初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
今朝は6時ごろに起きてきました。
千鶴さんと悠聖も帰ってきているが、まだ、寝ている。
「ありがとう」を呟きながら洗面へ。
体がだるい。
明らかに食べすぎ、飲みすぎで、運動不足なのだな。
で、座禅を15分します。
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姿勢と妄想の確認作業のようなものですね。
すーっと精神が落ち着いてく。
座禅を終えるとコーヒーを淹れて読書です。
煙草も吸う。
えー、心と体は一つだと書いてあります。
だから死んだあとに魂が残って、彼岸へ行くなどというのは愚かな考えである。
瓦礫をお金だと思って握り締めているよりも、尚、愚かである。
愚か過ぎて、例えるものもない。
と、凄まじい批判ですね。
身心一如というのが、お釈迦様からの伝わった法門で、諸行無常というのも、そういうことでありますね。
生死は、いまここで、日々、巻き起こっている。
永遠というのは、この、生まれては死んでいる動き、自体の事であって、そこから自分が離れていないということなのだろう。
読書を終えると、千鶴さんが味噌汁の味見を頼んできたので「まあまあやな」というと「なにぃ」と怒っているww
まあ、考え方を弄る事ではないのです。
例えば、心身一如にしても、霊魂の不滅にしても、そういった考えは、ぜんぶ、いまここで生きていることの働きの中ですね。
だから、そこで快楽と不快が感情的に巻き起こってくる。
生きているから、いろんなことがある。
でも、その中で、自分が自分で在ること、そこで、終わりなのですね。
だからこそ、自分を清浄に保つように、思惑を落としていく。
それは、一回きり、そうして終わりというものではない。
何回も、何回も、毎瞬、毎瞬、一挙手一投足に集中しているということだ。
集中して手放す。
ここで体がしていること、思いがしていること、全部忘れて、その、次々現れることに、ただ黙々と対応していく。
それが、まあ、常にそこなのだ。
つまり、これは、誰かが達成するものではないのである。
思いを手放すというのも、本当は、流れているのである。
思ったそばから、忘れてしまうではないか。
だから、感情の蓄積、つまり、ストレスを開放することであるが、しかし、これも永遠にそうではなく、ただ、毎日することだ。
毎日というか、その瞬間ごとにしていくわけだ。
しかし、これらを、しなくても、またいいわけだから、もう表現しようがないね。
ただ、もう、すでに、そこである。
気がつこうが、つかなかろうが、もう生死の活動の中だ。
ただ、その目の前の事実、リアルというものを生きていくしかないのである。
その他に人生はない。
また、自分が他人になることもないし、その必要もない。
いいとか悪いものもない。
心と体と分けないように、自然と自己もわけない。
また邪心と聖心、無心、などというものがあるわけではない。
ただ、ここで、素朴に生きれば、いいのだ。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
今朝は6時ごろに起きてきました。
千鶴さんと悠聖も帰ってきているが、まだ、寝ている。
「ありがとう」を呟きながら洗面へ。
体がだるい。
明らかに食べすぎ、飲みすぎで、運動不足なのだな。
で、座禅を15分します。
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姿勢と妄想の確認作業のようなものですね。
すーっと精神が落ち着いてく。
座禅を終えるとコーヒーを淹れて読書です。
煙草も吸う。
えー、心と体は一つだと書いてあります。
だから死んだあとに魂が残って、彼岸へ行くなどというのは愚かな考えである。
瓦礫をお金だと思って握り締めているよりも、尚、愚かである。
愚か過ぎて、例えるものもない。
と、凄まじい批判ですね。
身心一如というのが、お釈迦様からの伝わった法門で、諸行無常というのも、そういうことでありますね。
生死は、いまここで、日々、巻き起こっている。
永遠というのは、この、生まれては死んでいる動き、自体の事であって、そこから自分が離れていないということなのだろう。
読書を終えると、千鶴さんが味噌汁の味見を頼んできたので「まあまあやな」というと「なにぃ」と怒っているww
まあ、考え方を弄る事ではないのです。
例えば、心身一如にしても、霊魂の不滅にしても、そういった考えは、ぜんぶ、いまここで生きていることの働きの中ですね。
だから、そこで快楽と不快が感情的に巻き起こってくる。
生きているから、いろんなことがある。
でも、その中で、自分が自分で在ること、そこで、終わりなのですね。
だからこそ、自分を清浄に保つように、思惑を落としていく。
それは、一回きり、そうして終わりというものではない。
何回も、何回も、毎瞬、毎瞬、一挙手一投足に集中しているということだ。
集中して手放す。
ここで体がしていること、思いがしていること、全部忘れて、その、次々現れることに、ただ黙々と対応していく。
それが、まあ、常にそこなのだ。
つまり、これは、誰かが達成するものではないのである。
思いを手放すというのも、本当は、流れているのである。
思ったそばから、忘れてしまうではないか。
だから、感情の蓄積、つまり、ストレスを開放することであるが、しかし、これも永遠にそうではなく、ただ、毎日することだ。
毎日というか、その瞬間ごとにしていくわけだ。
しかし、これらを、しなくても、またいいわけだから、もう表現しようがないね。
ただ、もう、すでに、そこである。
気がつこうが、つかなかろうが、もう生死の活動の中だ。
ただ、その目の前の事実、リアルというものを生きていくしかないのである。
その他に人生はない。
また、自分が他人になることもないし、その必要もない。
いいとか悪いものもない。
心と体と分けないように、自然と自己もわけない。
また邪心と聖心、無心、などというものがあるわけではない。
ただ、ここで、素朴に生きれば、いいのだ。