六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

ヘンリー王子の王室離脱はダイアナ妃の呪いか?

2020年01月21日 12時29分24秒 | 未来
英国のヘンリー王子が、王室を離脱することになった。
そのヘンリー王子の「あいさつ」が行われたが、
彼は王位継承権が、第六位。
兄のウィリアム王子の子どもたちよりも、
順位が下だという。

「このような結果に至り、深く悲しんでいる」
という彼の言葉から、
どのような問題が、直接の原因になっているのか。
どうも、明らかにされてはいないようですね。
彼の心中を、深く推し量るしかないようです。

ボリス・ジョンソン首相は、
「国全体が夫妻の将来の幸せを願っている」
と、述べたそうだが、
彼はEUからの英国離脱の張本人であるから、
大変に皮肉な感じがする。

英国王室は、英国連邦の象徴と言っても良い。
その英国王室が、
このように、家族の一部を離脱させる
という結果を招いたのは、
大変に残念なことであるが、
これも、英国のEU離脱が、
将来どんな結果を招くことになるか、
だいたい予想がつくのではなかろうか。

ヨーロッパを牽引してきた英国連邦が、
一家離散の災いに見舞われ始めた!
この離脱問題は、その明らかな兆しであろう。

現在の資本主義の魁〈先駆け)となった、
産業革命は、英国発祥である。
その産業革命を肯定するために、
アダム・スミスは、欲望を肯定し、
個人の所有を認める思想を発展させた。
個人の所有を求め、
個人財産を蓄えることを奨励した。

そこから、
現在の資本主義のシステムは発展していった。
それが、
現在のアメリカの繁栄につながり、
世界の経済システムになっている。

それが、英国の衰退が加速しつつある事実を考えるとき、
なんとも皮肉なものを感じる。

衰退は夫婦間の円満をこわし、
肉親血縁相剋の運命を招いていく。
具体的な形を見せるのは、
これからであろう。

英国は揺れている。
ひょっとして、
これはチャールズ皇太子との不幸な結婚と、
その不幸な死を招いた、
ダイアナ妃の呪いなのかも知れない。

そして、彼の名前は「ハリー」と呼ばれているが、
またの名は「ヘンリー」。
ノストラダムスが言っていた、
あの名前と同じである。

ついに見つけた、ヘンリーの名を。

コメント (2)
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蓮華の花の咲くように

2020年01月21日 09時57分58秒 | つぶやき
自ずと微笑が綻びる。
心の水面の花のごと、
時溢ちるを待ちて、
やがて春の訪るるに似るか。

やはり、本当だったんだ。
三宝の御許にて行える梵行は、
私を芯から変えてくださった。

春の到来をひたすら待って、
いつしか忘れていたその時を。
来てみれば、
ふと気づく、心の変化に。

吾は今、
二度目の踊り場に到達したのだ。
その自覚を、
ひっそりと楽しむ。




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喜びの世界

2020年01月19日 20時07分34秒 | つぶやき
「喜びの世界」というと、
私はスリードッグナイトの名曲を思い出します。

スリードッグナイトって、
どうしてスリードッグナイトって名前なんだろうか?
そう不思議に思ったことがあるんですね。

三匹の犬、ここまでは分かるんですが、
なんで、その後に「ナイト」が来るの?
ナイトって、夜の事でしょう?

そう思って、変わった名前だと、
長い間、理解できない思いをしてたんですけれども、
調べてみると、
「アボリジニが恐ろしく寒い夜に、犬を抱いて寝る」
という風習から、
バンド名にしたんだそうですね。

へえ、
そういう風習があったのか?
そう思いながら、
「Joy to The World 」(喜びの世界)
を思い出したのでした。

「An Old Fashoned Love Song」も名曲ですけれど、
この「喜びの世界」は、
ビルボード第一位になった名曲ですよね。

そういうわけで、
喜びの世界って、どうして歌にしたんだろうと、
心の中で、思っていたものでした。

それが、
開祖が成仏法の七覚支法の説明の中で、
喜びを見いだせ、
いや、喜びを見出すというのだったら、
それはまだ本当ではない。
「住す」と言うんだから、
自然に喜びが湧いて出るのでなければならない。
ひとりでに、喜びが湧いてくる。
つらい修行が、
喜びに満ちた修行になるように修行せよ。

そうおっしゃっている。
長い間、
そんな心持ちになれるのだろうか?
と、疑問に思っていたものでした。

ところが、
気が付いてみると、
自然に、その世界に入っていたのですね。

長い修行を進めていると、
というよりも、
もう我慢我慢の世界ですよ。

一途に我慢を続けているうちに、
いつの間にか、
「苦」を通り越して、
喜びに満ちた世界に入ってしまっていた、
というのが本当です。

今の私がそうです。
もうだめだ、もう進まない!
俺の人生はこれで終わった!
そう覚悟したときがありました。

そのとき、
開祖はおっしゃった。
「究極の頂点に、因縁の歯車は回るのです。」

言葉だけが頭の中で空回りしていた。
だが、
それは嘘ではなかった。
まさに、歯車は回ったのだ。

それが過ぎていって、
この世界を茶番だと思うと、
笑いが込み上げてきた。
なんて可笑しな世界なんだろうかと、
自分自身をさえ笑ってしまえたら、
いつの間にか、
全てを笑って済ませられるようになった。

ばかばかしさを通り越えて、
空の世界に入っていった。
空の世界を越えて、
今の人生を、今の自分に与えられた修行の場を、
ひたすら頑張ろうと思えるようになったとき、
喜びの世界に到達していた。

この教団で修行できることに、
この他にかけがえのない教団に縁を得ていることに、
そして、
偉大なる師のご加護を得ていることに、
改めて気が付いた。

本当にありがたいことに、
私は師のお引き立てを受けて、
救っていただいたことを、もう一度思い出した。
このご縁を無駄には出来ない。

そう思うと、
喜びに気持ちは変わっていった。
いつの間にか、
喜びに満ちた世界に住んでいる自分がいる。
これが《喜びに住する》ということなんだ。

そう思って、
師のお言葉を理解することができた。
これが《喜びに住する》ということなんだ。
そう思いながら、
改めて、
スリードッグナイトの「喜びの世界」を思い出している。

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“握っている手を放しなさい!”

2020年01月16日 15時28分25秒 | つぶやき
三毒煩悩とは、「貪・瞋・痴」のことですね。
煩悩って、いったいどういうものなんだろう?
と、疑心に陥る人も少なくないと思う。

果たして、その正体やいかに。
ということで、
心の働きがもたらす影響というものが、
いかに私たちの人生を大きく形作っていくことか。

反対に、それが分かると、
この三毒煩悩も、大変重要なものだとわかるのです。

そこで、
その正体を探ろうというわけですね。

まず、
「貪」(貪り)について。
貪るとはどういうことか?

「有るがゆえにも、欲しきと思う心癖なり」
そう説明してあると思います。
それは分かると思うんですね。

反対に、
こういうことも言えると思うんです。
持っているものを他の人に分け与えないこと。

自分の持っているものを、
さも有りがたいものと思い、
人にあげまいと、握って離さないこと。

自分自身が努力して得たものであっても、
自分が汗水たらして得たものだから、
自分が得るのは当然だと考えて、
それを大事に思い、人に分け与えない。

そういう人を、ケチとも言いますね。
キリスト教社会では、
世間において成功した人は、
必ず社会的な慈善や寄付などをして、
社会に還元するようにします。

それは成功して得たものを、
なにがしかの形にして社会に返すわけです。
社会貢献をしたり、
慈善行為をしたりして、
自分自身の幸福や成功を、他の人と共有したり、
得た幸福を他人に分け与えたりするわけです。

それが自分の社会的な成功や幸福を維持するために、
必要なことであることを、
キリスト教社会においても理解しているわけですね。

自分が得るだけ得て、
少しも社会に人にお返しをしない。
こういう人をけちん坊と言います。

同じように、
私たちは、これ以上ない「仏縁」という、
有難いものを得ています。
ですが、
その素晴らしい仏様とのご縁を、
自分のモノだけにして、
人に分け与えないのはどうでしょうか?

これ以上有りがたい、素晴らしい仏様とのご縁を、
人にも紹介したりして、
仏様の素晴らしいことを教えてあげない。

独り占めにする。
自分だけが助かって、
人が助からないでいるのを、平然として暮らしている。

そのために、
人が苦しい状態に置かれているのを、
黙ってあるいは見てみないふりをする。

なんという薄情な人であろうか。
せっかく、
仏さまに出会って、そして救われているのに、
自分だけが助かるのを良しとする。

そんな人は、人間とは言わないのではないですか。
その根性が許せないのではないですか?

私たちは仏様の弟子として、
この世に使わされたのです。
その仏弟子が、そのような薄情な心を持って、
自分自身が悲しくないですか?

そんな心の状態では、
とうてい聖者には成れっこないですね。
「須陀恩」(シュダオン)になるには、
利他の心がなければならないのです。

利他の心に徹すること。
これが聖者の位に到達する基本です。

“握っている手を手放しなさい!”

時代は急雲風を告げる!

〈/spin〉







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Road To Holiness !(聖者としての道)

2020年01月15日 08時32分59秒 | 未来
今年からの抱負として、
私は聖者に相応しい行動、
そして、
心使いを実践していきたい、
と考えるのですね。

これからは、聖者。
私たちみんなが聖者たる行動、
そして思考をしていくべきだと思うんですね。

それにふさわしい資質を、
私たちは備えていると考えます。
それだけの修行を、
大いなる覚醒者の下で指導を受けてきた。
そして、
それだけの霊的浄化と、
それだけの行を進めてきたと思いますね。

そのことを自覚して、
その自信を持っていいと思います。
そして、これからも、
修行をもっともっと進めていくために、
私たちは一段上の段階に飛躍すべきだと思います。

そのきっかけが、
自己に対する自信です。
それは自己自身が獲得したというよりも、
完全覚醒した指導者である大いなる師と、
その得られてつかさどられたところの成仏法、
そして、
その具体的な運営をしてきた指導機関である
教団です。

それを『三宝』と言いますが、
これなくて、
私たちは、まず因縁解脱を進めることは不可能だった。

そのことに対する感謝の想いを、
私たちは決して忘れてはいけない。
私たちはそれだけの法のご加護と、
供養を進めて来たのです。

それは大いに確信して良いでしょう。
徳を積む場である教団。
その成仏法を実践する場である教団がなければ、
因縁得脱を進めるための徳を、
私たちはひとつも積むことができなかった。

それをまず忘れてはいけないのです。
それはお釈迦様、そして大いなる師である開祖。
そして、
それらを後押してくださった、無数の諸天・善神。
それ多くの存在達のおかげで、
私たちは不可能なことであるところの、
解脱の道を進めていくことができている。

そこに尽きると思います。
今はよく理解できないかもしれないけれど、
間違いなく、
私たちは個人の幸せと得るため、
そして、未来の人類の幸せのため、
すべての存在達の幸せのために、
それができたのだと理解できるときがl来るでしょう。

私たちは心から三宝を確信して
心から三宝に帰依して、
これからも修行に邁進していかなけれならない。
〈spin>
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