STYX(Ⅳ)です。
三途の川を越えるところから、
私たちの、
輪廻を越える道が開かれるんだという。
では、
三途の川とは、いったい、どういうものなのでしょうか?
三途の川は、三瀬川とも言われます。
三種類に分かれる川。
一つは、貪りの心が川の一部に流れているわけです。
もう一つは、その川を瞋りの心が流れている。
もう一つは、その川の中に愚痴の心が流れている。
つまり、《貪・瞋・痴》の三つの根本煩悩の心が、
その三途の川を流れている。
その三つの煩悩が、
餓鬼世界、地獄世界、畜生世界の
三つの世界に赴かせる根本の心なんだということなんですね。
すると、
人はみんななにがしかの三つの心を持ち合わせているから、
やがて人は、死を迎えた後、
三つの悪い世界に赴くことになるわけですね?
そう聞かれて、その通りだと答えざるを得ないです。
だって、それは本当だから。
事実だから、“否!”とは言えないのです。
そうなんですね、
人はみんな死んで後、
三種類のどれかの悪しき世界に赴いていく。
だから、人間を「凡夫」というのです。
三途の川を飛び終えられないで、
やがては、三瀬川のどれかに飲み込まれて、
その人の業に応じた、しかるべき世界に赴いて、
今世において、また前世のおいて為したところの、
業に応じた報いを受ける場所。
それが餓鬼・地獄・畜生の三界なんです。
そして、
三途の川は、悪趣世界への入り口だというわけです。
だから、人はその心を取り除くことが、
三途の川を飛び越える必須条件なんですね。
だけど、
その三途の川を飛び越える者がいるんです。
それが『聖者』なんです。
業の重みに打ち勝って、
わが身を浮かせて、
その川を越えていく推進力をともなった存在。
それが、《聖者》という存在。
そして、その聖者は、
輪廻の輪から抜け出た存在となるわけです。
生まれ変わりは、まだ続くのですが、
普通の生まれ変わりではない生き死にを、
その聖者たちは行うようになる。
それを普通の人間たちの、
過去から因縁を持ったまま行う生き死には、
「分断生死」と、仏教では呼ばれます。
それに対して、
聖者の生き死には、「変易生死」とこう呼ばれるのです。
聖者になると、
生まれ変わるたびに、
悪業を切り悪因縁を切っていくからです。
そして、三つの煩悩を切っていくからです。
そして、
魂の上昇をつづける生き死にを行うのです。
そして、
やがて、ついにはオメガポイントに到達していく。
これ以上の高い領域はないという、
霊界の究極の場に到達する。
それが仏教には説かれていて、
それを『成仏』と呼ぶのですね。
ですが、
キリスト教世界やイスラム世界などの、
他の宗教においては、その方法がない。
具体的に、説かれていないのです。
まだ、憧れの世界でしかないからです。
仏教においても、
大乗仏教と呼ばれる仏教の宗旨・宗派では、
その成仏の方法が説かれませんから、
既存の教団などの、大乗仏教の宗派では、
成仏はできないのです、不可能なんですね。
へーっ、成仏できないのに、仏教教団と名乗っているのですか?
そうなんですね、その通りなんです。
それは、
例えば、
日本の仏教は中国を経て伝わってきた、
支那仏教ですから、
中国人の考え方に合わせた仏教に変容しているのです。
つまり、
お釈迦様が説かれたインドの教えは、
中国に入った時点で、中身が変容したものになったのです。
中国人が理解のできる、中国人に都合の良いものに変わった。
それが、日本に伝わったものですから、
成仏のできない仏教が、日本には入っていって、
そのままこれまで、信仰されてきたわけです。
それを我々日本人は、ありがたく取り入れて、
成仏のできない仏教を、これまで拝んできたわけです。
では、
空だ空だと言って、悟りを得たかのような禅宗などはどうなんですか?
と言われると、
これもまた、成仏したかのような錯覚の修行を続けてきた!
としか言いようがないのです。
禅宗では、《見性》を得ると申しますが、
それは悟ったつもりの修行ですから、
実際に成仏するのとは、また別の話なんですね。
なぜならば、
成仏するためには、こういうことを修行せよという、
お釈迦様が説かれた内容は、《阿含経》という一連の経典にのみ、
説かれているからです。
それが本当の真実の話なんです。
だから、
これまで日本の仏教は、成仏を説いていながら、
だれも成仏できない教えを、
後生大事に信仰してきたということですね。
すると、これまで成仏したお坊さんはいないのか?
と、いうところまで疑問は続きますねえ。
そのところは、
各々みなさんにお任せするといたしましょう。
とにかく、
この教えと方法を、今後の全世界の人たちが理解し、
実践していくよりほかに、
本当の幸せを得ることはできない。
これからは、
キリスト教でもない、
イスラム教でもない、
そして、
それらの宗教を生んだ大本のユダヤ教でもない。
もちろん、
他のスピリチュアルと称する神秘学でもない。
三途の川を越えて、聖者の道を歩んで行けるのは、
唯一、阿含経を修行して、成仏力を備えた宗教しかないのです。
それこそ本当の、魂の救済が可能な宗教なんです。
それを知った上で、
私たちは、これからの本当の世界を歩んで行くのだ。
ということになるのではないでしょうか。