史上最大のヘビィロックバンド、
レッド・ツェッペリンの名曲と言えば、
もう誰もが思い浮かぶ、
『天国への階段』。
ロシア・ウクライナ問題を考えていたら、
ふと、
この『天国への階段』の曲が頭に浮かんだ。
あれって、
仏教的に言うと、
『仏界への階段』と言い換えれるんじゃないか。
そうかあ、
あの曲を今やると、
ヨーロッパでは大受けするんじゃない?
なんて、
ばかなことを考えた。
彼らって、
ひょっとして、
そう言いたかったのかも? なんて考えた。
天国という概念を、
霊的最上界の意味で考えていたのなら、
ロバート・プラントと我々には、
ある一筋の共通点があるんだろう。
そう思って、考えてみた。
詩の内容はわからないので、
本当のことは何とも言えないのだが、
ひょっとして、
彼は霊的な問題を言いたかったのではないかと考えると、
これって、ロックの歌を考える上で、
面白い解釈が生まれるんじゃないか。
ロックを考える上での、新しい地平線としての解釈。
新ロック論とでも言えるかな。
だけど、
成仏の階段も同じように、
天国への階段は生半可では登り切れない。
階段を上るように登れるもんじゃないんだから。
だから、
歌うのは易しいけれど、
実践はまた別のものなんだと考えるべきだ。
歌を歌うのはやさしい。
だけど、
歌うところから、新たな思考の転換として、
実践に移るのは、相当な経験と挫折を味わう必要があると思える。
ジョンレノンがそうだった。
ジョンは結局、
歌の世界でユートピアを実現しようと考えた。
でも、
それは方法が違うんだとしか言えない。
みんな同じ空想をすれば実現できるものじゃあない。
そこがちょっと安易だったかな?と思う。
西洋の若者たちの中には、
音楽を通して哲学的な問題や、
宗教的な問題、また心の平安などを表現する人がいる。
そう、
知的な人がずいぶんいるもんだ。
だけど、
歌うだけじゃダメ、考えるだけじゃダメ。
それとこれとは別物なんだ。
だから、
そこから飛躍して、
いったん音楽を離れることが求められる。
最上階の天国に到達するためには、
仏陀の行った修行法を実践しなければならないのだ。
それがこれからのヨーロッパの必要とするところではないか。
個々の実践を必要とする新しいヨーロッパ。
それが待たれる。