない。逆にねっとりとした暗い色調で、農民や機織工など、ミレーを思わせる働く人々の主題を好んで描き出した(事実、この時期に熱心にミレーの模写をしている)。
パリでは、まずコルモンのアトリエに学んだが、ピサロを通して印象派を知るにおよんで、急速に明るい色彩に目覚めていくようになる。一時は、新印象派の分割主義にも惹かれたが、ひとたび色彩の持つ感覚的な魅力に取り憑かれると、いっそう明るい太陽に憧れて、ちょうど2年後、1888年の2月にアルルに赴いた。もちろん、すでにパリに来る前から知っていた日本の浮世絵版画の影響も、この南仏行きに大きな役割を果たした。
1888年10月にゴーギャンがやって来て、クリスマスにあの不幸な衝突と耳切り事件が起こるまで、この年の夏が、ゴッホの短い生涯において、いちばん落ち着いた、安定した時期であったようだ。太陽の輝きに憧れたゴッホは、太陽の光の強烈な夏の時期に最も創作意欲をかきたてられ、憑かれたように作品を描き続けた。
しかし秋とともに悲劇は始まった。10月にゴーギャンがやって来た時には、ゴッホは大喜びで迎えたが、あまりに強いふたりの個性は衝突が避けられなかった。激しい口論の後、耳切り事件が起こり、ゴッホは病院へ、ゴーギャンはそのままパリに発ち、共同生活は破綻した。この時から、ゴッホの神経症の発作は激しいものになる。
1889年5月から、サン・レミの病院で神経を療養する身となる。アルル時代がゴッホの古典主義時代であったとすれば、サン・レミ滞在の時期は、いわばゴッホのバロック時代であったと高階氏は捉えている。
事実、激しく捩れながら燃え上がる糸杉、波打つような山脈、大地全体が震えている麦畑などが、その画面を特徴づけている。
(ただ、冬になると、ゴッホの情熱はまたもやそのエネルギーを失って深い絶望が襲った)
1890年5月、南フランスを去って、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズに落ち着く。しかし、今度は夏の間生き抜くだけの力ももはや持ってはいなかった。
それでもなお多くの忘れがたい作品を残した後、7月27日、烏の飛ぶ麦畑の見える裏の丘で、自ら拳銃を自分の身体に射ちこむ。ガシェ博士の手当を受けながら、2日後に世を去る。
ところで、ゴッホは南フランスから弟のテオに宛てて、次のように書き送っている。
「私は赤と緑とで、人間の恐ろしい情念を表現したい」
ゴッホは、その晩年の3年間において発見したものは、強烈な色彩の持つ表現力であった。ゴッホにとっては、そのカンヴァスの上で、輝く赤や緑や黄色は決して外の自然をそのまま写し出した色ではなく、むしろ、自身の心のなかの世界を反映したものであった。ゴッホが描き出す世界は、印象派の求めたような「自然の断片」ではなく、悲しみや恐れや喜びや絶望など、さまざまの情念の色に染め上げられた人間の心の深淵の世界であった。風景も、静物も、肖像も、ゴッホの眼を通して眺められると、ゴッホ自身の内面の世界の投影に変貌してしまう。そのような内面的な世界を他人に伝える手段として、あの強烈な色彩があった。ゴッホにおいては、色はそのまま魂の鼓動を伝えるものであったといわれる。
また、このようなゴッホの色彩は、20世紀の表現主義的傾向を予示するものとなった。1901年、ゴッホの回顧展が開かれた時、その会場を訪れたヴラマンクは、そこから深い啓示を受けた。ゴッホは、その色彩表現を通じて、20世紀絵画の流れの重要な源泉のひとつとなったと高階氏は理解している。
(高階秀爾『近代絵画史(上)』中公新書、1975年[1998年版]、168頁~176頁)
【高階秀爾『近代絵画史(上)』はこちらから】
近代絵画史―ゴヤからモンドリアンまで (上) (中公新書 (385))
オルセー美術館のゴッホ作品
ゴッホは悲劇の画家である。
印象主義の歴史の最終局面にちらっと登場し、あっと言う間に印象派を越えて、燃え上がるような色彩の独自の画風を確立した。しかし、37歳の若さで命を絶った。
先述したように、画家としての活躍はたかだか10年である。その過酷な人生とすばらしい絵画は、日本では明治末年、白樺派の紹介によって知られ、純粋な芸術家として敬愛された。その強烈な絵と劇的な人生は、今もって人を魅了してやまない。
バブルの1987年3月、ロンドンのオークションでゴッホの「ひまわり」が2475万ポンド(約58億円)で落札され、戦後の美術市場の最高値を圧倒的に上回ったことは、存命中は1点しか売れなかった、この画家の悲劇性を強く印象づける大事件となったと小島英煕氏は捉えている。
さて、ゴッホのコレクションは、ゴッホの弟で画商のテオ(テオドルス)に残された遺産が主体になった母国オランダのゴッホ美術館やクレラー・ミュラー美術館が豊富である。
それに比べて、オルセー美術館の場合は数が限られる。というのは、画家の晩年に付き合いのあったガシェ博士の遺贈コレクションを中心に発展したものだからである。
それでも、代表作の「自画像」(1889年)、「ガシェ博士の肖像」(1890年)、「オーヴェールの教会」(1890年)を始め、多くの作品が所蔵されている。
小島氏は年代順に、オルセー美術館のゴッホの作品を挙げている。
<初期>
〇「オランダの農婦の頭像」(1884~85年)
〇「かまどの傍らの女」(1885年頃)
<パリ時代>
〇「アニエールのレストラン、シレーヌ」(1887年)
〇「銅壺のあみがさ百合」(1887年)
〇「自画像」(1887年)
〇「イタリア女」(1887年)
<アルル時代>
〇「ジプシーの家馬車」(1888年)
〇「ウージェーヌ・ボックの肖像」(1888年)
〇「アルルのダンスホール」(1888年)
〇「アルルの女」(1888年)
<ゴーギャンと共同生活をした時期>
〇「アルルの寝室」(1889年)~「黄色い家」の寝室を描いた絵
<精神病院に入院した時期>
〇「サン・レミの病院」(1889年)
<ミレーの模写>
〇「昼寝」(1889~90年)
<オーヴェール・シュル・オワーズに行ってからの作品>
〇「庭のマルグリート・ガシェ」(1890年)
〇「コルドヴィルの藁葺き屋根の家」(1890年)など
それらの作品を見ていくと、ゴッホの作風が10年という短い期間に、劇的な変遷をとげて来ているのが分かる。
それぞれの時代に傑作が生まれたが、それはゴッホの生き方そのものであった。
(小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリー、2001年、120頁~123頁)
【小島英煕『活字でみるオルセー美術館』丸善ライブラリーはこちらから】
活字でみるオルセー美術館―近代美の回廊をゆく (丸善ライブラリー)
ゴッホの渦巻くタッチ
先述したように、小暮満寿雄氏はオルセー美術館所蔵の名作として、ゴッホの『オーヴェールの教会』(1890年)を紹介していた(小暮、2003年、237頁~240頁)。
ここでは、西岡文彦氏の『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)に拠りながら、ゴッホの作品とタッチについて解説しておきたい。
晩年の名作『オーヴェールの教会』は、ゴッホの最後の滞在地となったパリ郊外の村で描かれた。
特有のうねるような線と強烈な色彩が、異国風の独自の建築様式を錯覚させる。しかし、モデルとなった建物は、驚くほどに普通の教会であるそうだ。
晩年のゴッホの画風の代名詞となった渦巻くタッチは、反復する発作に、みずからすすんで入院したサン・レミの精神病院で確立したものである。
そうした事情も手伝って、この渦巻きを不安な内面の反映する見方が一般化し、作品は聖書や文学を引き合いに無数の解釈を生み出している。
しかし、こうした文学的な解釈はゴッホの物語を劇的にはしても、タッチの意味するものを実感として納得させてはくれないと西岡氏は批判している。つまり、直線も平気で曲げて渦巻くゴッホ晩年のタッチがどのような造形的な根拠をもつのかを教えてくれない。
そこで、この造形的な根拠を明かす資料として、西岡氏が注目するのが、ゴッホの素描である。謎の渦巻きの発生源を、これほど明瞭に物語ってくれる資料はないという。
素描の変貌を見ると、ゴッホの渦巻きはアルルの炎熱から生じていると西岡氏はみている。
ゴッホのペン画の線が、風にそよぐ木の葉や打ち寄せる波ではなく、本来、揺らぐはずのないものを描いて揺らぎ始めるのは、アルルの夏からである。
その最初の揺らぎが、8月なかばに描かれた積み藁に生じている。積み上げられた藁束は、かがり火のように激しくうねり、渦を巻いている。例えば、次のような作例がある。
〇ゴッホ『積み藁』1888年 ブダペスト、国立美術館
アルルの炎天下に描かれた積み藁の素描である。藁を描くタッチが晩年の渦巻くタッチを予見するようなうねりを見せている
〇ゴッホ『木のある岩』1888年 ゴッホ美術館
『積み藁』と同時期に描かれた素描である。タッチはまだ直線的ながら、遠景の木の枝のみがかすかに渦巻いている
炎暑で生じた陽炎が実際に積み藁を揺らいで見せたのか、あるいは炎天下のゴッホの幻視を反映した意匠なのか、これ以降、急激にゴッホの筆致は揺らぎ始める。
そしてこの渦巻くタッチが、ドラクロワ、モンティセリゆずりの強烈な色彩を得た時に、ゴッホ晩年の独自の画風が出現する。
ところで、ゴッホの手紙には、アルルの強烈な陽光を見慣れた目で、なお色彩が輝いて見える画家はドラクロワとモンティセリのみだと書いてあるそうだ。
光栄にもゴッホが、このドラクロワと対比させた日本の画家がいる。幕末の浮世絵師、「画狂人」こと葛飾北斎である。ゴッホの手紙に、この北斎以外に名前の登場する浮世絵師はいないという。
この北斎の描く波に驚嘆したテオに、ゴッホは、限られた色彩で驚くべき効果を上がるドラクロワの素描の、同じ効果を線で表現しているのが北斎だと書いている。
抑揚に富んだ北斎の線の表現力は驚異的であるといわれる。その表現力は、墨一色で刷った木版画で真価を発揮している。画面でその線は、ゴッホさながらにうねり、渦巻いている。例えば、北斎の次の作品である。
〇葛飾北斎『北斎漫画』1817年
阿波鳴門の海に渦巻く波の描写が圧巻である。過剰とも思える描写で画面を埋め尽くすタッチの迫力は、他の浮世絵師には見られない特徴であると西岡氏は指摘している。
陽炎に揺らぐゴッホの素描に劣らず、北斎の線もまた濃厚な空気感に揺らぎ渦巻いていた。
うねり渦巻くタッチに加えて晩年のゴッホを特徴づけているのが、そのタッチの寸断である。早描きの線が、生乾きの下地を引きずって色を変わる前に中断されたために生じた寸断であると考えられている。
この寸断された色彩が渦を巻くのが、有名な『星月夜』と『糸杉のある麦畑』である。
〇ゴッホ『星月夜』1889年 ニューヨーク近代美術館
渦巻くような夜空と燃え上がるような糸杉が描かれる。ゴッホの最も有名な作品のひとつである。
〇ゴッホ『糸杉のある麦畑』1889年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー
燃え上がるような糸杉とうねる雲にゴッホ晩年の特有のタッチが見える。
このように、燃え上がるような糸杉や渦巻くような夜空を描いて、ゴッホ様式がまったく独自の境地に到達している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、116頁~126頁)
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二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
ここでは、小林秀雄の『ゴッホの手紙』と『近代絵画』を取り上げることによって、ゴッホの理解を深めてみたい。
文芸評論家の饗庭孝男氏は『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)の「第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』」において、小林秀雄の『ゴッホの手紙』について批評している(饗庭、1997年、228頁~258頁)。
そもそも、小林秀雄の『ゴッホの手紙』とは、どのような著作なのかをまず説明しておこう。
昭和22年3月、読売新聞社主催、文部省後援によって、「泰西名画展」が開かれた。小林秀雄はここでゴッホの複製画を見た。その感動が翌23年に書き始められ、雑誌『文体』に載せられる『ゴッホの手紙』となる(のちに、昭和26年から『芸術新潮』に14回の連載)。
小林は、次のように書いている。
「それは、麦畑から沢山の烏が飛び立つてゐる画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であつた。尤もそんな事は、後で調べた知識であつて、その時は、たゞ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、たうとうその前にしやがんみ込んで了つた。」
小林が見たという複製の絵は、『麦畑の上を舞う烏』(1890年7月9日以前、現在ラーレンのゴッホ・コレクション蔵)である。小林が見た複製画は宇野千代の尽力で、後に小林の手元に届けられることになる。『文体』は、この宇野千代らが出していた雑誌であったそうだ。
小林秀雄の『ゴッホの手紙』は、この画家の複製画の感動から出発し、その「精神」を弟テオ宛の書簡集(1872~1886年)によりながら浮彫りにしようと試みたものである。
(後年に小林がオランダのクレラ・ミュラーで見た例の麦畑の絵の原画に接した時に、「この色の生ま生ましさは、堪え難いものであった」と感想を記している)。
小林は、ゴッホの手紙を告白文学の傑作と考えて、それに基にして、ゴッホ像を浮き彫りにし、その作品を解説している。
小林は、ゴッホの手紙を引用しつつ、その絵について、丁寧に解説を加えている。例えば、有名な≪糸杉≫の絵について、取り上げている。まず、ゴッホの手紙を引用している。
「僕の考へは絲杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、絲杉で作り上げたいと思つてゐる。僕が現に見てゐる様には、未だ誰も絲杉を描いた者がないといふ事が、僕を呆れさせるからだ。線といひ均衡といひ、エヂプトのオベリスクの様に美しい。緑の品質は驚くほど際立つてゐる。太陽を浴びた風景中の黒の飛沫だが、その黒の調子は、僕に考へられる限り、正確に叩くには最も難かしい音(ノオト)だ」(No.596)
アルル時代の≪向日葵≫よりの明らかな前進であると小林は捉えている。
〇ゴッホ≪糸杉と果樹(糸杉のある麦畑)≫1889年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー
線は素速く、柔軟に動き、微妙な旋律を追い、色調による音域は増大して、いよいよ複雑な和音を伝えるようであると、小林は分析している。
当時の手紙から推察すれば、ゴッホの夢想は、しばしばエジプト芸術の上を馳けている。オベリスクの驚くべき均衡を想ったゴッホは、エジプト人の太陽を想っている。ゴッホの千里眼のようなナチュラリストの眼は、ゴッホの言う「清浄な静かな、聡明な優しいエジプトの王様」を見たかもしれないと小林は想像をめぐらしている。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、172頁~174頁)
小林によれば、ルネサンスの画家による遠近法の発見は、あるがままの世界から見えるがままの世界へ、精神の確実性から視覚のイリュージョンへ飛び移る道を開いたという。
このいわば、美学上の懐疑主義は、印象派の出現に至って、観念から感覚への飛躍を完了した。世界は、色の反映と波動との限りない多様性となったとされる。
ところで、ゴッホは、アントワープに移る前、アムステルダムの国立美術館を訪れ、オランダの巨匠達の絵から感動を受ける。当時の手紙は、ドラクロアの色彩論による彼らの色調の分析でみたされていると小林は述べている。
手紙から推察すれば、ゴッホを動かしたのは、まずドラクロアの色彩論の印象派の先駆としての性質だったといわれている。
これは、ゴッホの天賦の視覚の鋭敏が直ちにこれを応じた事であり、ゴッホが苦しんだのは、色彩のもっと本質的な問題であったと小林はみている。色の明るい暗いなどに問題があるわけはないという。ゴッホは手紙に次のように記している。
「現代の明るい絵など近頃殆ど見てゐない――、だが問題そのものはとことんまで考へたのだ。コロー、ミレー、ドービニイ、イスラエル、デュプレ其他の人だつて明るい絵は描いてゐるのだよ。といふ事はかういふ事だ、人間はどんな隅々までも、どんな深さまでも、見透す事が出来るのだ、たとへ、色彩の段階がどんなに深からうと」(No.405)
「絵画に於ける色彩とは、人生に於ける熱狂の様なものだ。こいつの番をする事は、並大抵の事ではない」(No.443)
「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ。自然の色から出発するな」(No.429)
ドラクロアから、ある物に固有な色彩というものはない、ということをゴッホは学んだようだ。
ゴッホにとって色彩の問題は、外部から知覚に達する色彩ではなく、これに画家の精神が暗黙のうちに付与する内的な意味合いである。つまり色彩は誰にでも知覚されるが、色彩による表現は画家だけに属する。表現するとは自然に対抗して、ゴッホの言葉では、créer, agir(創り、行う)事である。そして、ゴッホは上記に引用したように、「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ」と言い切るまでに至ると、小林は解説している。
(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、72頁~75頁)
【小林秀雄『ゴッホの手紙』はこちらから】
ゴッホの手紙
ところで、小林秀雄はゴッホの手紙を引用しつつ、丹念にゴッホ像を描いているが、饗庭孝男氏はこのゴッホ像には、「民衆」の観念が、「階級」的視野とともに欠落していると批判している。この点について、説明してみよう。
ゴッホは、その生涯をつうじて、ほぼ同じ時代を呼吸した自然主義のゴンクール兄弟、ゾラ、モーパッサン(ゴッホより3歳下にすぎない)、少し前のレアリスムに属するバルザック等を読んでいた。
彼らの精緻な観察と分析は、ゴッホの手紙に多くの共感と賞讃のあとをのこしている。ゾラの『ジェルミナール』『居酒屋』、モーパッサンの『メゾン・テリエ』等が、ゴッホの前半における写生のレアリスムの時代をとおしてだけではなく、アルルの時代にも「自然」と労働者、農民の生活への同化と共鳴に大きな役割を果たした。
ゴッホが1881年、従姉妹ケーに求婚して拒否されるや、身重の娼婦クリスティンと同棲する動機は、自らが所属する中産階級のインテリから、すすんで自己を疎外するとともに、下の庶民階級への精神的同化を果たそうと試みた体験であったと言うことができると饗庭氏はいう。
そして、それは芸術家の「社会」における自己疎外と違和の問題と重なりながら、ミシュレの「民衆」の観念にたいする共鳴ともむすびつき、彼の生きた時代の思想の大衆化現象(自然主義)の一つのあらわれと饗庭氏は見ている。
このことは同時に、画家ミレーの倫理的な絵画ともひびき合っていたにちがいないとする。
ゴッホはそこに単に福音書的意味を見たのではなかった。そこには、レアリスムから自然主義へ移行する文学の営みとともに、貧しい印刷工から身をおこしたミシュレの「民衆」の観念にみられる労働をとおしたユマニスムにかようものがあったと解釈している。
ミレーの「働く人たち」の素描をくりかえし写すことはゴッホにとって、労働と「民衆」の観念を体現することでもあったとする。
さらに、ミシュレの書物、『愛』の裡に、愛する女のなかに自由な現代的な魂を創造すること、偏見から女を解放するという教えを読んで、ケーやクリスティンに向かった事実も、先のことと無縁ではないと推測している。
それがゴッホにとっていかに観念的であったにせよ、時代の思考と深く共振するものを感じていたことに注目する必要があると饗庭氏は主張している。
このことが同じくユゴーの『レ・ミゼラブル』にたいするゴッホの感動につながっているはずであるという。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、243頁~244頁)
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小林秀雄とその時代 (小沢コレクション)
ところで、小林秀雄は『近代絵画』(新潮社、1958年)において、ゴッホとセザンヌとの違いについて言及している。
ゴッホは、死ぬ前の手紙の中で、「自分は仕事に生命を賭した」と書いている。ゴッホの最期を看取った医者のガシェは、「芸術に対するゴッホの愛と言ふのは当らない。それは信仰、殉教まで行つた信仰だつたと言ふべきだ」と言っているが、そういう言葉なら、セザンヌにも、一応当てはまったかもしれないと小林はいう。
しかし、ゴッホが、セザンヌのような画家と大変異なっていたところは、絵の仕事は、遂にゴッホという人間を呑みつくす事はできなかったというところであると小林は述べている。
これは、普通の意味で、ゴッホが自分の絵に不満を持っていたとか、自分の持っていたものを表現しきれずに終わったとかいう事ではない。この画家のもっと深い生き方、彼に固有の運命的なものに関わるものであると断っている。
セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、絵のうちに吸収され、集中されていたようだ。また、セザンヌの書簡集は、その絵にくらべれば、全く言うに足りぬ表現で、その絵を照らすような意味合いは、ほとんど見当たらないとみている。そして、セザンヌが絵のモチーフという場合、それは、いわば、世界は一幅の絵となるためにあるという意味であった。
一方、ゴッホという熱狂的な生活者では、生存そのものの動機に強迫されて、画家が駆り出されるともいえるとする。ゴッホという人間を知る上で、その書簡集が大変重要なのは、単にそれがゴッホの絵の解説であるがためではない。書簡と絵とが、同じ人間のうちで、横切り合うからであると小林はみる。
(小林秀雄『近代絵画』新潮社、1958年、94頁~95頁)
このように、小林は、ゴッホの絵と書簡集に関して、卓見を述べている。しかし、この小林の著作『近代絵画』に対しても、饗庭氏の批判がある。
小林の『近代絵画』は、「ボードレール」「セザンヌ」「ゴッホ」「ゴーガン」「ルノアール」「ドガ」「ピカソ」の8章から成り立っている。「人間劇」という観点からすれば、「ゴッホ」「ゴーガン」には、その色彩がつよいとされる。
だが、巨視的に見れば、絵画をとおして「近代」がどうあらわれたか、という問題意識がもっとも目立つ。
詩から詩でないものを排除したとするボードレールの、自覚的な言語感覚とパラレルに、ドラクロワ論を土台にして、絵画における自立性を序章にすえたのも、その目配りによるものであるようだ。
しかし、具体的に言って、「近代」のはじまりにレンブラントの『夜警』を挙げる。この画家が、アムステルダムの射撃隊の二十人余りの組合員からの注文にもかかわらず、二人の士官を肖像画らしく仕上げたものの、あとは暗い背景におとしこんだとして、その理由を「美しい画面を構成したという画家の本能」におき、そこに画家の自立をのべた。この点は、小林が1947年以後、洗練された絵を見ているにもかかわらず、参考書を読んで書いたためにおこった間違いであるという。
むしろ、小林はドラクロワの「色彩」が「主題」にまさる絵を挙げることからはじめるべきであったろうと饗庭氏は批判している。
(饗庭、1997年、250頁)
ドラクロワとゴッホの影響関係――補色とタッチ
ところで、このゴッホへのドラクロワの影響については、先述したように、小林秀雄氏も触れていた。この点、西岡文彦氏が詳しく解説しているので、紹介しておこう。
ゴッホには、「補色」という効果を応用した次のような絵がある。
〇ゴッホ『夜のカフェ』1888年 ニュー・ヘヴン、イエール大学美術館
すさまじいばかりの絵の具の盛り上げが、赤と緑の補色の効果を劇的にしている
〇ゴッホ『パイプをくわえた自画像』1889年
赤い背景と緑の上着、橙の背景と青い帽子が補色の対比を見せている
補色は、色彩が最も強烈な対比を見せる組み合わせである。三原色の赤・青・黄に、それぞれ他の二原色を混ぜた緑・橙・紫が補色となる。つまり、赤の補色は緑(黄色+青)、青の補色はオレンジ(黄色+赤)、黄色の補色は紫(赤+青)である。
補色の効用は、互いの色彩を強化するとことにある。画家で最初に補色を理論化したのはドラクロワといわれている。ドラクロワは、ルーヴルから出て来た黄金の馬車の黄色い輝きが紫の残像を引くのを見て、この色彩の効果に気づいたという。
色彩が相互に輝きを与え合うゴッホの配色は、このドラクロワの補色理論を基本にしていると西岡氏は強調している。つまり、印象派の原点ともされるのが、この19世紀ロマン派絵画の旗手ドラクロワだという。いまや古典名画を代表する画面が、当時の目には度肝を抜く原色のぶるかり合いに見え、波打つような独特のタッチが人々を驚かせた。
奔放なタッチと荒れ狂う色彩は、当時の画壇の帝王アングルの写実描写と真っ向から対立した。両者の画風は、「色」対「線」の対決として画壇をにぎわせた。
二人を取り上げた戯画が残っている。彩色用の太筆をかざしたドラクロワが、線描用の細筆をかざしたアングルに、さながら騎士の槍試合を挑んでいる対決風景を描いたものである。アングルの細筆は、事物を背景から厳密に隔てる輪郭線を描く筆を表しており、ドラクロワの太筆は、事物と背景を同じ色彩の奔流として描く筆を表しているそうだ。
ドラクロワの革新的な画風は、「絵画の虐殺」とまでいわれた。
この「虐殺」に続いて、ヨーロッパ絵画の伝統にどどめを刺したのが、印象派である。
その光と色彩の大海は、ドラクロワの描く水滴から生じたとされている。これは、出世作『ダンテの小舟』(1822年、ルーヴル美術館)の地獄の亡者の体に、赤、黄、緑、白の独立した点が描かれた水滴のことである。画面から離れて眺めると、ひとつに融合して輝くようになっていた。この水滴に印象派の色彩に先駆するタッチが見えるとされる。
絵の具を混ぜて生じる濁りを避けて、見る者の視覚のなかで混色するこの手法は、印象派の手法の基本をなすものであった。
さざ波のような筆致で描くモネの睡蓮も、震えるような色彩のルノワールの少女像も、カラー印刷のアミ点のようなタッチのスーラの風景も、この水滴の延長上に生じた技法であると西岡氏は解説している。
ドラクロワはこの手法のヒントをどこから得たのか?
それは、2世紀前のバロックの巨匠ルーベンスが描いた女神の肌の水滴だそうだ。
〇ルーベンス『マリー・ド・メディシスのマルセイユ到着』1625年頃、ルーヴル美術館
ルネサンス風の写実描写としか見えないルーベンスながら、間近に見る巨大な画面は、無数の色彩の集積である。肌色のひとつを、緑と青と赤と黄色と白の細かいタッチで塗り込めて、驚くほど豊かな色彩としている。その肌色に照り映えた水滴が、ドラクロワの水滴となって、印象派の色彩を準備したと西岡氏は理解している。
ドラクロワの色彩理論に感動したゴッホが、アントワープへ向かった大きな目的のひとつに、このルーベンスを見ることであったといわれている。このドラクロワの色彩のルーツに触れた後、ゴッホはパリで、ドラクロワの復活としての印象派に出会う。
ハルスのタッチとルーベンスの色彩に触れたゴッホは、パリで浮世絵と印象派の洗礼を受け、モンティセリの豪放な画風に心酔する。
この後、「日本人がやり残したこと」を成就するために、「南仏の日本」アルルに向かい、独自の画風を切り開いたのである。
(この西岡氏の解説は、ルーヴル→オルセー、そしてルーベンス→ドラクロワ→ゴッホという流れがよりよく理解できる解説で、傾聴に値する)
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、108頁~115頁)
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二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
ゴッホの作品≪オーヴェルの教会≫のフランス語の解説文を読む
最後に、ゴッホの≪オーヴェール=シュル=オワーズの教会≫(L’église d’Auvers-sur-Oise)という作品のフランス語の解説文を読んでみよう。
〇Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.に次のような解説文がある。
Vincent Van Gogh 1853-1890
L’église d’Auvers-sur-Oise, vue du chevet (1890)
Après son internement à
l’asile de Saint-Rémy-de-Provence,
Van Gogh revint dans la région
parisienne. Il s’installa à Auvers-
sur-Oise auprès du docteur Gachet,
spécialiste des maladies nerveuses,
mais aussi amateur d’art et ami des
impressionnistes. De Provence, Van
Gogh avait rapporté le souvenir de
la lumière méditerranéenne. Mais
alors que le soleil semble inonder
les abords de l’église et projeter
une ombre nette sur les chemins
du premier plan, le ciel, très foncé,
crée un effet de nocturne. « J’ai un
grand tableau de l’église du village,
un effet où le bâtiment paraît
violacé contre un ciel d’un bleu
profond et simple, de cobalt pur ;
les fenêtres à vitraux paraissent
comme des taches bleu outremer,
le toit est violet et en partie orangé.
Sur l’avant-plan, un peu de verdure
fleurie et du sable ensoleillé rose. »
(Nicole Savy, Musée d’Orsay : Guide de Poche, Réunion des musées nationaux, 1998, No.47.)
【語句】
Auvers-sur-Oise オーヴェール=シュール=オアーズ(ママ):パリ北西郊、オアーズ川沿いの町。19世紀末、ドーヴィニー、コロー、セザンヌなど多くの画家が住む。ゴッホの墓がある。(『仏和大辞典』より)
※なお、Auvers-sur-Oiseの読み方、表記法には幾通りかある。このブログでは統一していない。
chevet [男性名詞](教会堂の)後陣(apse)
son internement [男性名詞]拘禁(internment)、(精神病院などへの)監禁、強制収容(restraint)
l’asile [男性名詞]収容所(asylum)
(cf.) asile d’aliénés 精神病院(lunatic asylum, mental hospital)
Saint-Rémy-de-Provence サン=レミ=ド=プロヴァンス:マルセイユの北西方、アルル北東の町。ゴッホが一時収容された精神病院がある。
Van Gogh [発音:ヴァンゴッグ]ファン・ゴッホ(1853~1890);オランダの画家
revint <revenir再び来る、戻ってくる(come back)の直説法単純過去
la région [女性名詞]地方、地域(region)
région parisienne パリ都市圏(パリ市とその周辺)(the Paris area)
Il s’installa <代名動詞s’installer (àに)居る(settle)、身を寄せる(settle in, set up house)の直説法単純過去
auprès de ~のそばに(close to)、~付きの(to)
spécialiste [男性名詞、女性名詞]専門家、専門医(specialist)
maladie [女性名詞]病気(disease)
nerveux(se) [形容詞]神経の(nervous) maladie nerveuse 神経病
amateur [男性名詞](女性にも用いる)愛好家、ファン(lover)
amateur d’art 芸術愛好家(art lover)
impressionniste [男性名詞、女性名詞]印象派の画家(impressionist)[形容詞]印象派の
Provence [女性名詞](南仏の)プロヴァンス[地方]
avait rapporté <助動詞avoirの直説法半過去+過去分詞(rapporter)直説法大過去
rapporter 持ち帰る(bring back)
le souvenir [男性名詞]思い出、形見、みやげ(memory, souvenir)
la lumière [女性名詞]光(light)
méditerranéen(ne) [形容詞]地中海の(Mediterranean)
alors que +直説法 ~の時に(when)、~であるのに(while)
le soleil [男性名詞]太陽(sun)、日光(sunlight)
semble <sembler ~のように思われる、~らしい(seem)の直説法現在
inonder 氾濫する、あふれさせる(flood)
abord [男性名詞]接近(access)、[複数]周辺、付近(surroundings)
projeter 企てる、投影する(project)
projeter une ombre 影を映す(投ずる)(cast a shadow)
net(te) [形容詞]はっきりした、鮮明な(clear, neat)
chemin [男性名詞]道(path, way)
plan [男性名詞]面(plane)、(絵画の)景(ground)
premier plan 前景(foreground)
le ciel [男性名詞]空(sky)
foncé (←foncerの過去分詞)[形容詞]濃い、暗い(dark, deep)
crée <créer創作する(create)の過去分詞
un effet [男性名詞]結果、効果(effect)
nocturne [男性名詞](美術)夜景画(nocturne, night scene)、[形容詞]夜の(nocturnal)
J’ai <avoir持つ、持っている(have)の直説法現在
l’église [女性名詞]教会(church)
un effet [男性名詞]効果(effect)
le bâtiment [男性名詞]建物(building)
paraît <paraître+属詞 ~のように見える、~らしい(seem)の直説法現在
violacé [形容詞]紫がかった(purplish)
profond [形容詞]深い、濃い(deep)
cobalt [男性名詞](化学)コバルト(cobalt)、コバルトブルー
pur [男性名詞]純粋な(pure)
fenêtre [女性名詞]窓(window)
vitrail(複~aux) [男性名詞]ステンドグラス[の窓](stained glass[window])
paraissent <paraître+属詞 既出 直説法現在
tache [女性名詞]しみ(spot, stain)
outremer [男性名詞]群青色、ウルトラマリン(=bleu ~)(ultramarine)
le toit [男性名詞]屋根(roof)
est <êtreである(be)の直説法現在
violet [形容詞]紫色の(purple, violet)
partie [女性名詞]部分(part)
→en partie部分的に(in part, partly)
orangé [形容詞]オレンジ色の(orange-colo[u]red)
avant-plan avant [男性名詞]前部(forepart, front)、[形容詞]前の(front, fore)
plan (絵画の)景(ground)
un peu de 少量の、若干の(a little of, a bit of)
verdure [女性名詞](草木の)緑(greenness, verdure)、緑の草木(greenery)
fleuri(e) (←fleurirの過去分詞)[形容詞]花が咲いている(in bloom, in flower)
sable [男性名詞]砂(sand)
ensoleillé (←ensoleillerの過去分詞)[形容詞]日が当たっている、晴れた(sunny, sunlit)←soleil(太陽)から
【Musée d’Orsay はこちらから】
【Musée d’Orsay guide】
Musee d'Orsay, guide
≪試訳≫
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)
≪オーヴェール=シュル=オワーズ教会 後陣の眺め≫
サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院を出た後、ファン・ゴッホはパリ近郊に戻って来た。彼は、オーヴェル=シュル=オワーズに身を寄せ、ガシェ博士に付いた。ガシェ博士は、神経病の専門医であるだけでなく、芸術愛好家で印象派の画家の友人でもあった。プロヴァンス地方から、ファン・ゴッホは地中海の光という思い出を持ち帰った。しかし、日光は教会の周辺にあふれ、前景の道の上にはっきりした影を映しているように思われるのに、空は大変暗く、夜景画のようである。
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。
【コメント】
フランス語の解説文にもあるように、本作の前景は太陽に明るく照らされているが、教会は自身の影の中にたたずみ、光を反射することも放射することもない。
また、別れ道のモチーフは、≪カラスのいる麦畑≫(Champ de blé aux corbeau、1890年、ゴッホ美術館、アムステルダム)にも現れている。
ところで、上記のフランス語の解説部分での引用部分は、ゴッホの手紙に基づいているようだ。つまり、
「村の教会の、より大きな絵を私は持っている。建物はスミレ色に染まり、空のシンプルな深い青の色、純粋なコバルト色によく映えている。窓のステンドグラスは群青色のシミのように見え、屋根は紫色で一部がオレンジ色をしている。前景には、緑色の植物少々が花開き、砂はピンク色の日光を浴びている。」
これは、ゴッホが妹ウィルヘルミナに宛てた手紙(1890年6月5日)の中で、記してあることだそうだ。
上記の続きには、次のようにある。
「私がニューネンで、古い塔と墓地を描いた習作とほぼ同じ内容で、ただほんの少し色彩豊かで金がかかっているというだけである。」
この手紙にもあるように、ゴッホは、オランダのニューネンで同様の作品≪ニューネンの古い教会の塔≫(1855年、ゴッホ美術館)を描いていたとされる。
(Wikipediaの「オーヴェルの教会」の項目を参照のこと)
ところで、周知のように、オーヴェール=シュル=オワーズには、ゴッホの墓がある。
西岡文彦氏は、『二時間のゴッホ』(河出書房新社、1995年)の執筆に先立って、そのゴッホと弟テオの墓前に出かけたそうだ。
西岡氏は、その著作において、「結 墓碑銘――オーヴェールの鳥の巣」(146頁~155頁)と題して、次のようなゴッホのエピソードを紹介している。
ゴッホの自殺の1カ月半ほど前の6月10日、テオ夫婦は子供を連れて、オーヴェールのゴッホを訪ねている。
この時、ゴッホは、鳥の巣を手に駅まで迎えに来たという。鳥の巣は、自分の名前を持つ生後4カ月の甥のおもちゃに用意してきたものであった。
この鳥の巣にゴッホは格別の愛着を抱いていた。入院先から母親に宛てた手紙にも、この頃しきりに故郷を思い、木の上にあったカササギの巣をはっきりと思い出すと書いている。
この甥フィンセント・ウィレムは、のちにゴッホ美術館を建てることに尽力する。この美術館は、断固として売却に応じず自宅に作品を所蔵し続けた甥が、ゴッホを愛する人々のために建てた、世界最大規模の個人美術館である。フィンセントはこの美術館の実現のために、所蔵するゴッホの全作品を破格の安価で国に譲渡している。
このゴッホ美術館は、オーヴェールで贈られた鳥の巣の返礼に、フィンセント・ウィレムが亡き伯父に贈った魂の巣であるかもしれないと西岡氏は記している。
(西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社、1995年、146頁~155頁。なお、テオ夫婦のオーヴェール訪問については、小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、1952年[1970年版]、210頁にも記載がある)
【西岡文彦『二時間のゴッホ』河出書房新社はこちらから】
二時間のゴッホ―名画がわかる、天才が見える
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