ベジタリアンが動物を食うより栽培された野菜から栄養を得るほうが害が少ないと考えるのならば、彼らは農地を耕すために殺す一本の草、一匹のミミズ、または一匹の昆虫は、一頭の牡牛より重要性において劣ると考えていることになる。だとすればこちらも、なぜ彼らは自分で拒否すると言っていた「生き物の序列」をこっそり持ち出してくるのかと声を大にして問うことができる。ジョアンヌ・エリザベス・ロークのように、昆虫への軽視に憤慨の声を挙げ始めた人々もいる。もし牡牛がミミズより知性が高いとすれば(絶対確かだとは言えないことだ)、倫理的ベジタリアンは十分愚かな牛なら食べられるし、場合によっては倫理的に食せるようバイオテクノロジーで完璧に愚かな動物に変換できるとでもいうのだろうか?
私はスーパーの肉のコーナーに立っても「おいしそう」と思ったことはない。でもベジタリアンにもなれない。屠畜や毛皮工場を考えると胸が塞がる。だからといって他の肉好きな人と、していることは何ら変わらないということもわかっている。これまでずっとこの矛盾から目を背けていた。
でもこの本に出会えて考えを少し整理することが出来た。
著者はベジタリアンの主張をぺてんだと論破する一方で、肉食が環境に及ぼす影響についても言及している。
厳粛な気持ちとともに摂取する機会をも抑制するという姿勢の提案なら多くの人が取り組めそうな気がする。
この本のおかげで少し考えの整理ができそうだ。