初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようかな?
こんばんは、でしょうか。
昨晩は、疲れて眠ってしまって、変な時間に目が覚めました。
ブログを見たり、お風呂に入ったり、しながら、悶々と考え尽くしていた。
昨日はYくんと会って、様々な、会話をしました。
エゴの苦悶に関しては、まあ、初歩的なことだという指摘をいただきました、笑
非二元に関しては、余り、驚きがない。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村
まあ、ね。
もともと、ひとつであるいうことは、前から、語っていたことではあります。
結局、僕としては、精神的には、かなり驚嘆していましたが、まあ、それも落ち着いてくるだろう。
ひとつである。
多様である。
有である、無である。
等々ということは、お釈迦様は説かなかった。
縁によって生ずる。
これあるによって、これあり、である。
無明によって行がある。
無明とは如実知見、智慧のないことである。
では、智慧とは何なのか。
この世界は自作でも他作でもなく、自作にして他作でもなく、自作でもなく他作でもなく因なくして生ずるものでもないとある。
これあるによって、これある。
誰かのコレとは言っていない。
誰かの無明とも言わないし、誰かの触とも言わない。
身体のある間は、その感覚を感じ、冷たくなれば、それを感じる。
そして生の滅したものに、苦はあるか?
と、問うているのである。
接触のないもの、感覚のないものに苦はあるのか?
それは自作に寄らない、他作でもない、自作にして他作でもない、自作でもなく、他作でもなく、因なくして生ずるものでもない。
苦の滅尽である。
世人は歓喜によって縛られているとは、このことである。
なのですから、まあ、生も死も、感覚から生じているものであり、それは、身と、口と、意の動き、つまり行から来ているのであり、それは、誰のものでもなく、無明から生じているのである。
無明は、苦について知らず、苦の原因を知らず、苦の滅尽することをしらず、苦の滅尽の道を知らない。
智慧は、この無明を滅することによって、生死が滅することを言っているのである。
しかし一体、この無明というものは、なんなのだ。
という疑問が、ここまで説かれても、判然としませんね。
ある弟子、というか、バラモンの高僧に対して、お釈迦様は、問われて、
「無明が頭であると知れ、頭の裂け落ちることが解脱である」
というようなことを言っていたと思います。
つまり、頭の中で、あれこれと、己の利益のために動いているわけですが、諸行無常の世界では、すべては失われてしまうのです。
その、世界の中で、ただ、感受を離れていることが、死を超越したことになる。
生も、老も、病も、死も、すべてですね。
誰に対して、起きているわけでもない、と、同時に、無明によって老死があるのです。
これは自分を守るというものでもなく、愛に溢れたわたし、なんかでもなく、ただ、この世界を嫌い、離れ去っていることなのですよ。
そうして、ハートの喜びが、感ぜられたなら、それが、すでに愛である。
永遠の愛。
それは、触が、ないところで、感覚の向こうにあるものである。
ニルヴァーナとは、この、エネルギーの中に、完全に、移行していることである。
肉体から、この、涅槃に、渡っていることなのだ!
それは、しかし、特別なことではなく、誰しもが最初から、そこにしかいないのである。
そこから、この幻想世界を楽しんでいる。
そして、カルマというのは、愛着のことであり、この愛が、世界を輪廻、回転させているのだ。
この、愛と、永遠の愛は、全くの別物である。
この意味でいうならば、愛は消失してしまわなければならず、まあ、廃人同然な感じに一度落ちなければならない。
だから絶望が必要だと書いているのである。
それに対して、どうも、この手をつかもうという意図が感ぜられる情報がある。
放つ手をもって、どこかへ、導こうということだが、どこにも導かれるものはないのである。
お釈迦様が、触がないときに、苦があるであろうか。
と弟子に聞いたときに、もう、それ以上の、何ものも、でることは不可能なのだ。
これ以外に、苦の滅尽はないのだし、愛、渇愛は、感受を喜ぶものである。
感受の喜び、感覚の悪魔ではなく、感受から解放されている喜びなのである。
感受が、ここにある、それで、感受が失われるのが、死である。
であるからして、この、感受に執着する心を、遠ざけて、あればよし、なくてもよし。
執着しないというのは、断つことではない。
あれば、あるがままにしておくことなのだ。
これは、最初から、自然が、天が、齎したものであり、それが、ただ巡っているのである。
そこには、これあるによって、これありがあるだけである、笑
掴まる場所は、どこにもないのである。
また、この意見とか主義とか、まあ、様々な宴会なんかにも、その裏に、なにやら、個の存在場を感じてしまう。
Yくんには、僕は、それを【穴倉】と表現したら、笑っていましたがwwwww
とにかく、今、ここで、ある、身体の感覚は、客体化して、意志が、機能できるようにしてしまわなければならない。
それが修業かもしれない。
上でも下でも横でも、中央でも、感受できるすべては執着のもとであると、正しく、見て、世間の迷妄に陥るな。
とお釈迦様が言っています。
すべてが、あるがままにある。
ただ、それだけであり、そこに、何らかの掴まる場所や、穴倉はないのである。
意見とか、見解とかを持ち歩いてはいけない。
それはイメージに張り付いた【牢獄】である。
このような、言葉は、必要ないのだ。
あるがままが、今、あるのは、それは自分にとって都合がいいとか悪いとかを超えて、あるがままである。
そして肉体が冷たくなれば、死んでしまうのだ。
だが、この世間の触が滅べば、もはや、二度と苦しむことはなく、執着が滅していれば、再び、生まれくることがないのである。
真我が、魂が、転生しないのだ。
もう、夢を見るのは、飽き飽きだ!
と言っているのである。
そして、この僕も、もう、夢の中で苦しんでいるのは、飽き飽きしたのであるwww
必要ありません。
しかし、苦しみは、その、中に、縁があるから、起こっているだけである。
頭があるから、苦しむのだ。
そうして、それをもっと、簡略にして、人に伝わりやすくすれば【思惑】を手放すことで、人は、あるがままであることに気が付くのだ。
あるがままとは、もう、あるがままなのだ。
どこにいようと、なにをしようと、すべてが、あるがままなのだ。
だから、説くことも、本来は、ないはずなのだが、僕の執着が、まだ、残っているので、こういうことになってしまうのである。
それがエゴである。
エゴの死は、歓迎すべきものなんかじゃない。
それは、感受の死なのである。
感覚の、断念のことである。
サーリープッタさんが後ろから殴られても「なにかありましたか?」と優しく聞いたり、ラマナ・マハルシが盗賊に殴られても沈黙していたり、する。
またキリストが右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せという。
このようなことが、起こるのは、この世間で、世界の中で、エゴが滅しているからである。
感受が、自己ではないのだ。
だからと言って、苦がないというわけではない。
苦があるのだが、それを受け取っていないのである。
いりません。
で、ある、笑
こういったことは教えの中や、概念の中や、本の中や、イベントの中にあるわけではない。
そういったもの、すべて、が、頼りにならなくなり、否定され、それでもまた、個人が救われない時に、この個人を滅してしまうことである。
それは、独りですることなのだ。
誰からも教わることができないので、自分が、自分に教えているのである。
それが、まあ、人生なのだ。
だから、みんなが一生懸命生きていることが、実際は、分け隔てなく、教えなのであり、究極の修業なのであるからして、なんらかの形を、そこに当てはめて、これだけが真実で、あとは嘘なんてことはありえないのである。
これあるによって、これありである(爆笑)
そして【思惑】が落ちた時には、この目の前の、瞬間、瞬間の、あるがままの諸行無常は、ただ、現れては消えていく儚い、ただの、誘惑者なのだ。
そして、この世界は、認識がない、触覚がないところでは、涅槃なのである。
そこに、魂があるか、ないかは、確かめようもないことであるし、肉体の死後にどうなるかも、確かめようもないのではあるが、しかし、生老病死の苦の滅尽に関しては、これ以上は、ありえないだろう。
無明が滅するによって行が滅する!
言い方を変えれば、これこそが、放てば手に満てりである。
流れ去る川の、流れは、もとの水ではないが、しかし、そこに、何とも言えない慈悲が起こるのだ!!!!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようかな?
こんばんは、でしょうか。
昨晩は、疲れて眠ってしまって、変な時間に目が覚めました。
ブログを見たり、お風呂に入ったり、しながら、悶々と考え尽くしていた。
昨日はYくんと会って、様々な、会話をしました。
エゴの苦悶に関しては、まあ、初歩的なことだという指摘をいただきました、笑
非二元に関しては、余り、驚きがない。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村
まあ、ね。
もともと、ひとつであるいうことは、前から、語っていたことではあります。
結局、僕としては、精神的には、かなり驚嘆していましたが、まあ、それも落ち着いてくるだろう。
ひとつである。
多様である。
有である、無である。
等々ということは、お釈迦様は説かなかった。
縁によって生ずる。
これあるによって、これあり、である。
無明によって行がある。
無明とは如実知見、智慧のないことである。
では、智慧とは何なのか。
この世界は自作でも他作でもなく、自作にして他作でもなく、自作でもなく他作でもなく因なくして生ずるものでもないとある。
これあるによって、これある。
誰かのコレとは言っていない。
誰かの無明とも言わないし、誰かの触とも言わない。
身体のある間は、その感覚を感じ、冷たくなれば、それを感じる。
そして生の滅したものに、苦はあるか?
と、問うているのである。
接触のないもの、感覚のないものに苦はあるのか?
それは自作に寄らない、他作でもない、自作にして他作でもない、自作でもなく、他作でもなく、因なくして生ずるものでもない。
苦の滅尽である。
世人は歓喜によって縛られているとは、このことである。
なのですから、まあ、生も死も、感覚から生じているものであり、それは、身と、口と、意の動き、つまり行から来ているのであり、それは、誰のものでもなく、無明から生じているのである。
無明は、苦について知らず、苦の原因を知らず、苦の滅尽することをしらず、苦の滅尽の道を知らない。
智慧は、この無明を滅することによって、生死が滅することを言っているのである。
しかし一体、この無明というものは、なんなのだ。
という疑問が、ここまで説かれても、判然としませんね。
ある弟子、というか、バラモンの高僧に対して、お釈迦様は、問われて、
「無明が頭であると知れ、頭の裂け落ちることが解脱である」
というようなことを言っていたと思います。
つまり、頭の中で、あれこれと、己の利益のために動いているわけですが、諸行無常の世界では、すべては失われてしまうのです。
その、世界の中で、ただ、感受を離れていることが、死を超越したことになる。
生も、老も、病も、死も、すべてですね。
誰に対して、起きているわけでもない、と、同時に、無明によって老死があるのです。
これは自分を守るというものでもなく、愛に溢れたわたし、なんかでもなく、ただ、この世界を嫌い、離れ去っていることなのですよ。
そうして、ハートの喜びが、感ぜられたなら、それが、すでに愛である。
永遠の愛。
それは、触が、ないところで、感覚の向こうにあるものである。
ニルヴァーナとは、この、エネルギーの中に、完全に、移行していることである。
肉体から、この、涅槃に、渡っていることなのだ!
それは、しかし、特別なことではなく、誰しもが最初から、そこにしかいないのである。
そこから、この幻想世界を楽しんでいる。
そして、カルマというのは、愛着のことであり、この愛が、世界を輪廻、回転させているのだ。
この、愛と、永遠の愛は、全くの別物である。
この意味でいうならば、愛は消失してしまわなければならず、まあ、廃人同然な感じに一度落ちなければならない。
だから絶望が必要だと書いているのである。
それに対して、どうも、この手をつかもうという意図が感ぜられる情報がある。
放つ手をもって、どこかへ、導こうということだが、どこにも導かれるものはないのである。
お釈迦様が、触がないときに、苦があるであろうか。
と弟子に聞いたときに、もう、それ以上の、何ものも、でることは不可能なのだ。
これ以外に、苦の滅尽はないのだし、愛、渇愛は、感受を喜ぶものである。
感受の喜び、感覚の悪魔ではなく、感受から解放されている喜びなのである。
感受が、ここにある、それで、感受が失われるのが、死である。
であるからして、この、感受に執着する心を、遠ざけて、あればよし、なくてもよし。
執着しないというのは、断つことではない。
あれば、あるがままにしておくことなのだ。
これは、最初から、自然が、天が、齎したものであり、それが、ただ巡っているのである。
そこには、これあるによって、これありがあるだけである、笑
掴まる場所は、どこにもないのである。
また、この意見とか主義とか、まあ、様々な宴会なんかにも、その裏に、なにやら、個の存在場を感じてしまう。
Yくんには、僕は、それを【穴倉】と表現したら、笑っていましたがwwwww
とにかく、今、ここで、ある、身体の感覚は、客体化して、意志が、機能できるようにしてしまわなければならない。
それが修業かもしれない。
上でも下でも横でも、中央でも、感受できるすべては執着のもとであると、正しく、見て、世間の迷妄に陥るな。
とお釈迦様が言っています。
すべてが、あるがままにある。
ただ、それだけであり、そこに、何らかの掴まる場所や、穴倉はないのである。
意見とか、見解とかを持ち歩いてはいけない。
それはイメージに張り付いた【牢獄】である。
このような、言葉は、必要ないのだ。
あるがままが、今、あるのは、それは自分にとって都合がいいとか悪いとかを超えて、あるがままである。
そして肉体が冷たくなれば、死んでしまうのだ。
だが、この世間の触が滅べば、もはや、二度と苦しむことはなく、執着が滅していれば、再び、生まれくることがないのである。
真我が、魂が、転生しないのだ。
もう、夢を見るのは、飽き飽きだ!
と言っているのである。
そして、この僕も、もう、夢の中で苦しんでいるのは、飽き飽きしたのであるwww
必要ありません。
しかし、苦しみは、その、中に、縁があるから、起こっているだけである。
頭があるから、苦しむのだ。
そうして、それをもっと、簡略にして、人に伝わりやすくすれば【思惑】を手放すことで、人は、あるがままであることに気が付くのだ。
あるがままとは、もう、あるがままなのだ。
どこにいようと、なにをしようと、すべてが、あるがままなのだ。
だから、説くことも、本来は、ないはずなのだが、僕の執着が、まだ、残っているので、こういうことになってしまうのである。
それがエゴである。
エゴの死は、歓迎すべきものなんかじゃない。
それは、感受の死なのである。
感覚の、断念のことである。
サーリープッタさんが後ろから殴られても「なにかありましたか?」と優しく聞いたり、ラマナ・マハルシが盗賊に殴られても沈黙していたり、する。
またキリストが右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せという。
このようなことが、起こるのは、この世間で、世界の中で、エゴが滅しているからである。
感受が、自己ではないのだ。
だからと言って、苦がないというわけではない。
苦があるのだが、それを受け取っていないのである。
いりません。
で、ある、笑
こういったことは教えの中や、概念の中や、本の中や、イベントの中にあるわけではない。
そういったもの、すべて、が、頼りにならなくなり、否定され、それでもまた、個人が救われない時に、この個人を滅してしまうことである。
それは、独りですることなのだ。
誰からも教わることができないので、自分が、自分に教えているのである。
それが、まあ、人生なのだ。
だから、みんなが一生懸命生きていることが、実際は、分け隔てなく、教えなのであり、究極の修業なのであるからして、なんらかの形を、そこに当てはめて、これだけが真実で、あとは嘘なんてことはありえないのである。
これあるによって、これありである(爆笑)
そして【思惑】が落ちた時には、この目の前の、瞬間、瞬間の、あるがままの諸行無常は、ただ、現れては消えていく儚い、ただの、誘惑者なのだ。
そして、この世界は、認識がない、触覚がないところでは、涅槃なのである。
そこに、魂があるか、ないかは、確かめようもないことであるし、肉体の死後にどうなるかも、確かめようもないのではあるが、しかし、生老病死の苦の滅尽に関しては、これ以上は、ありえないだろう。
無明が滅するによって行が滅する!
言い方を変えれば、これこそが、放てば手に満てりである。
流れ去る川の、流れは、もとの水ではないが、しかし、そこに、何とも言えない慈悲が起こるのだ!!!!