六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

STYX(スティクス)Ⅲです

2020年06月23日 04時25分29秒 | つぶやき

STYX(Ⅲ)です。 

そうです、三途の川を越えることが、

まづ第一の人生のテーマになるべきなのです。

それが私たちの人生の飛躍につながっていくのですね。

 

三途の川が越えられないと、

魂は上昇のしようがないわけです。

「輪廻転生」というけれど、

永遠に同じところをグルグルと回り続けるのか、

それとも、

らせん階段を上るように、上昇を続けていくのか?

 

その違いは、

同じ輪廻転生という、輪を回るように生まれ変わり、

死に変わりするのとでは、まったく意味が変わってくる。

同じ生まれ変わりをするのであれば、

次の人生へのステップとなるような、

生まれ変わりをしたいものですよね。

 

だから、

私たちには、先祖供養が必要なのです。

私たちを規定づける、ある種、枠づけているもの。

それは仏教では因縁と呼ばれているものですが、

それを取り除くことは、

実はとても大変重要なことなんです。

 

私たちがこの世に生まれてくるとき、

両親を縁として、生まれてきますが、

その両親は家系の因縁というものを持っている。

その家系の因縁を引き継いで、

私たちは生まれてくるわけですよね。

 

その証として、父親の頭脳を備えて生まれてくるし、

母親の性格を持って生まれてくるわけです。

中には、美人とは言えないけれども、

なんとなく憎めない、

そんな母親の容貌を受け継いで、

生まれてくるなんていうこともあるわけでしょう。

 

そして、

前世の業をもまた引き継いで生まれるわけです。

今言った、憎めない母親の容貌を引き継いで生まれるというのも、

これは前世の業が原因となっているわけです。

それは、彼女を幸せな人生に導く、

大きな要素のひとつになるのでしょう。

反対に、

美貌の持ち主ではあるけれども、

なんとなく冷たい表情だと、

人間関係において、

かなりマイナスの悪影響が予想されるわけですからね。

 

ですから、

前世において積まれた行為のすべてが、

この世における、持って生まれる「因縁」の元になるのですねえ。

どうしてこんな不細工な顔に、親は作ってくれたのか?なんて、

親を憎むのはお止しなさいよ。

すべては、

自分の為した行いが元にあるわけですからね。

誰も責められないんです。辛いね~。

 

(もっとも、誰かのせいにすることほど、

楽なことはないですよね。)

 

「因」とは、その人の前世における業そのもの。

「縁」とは、この世における、業の結果。

前世の行いの報いの結果となったものが、

現世における自分自身であり、

環境・条件なんだということですね。

 

こんな家に生まれなきゃ良かった!なんていう嘆きは、

もっともな叫びですけどね。

しかし、

その嘆きが、あなたの人生を向上させる元にもなりうるわけですから、

物事の捉えようであり、考え次第であるわけです。

プラスに考えていきましょうよ。

 

 

 

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STYX(スティクス)Ⅱ

2020年06月23日 04時25分29秒 | つぶやき
STYX(Ⅱ)です。
『三途の川』の意味があるということですね。

前回、ここまで来たわけですね。
すると、
話は早いわけです。

霊世界の話をする上で、
三途の川は世界共通の概念なんだという。
そうすると、
霊世界の話は事実であるということで、
開祖のお話も嘘だと言えなくなるわけです。

エドガーケーシーという有名な預言者&ヒーラーが、
アメリカバージニア州の1900年代前半に、
その名を知らしめました。
そのケーシーは、
キリスト教的見地から、
霊的存在としての魂は、生まれ変わり死に変わりして、
究極的な地点としてのオメガポイントを目指す存在である。
そういうような見解を述べているようです。

ですが、
これは仏教としての密教的な立場からすれば、
そう簡単にはいかないようです。
理想論としては、そう言えるのでしょうが、
なかなか人間として、うまくいかないのが現実なんですね。

人はさまざまな理由から、
三途の川を越えられない存在なんですねえ。
それが、チベット密教でも言われていて、
本来持つ人間の業のゆえに、
俗生としての存在であるがゆえに、
無知な存在であるがゆえに、
人は三途の川を越えて、冥界に到達することが困難なのですね。

死に際の臨終の一念のゆえに、
生前における煩悩だらけの生命活動のゆえに、
人はその今世を未練をもって死にきれない。
また、
その苦しみのゆえに、
成仏への道を歩むことがむずかしい。

私たちは、
本来的未熟性のために、
この世から冥界に渡ることがむずかしい。

だから、
この世で体験したことにこだわって、
冥界を目指すことができない。
そのゆえに、自身は《中有》存在となって、
この世とあの世で、
宙ぶらりん状態で存在し続ける。

そのために、
この世と縁を切ることができないで、
自らの悪因縁を、子孫に及ぼすことになる。

それが、家系の因縁となって、
家の業を重くするのです。

魂が輪廻する存在として、
三途の川を越えることが、
まず第一の関門であることを、
私たちは知らねばならないのです。
そうしないと、
魂の安息は来ないことを知るべきなのです。

それを知ることで、
私たちは人生の生き方を学ぶのです。
何が良いことで何がよくないことなのかを。

そうすると、
人生において羽目を外しても良いこと、
この点においては、羽目は外すべきではないこと。
そういう処世上の守るべきルールに目覚めます。

少なくとも、その人は、
少しでも業を重くしないで、今世を終えられるわけです。
それは、次の人生への飛躍への力となるのです。

私たちは、悪業のよる不徳と、
善業による徳の価値判断を持つべきなのです。
それらが、
やがて次の人生を少しでも充実させる差を生み出すのです。
だって、
苦しい人生を生きたいか、
それとも、楽しい充実した人生を生きたいのか?
誰だって、快い人生を楽しみたいでしょう?
その基本的な価値観を学ぶのが、
まず第一の、人間の一番大事なことだと思うのです。


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