初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは!
今日は12時ごろにノソノソと這い出してきました。
何かするたびに「起こっている」というテーマが頭を駆け巡る。
そして、それも、起こっている。
体が激重いのも、起こっている。
気分がどん底なのも、起こっている。
大和田菜穂さんが good! と手を差し出した笑顔が、脳裏を掠めるのも、起こっている。
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昔の思い出に浸ってしまうのも、起こっている。
母親の家で食事をした。
したのではなく、したという風に映像が回転したのである。
そこに、僕は、いない!
ただ、この全体の描写が湧いているのである。
そこの中心にいるはずの、僕は、ただの絵である。
そして様々な会話をする。
会話をしたのではなくて、そのような映像が回転していた・・・・・・orz
ギャオーーーーーース!!!!
気が狂うぞ、俺wwwwwwww
という思考が「起こっている」
今朝は、大和田菜穂さんのyoutube動画を見ていました。
アーステレビのやつ。
あれが一番、なんか、いい。
菜穂さんが「そうです!」と言い切って手をグッドサインするとき、これ、イリュージョンに入ってしまうのであります。
もはや、ただ、アイドルに憧れている中学生のようですwwwww
対象としての自己。
自己意識。
これが、幻想である。
などという、超、クレイジーメッセージのはずなのだが!!!!
違和感なく入ってきちまうのだ。
なにもない無時間に、全体としての映像が、現れている。
自己とは無関係に、ただ、描写されている。
中心としての、把握する対象であるはずの、自己が全体そのものになっている。
全体、そのものは、幻想である。
無の中に、ポッと現れているのだ。
現れては消えている。
そして、死は、幻想であるのは、もともと、無時間であるのだからだ。
つまり、対象としての自己は不在なのである。
これは、究極過ぎるぞ!
つまり、人間を取り扱っていないわけである。
人生内の、出来事を、一切、問題にしていなくて、その出来事からの脱却である。
脱却というのか、出来事、そのものが、自己であるというのか。
いや、自己というより風景なのだ。
その風景は、自己に映っているわけではないのだ。
自己⇒リアル
リアル⇒自己
というような関係性は、元々、ないということである。
リアル=無時間
この公式だけが、あって、それを経験している主体が不在なのである。
これって禅、とか、グルジェフワークとは全然違うように感じる。
似ているようで、ヤバサがぜんぜん、違う。
普通は、機能としての、全体と縁起している、自己というのは、残っている。
一番よく現している言葉。
「仏道というは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」
「仏道は自己なり」
仏=自己と言う風に、縁起しているんですよね。
これは、自己が忘れられる、忘我することで、リアルが自己に踊りこんでくる事です。
自己は消失していますが、全体としての自己がある。
全体と不ニの自己です。
ここでは自己感覚が、機能が、リアルと融合しているわけですので、現実は、よりシャープに、中心としての自己に映されています。
自分が自分しているわけですね。
しかし、菜穂さんの仰られているのは、この踊りこんでくるリアルというのはストーリーであり、その幻想の事実は、自己と縁起しているわけではないということです。
つまり、真我も、悟りもない。
なぜなら、私自身が、最初から、存在していないからということですよ!?
この自己感覚、自己意識、自体が、幻想なので、その、意識と感覚に映っているリアル、もしくはリアルが反映した自己などという概念は成立しないのです。
不二ではなく、無二というのか・・・・・・。
眼前の自己とか、よく言われている「私はあなた」なんてのも、全然、相手になりません。
交流がないからです。
交流しているのは、幻想の、映像の中の、キャラだけで、だから、そのリアル、そのものの実在性を否定しているのです。
個人の存在を否定しているというのか、、、それは「生命の描写」でしかない。
逆に言えば、まるっと、あらゆる、すべてを、全肯定しているのか。
このリアルというのは「自己が不在」のリアル。
だからリアルではなくて、たとえるなら夢のようなもの。
つまり、しっちゃかめっちゃかな、意味不明な、何らかの表現。
誰に対して起こっているわけでもない。
全肯定というのも、ただ、巻き起こっているだけ、のものしかない。
という形での、全肯定です。
でもね。
これ、今朝から、行ったり来たりしだしてるんですよ。
つまり中心としての自己に戻ったり、全体のみの世界にいたりしている。
自己と世界がリンクするのではなく。
これは、僕が書いていた「行ったり、来たり」とは全く違います。
僕は純粋意識、五感や本能の働きと縁起した不二の自然世界と、思念(思惑)の世界の間の行ったり、来たりを思っていたのです。
しかし、これは、その自己意識と自己感覚の不在と、その存在の間です。
受け手が残っていないのと、現れるの間の「行ったり来たり」です。
うげー、酔っ払ううううううう。
泥酔状態と似てるかもしれない・・・・・・。
いや、そんなわけない。
酔っていても、さすがに、自己感覚は、本能は残っている。
こんなに混乱させてもらったのは、久しぶりだぜwwwww
グルジェフさんの「人間は機械である」以来の衝撃だ。
機械であっても人間が残っているので、まだ甘いwwwww
人間は、不在である。
ただ、このクリエイトされた描写だけが、しかも、瞬間の、無時間の、自己と無関係の全体だけが、ある。
僕はノンデュアリティを誤解して受け取っているのかもなあ。
これって言ってみたら、恋愛とかしてる人は、もう、これ、完全に意味を失う話でもありますよね。
別に、あったら、あっただけでしょレベルwwwww
つまり、愛情とか、愛着とか、そういうものは、単なる描写ですから、ただ、そこにあるんです。
いいもわるいもなく、ただ、ある。
自己の「意識的行為」とか「意志」というものが、そこにはない。
「自分は愛している」と思うことが、ただ、そこで起こっている。
完成された映像として、自己の不在の中で、ただ、そこで起こっている。
それを体験している人が、不在なのですよ!?
おおおおおおおおおおおお。
ここまで抵抗が表れるとは、まだまだ、じゃのう我。
自分の中の触れてはいけないところに入っているという危機感。
僕の今の理解では、ただ、この現れだけがある。
この現れというのは、自己不在の、つまり、自分に対して起こっている現われではなく、単なる映像としてのこれ。
全体。
この全体が私を生きているのではない。
全体だけがある。
しかも、その全体は幻想であり、実際は、無時間である。
つまり、無の中に、切り離されない全体生命だけがある。
しかし、無は感じられないので、全体だけが残っている。
そこに、自己は不在なので、生も、死もない。
つまり、ギャオーーーーーーーーーーーーーーース!
と、叫ぶしかないのです、笑
いいですか、みなさん!!
ここにブログが書かれていると思うでしょう。
僕の指がキーボードをタイプしていると思うでしょう。
そして、僕の脳内に閃いたアイデアが、ここにあると思うでしょう。
それらの、ことは、実際には、ないんですよ?
ただ、ここで、僕が書いているのは、ストーリーの中なのです。
つまり、意志も、行為もなく。
ただ、無時間の映画が上映されている。
そこに、僕は、いなくて、このブログは勝手に書かれているのですよ。
描写が、とういか、起きる事が、起きているだけ。
だから、みんさん!
このストーリーには責任は皆無なのです!!!!
人間と人間の愛とか、愛情は、完全に幻想ということですよ?
まあ、幻想と言えど、あるわけですが、しかし、そこに自由意志、選択がない!!
これは絶対に、誰にとっても、ピンチだと思いますけどねえ。
あなたはいない。
ですよ?
「元々いないという体験」自体も無いのですよ?
つまり、悟りなんて、あってもなくても、関係ないと仰られているのですwww
ブッチャケ、悟りどころか、あなたは、生きていないと言っているのです。
完璧な生命の描写だけがある。
それを眺めたり、体験したりしている人すらいないのです。
自己⇒対象というのが普段の感覚です。
で、対象⇒自己というのが、自覚している状態です。
そして、自己⇔対象という二つが一つになっているのが、自己想起です。
この自己想起というのは純粋な知覚の中に、全体が現れている状態です。
しかし、大和田さんの表現は、この自己と対象、というものが、どちらもない。
これらの行為があるという、想い、自体が、起こっているだけなのです。
映像があります。
その中心に身体感覚としての自己があります。
そして認知としての意識があります。
この自己意識と自己感覚が、ないのです。
つまり、ただ、無時間の生命映像が、あるだけ。
全体生命の描写だけがある。
それ以外に、なにもない。
この全体があるというのは、自己にあるわけではないですよ。
全体だけがあって、それを体験している自己は不在なのです。
意識も感覚も、全体の描写です。
ただ、これだけ。
ここまで強烈な表現は、今までに、見た事がない。
現象界で何をするかは、全く関係ないと、いうことです。
完全にコントロール外にあるということですよ!?wwwww
起こることが、起こっているだけ。
愛にすらも意志はない。
このメッセージを理解していたら、まあ、なんていうのかなあ。
笑っちゃうでしょwwwww
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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何かするたびに「起こっている」というテーマが頭を駆け巡る。
そして、それも、起こっている。
体が激重いのも、起こっている。
気分がどん底なのも、起こっている。
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昔の思い出に浸ってしまうのも、起こっている。
母親の家で食事をした。
したのではなく、したという風に映像が回転したのである。
そこに、僕は、いない!
ただ、この全体の描写が湧いているのである。
そこの中心にいるはずの、僕は、ただの絵である。
そして様々な会話をする。
会話をしたのではなくて、そのような映像が回転していた・・・・・・orz
ギャオーーーーーース!!!!
気が狂うぞ、俺wwwwwwww
という思考が「起こっている」
今朝は、大和田菜穂さんのyoutube動画を見ていました。
アーステレビのやつ。
あれが一番、なんか、いい。
菜穂さんが「そうです!」と言い切って手をグッドサインするとき、これ、イリュージョンに入ってしまうのであります。
もはや、ただ、アイドルに憧れている中学生のようですwwwww
対象としての自己。
自己意識。
これが、幻想である。
などという、超、クレイジーメッセージのはずなのだが!!!!
違和感なく入ってきちまうのだ。
なにもない無時間に、全体としての映像が、現れている。
自己とは無関係に、ただ、描写されている。
中心としての、把握する対象であるはずの、自己が全体そのものになっている。
全体、そのものは、幻想である。
無の中に、ポッと現れているのだ。
現れては消えている。
そして、死は、幻想であるのは、もともと、無時間であるのだからだ。
つまり、対象としての自己は不在なのである。
これは、究極過ぎるぞ!
つまり、人間を取り扱っていないわけである。
人生内の、出来事を、一切、問題にしていなくて、その出来事からの脱却である。
脱却というのか、出来事、そのものが、自己であるというのか。
いや、自己というより風景なのだ。
その風景は、自己に映っているわけではないのだ。
自己⇒リアル
リアル⇒自己
というような関係性は、元々、ないということである。
リアル=無時間
この公式だけが、あって、それを経験している主体が不在なのである。
これって禅、とか、グルジェフワークとは全然違うように感じる。
似ているようで、ヤバサがぜんぜん、違う。
普通は、機能としての、全体と縁起している、自己というのは、残っている。
一番よく現している言葉。
「仏道というは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり」
「仏道は自己なり」
仏=自己と言う風に、縁起しているんですよね。
これは、自己が忘れられる、忘我することで、リアルが自己に踊りこんでくる事です。
自己は消失していますが、全体としての自己がある。
全体と不ニの自己です。
ここでは自己感覚が、機能が、リアルと融合しているわけですので、現実は、よりシャープに、中心としての自己に映されています。
自分が自分しているわけですね。
しかし、菜穂さんの仰られているのは、この踊りこんでくるリアルというのはストーリーであり、その幻想の事実は、自己と縁起しているわけではないということです。
つまり、真我も、悟りもない。
なぜなら、私自身が、最初から、存在していないからということですよ!?
この自己感覚、自己意識、自体が、幻想なので、その、意識と感覚に映っているリアル、もしくはリアルが反映した自己などという概念は成立しないのです。
不二ではなく、無二というのか・・・・・・。
眼前の自己とか、よく言われている「私はあなた」なんてのも、全然、相手になりません。
交流がないからです。
交流しているのは、幻想の、映像の中の、キャラだけで、だから、そのリアル、そのものの実在性を否定しているのです。
個人の存在を否定しているというのか、、、それは「生命の描写」でしかない。
逆に言えば、まるっと、あらゆる、すべてを、全肯定しているのか。
このリアルというのは「自己が不在」のリアル。
だからリアルではなくて、たとえるなら夢のようなもの。
つまり、しっちゃかめっちゃかな、意味不明な、何らかの表現。
誰に対して起こっているわけでもない。
全肯定というのも、ただ、巻き起こっているだけ、のものしかない。
という形での、全肯定です。
でもね。
これ、今朝から、行ったり来たりしだしてるんですよ。
つまり中心としての自己に戻ったり、全体のみの世界にいたりしている。
自己と世界がリンクするのではなく。
これは、僕が書いていた「行ったり、来たり」とは全く違います。
僕は純粋意識、五感や本能の働きと縁起した不二の自然世界と、思念(思惑)の世界の間の行ったり、来たりを思っていたのです。
しかし、これは、その自己意識と自己感覚の不在と、その存在の間です。
受け手が残っていないのと、現れるの間の「行ったり来たり」です。
うげー、酔っ払ううううううう。
泥酔状態と似てるかもしれない・・・・・・。
いや、そんなわけない。
酔っていても、さすがに、自己感覚は、本能は残っている。
こんなに混乱させてもらったのは、久しぶりだぜwwwww
グルジェフさんの「人間は機械である」以来の衝撃だ。
機械であっても人間が残っているので、まだ甘いwwwww
人間は、不在である。
ただ、このクリエイトされた描写だけが、しかも、瞬間の、無時間の、自己と無関係の全体だけが、ある。
僕はノンデュアリティを誤解して受け取っているのかもなあ。
これって言ってみたら、恋愛とかしてる人は、もう、これ、完全に意味を失う話でもありますよね。
別に、あったら、あっただけでしょレベルwwwww
つまり、愛情とか、愛着とか、そういうものは、単なる描写ですから、ただ、そこにあるんです。
いいもわるいもなく、ただ、ある。
自己の「意識的行為」とか「意志」というものが、そこにはない。
「自分は愛している」と思うことが、ただ、そこで起こっている。
完成された映像として、自己の不在の中で、ただ、そこで起こっている。
それを体験している人が、不在なのですよ!?
おおおおおおおおおおおお。
ここまで抵抗が表れるとは、まだまだ、じゃのう我。
自分の中の触れてはいけないところに入っているという危機感。
僕の今の理解では、ただ、この現れだけがある。
この現れというのは、自己不在の、つまり、自分に対して起こっている現われではなく、単なる映像としてのこれ。
全体。
この全体が私を生きているのではない。
全体だけがある。
しかも、その全体は幻想であり、実際は、無時間である。
つまり、無の中に、切り離されない全体生命だけがある。
しかし、無は感じられないので、全体だけが残っている。
そこに、自己は不在なので、生も、死もない。
つまり、ギャオーーーーーーーーーーーーーーース!
と、叫ぶしかないのです、笑
いいですか、みなさん!!
ここにブログが書かれていると思うでしょう。
僕の指がキーボードをタイプしていると思うでしょう。
そして、僕の脳内に閃いたアイデアが、ここにあると思うでしょう。
それらの、ことは、実際には、ないんですよ?
ただ、ここで、僕が書いているのは、ストーリーの中なのです。
つまり、意志も、行為もなく。
ただ、無時間の映画が上映されている。
そこに、僕は、いなくて、このブログは勝手に書かれているのですよ。
描写が、とういか、起きる事が、起きているだけ。
だから、みんさん!
このストーリーには責任は皆無なのです!!!!
人間と人間の愛とか、愛情は、完全に幻想ということですよ?
まあ、幻想と言えど、あるわけですが、しかし、そこに自由意志、選択がない!!
これは絶対に、誰にとっても、ピンチだと思いますけどねえ。
あなたはいない。
ですよ?
「元々いないという体験」自体も無いのですよ?
つまり、悟りなんて、あってもなくても、関係ないと仰られているのですwww
ブッチャケ、悟りどころか、あなたは、生きていないと言っているのです。
完璧な生命の描写だけがある。
それを眺めたり、体験したりしている人すらいないのです。
自己⇒対象というのが普段の感覚です。
で、対象⇒自己というのが、自覚している状態です。
そして、自己⇔対象という二つが一つになっているのが、自己想起です。
この自己想起というのは純粋な知覚の中に、全体が現れている状態です。
しかし、大和田さんの表現は、この自己と対象、というものが、どちらもない。
これらの行為があるという、想い、自体が、起こっているだけなのです。
映像があります。
その中心に身体感覚としての自己があります。
そして認知としての意識があります。
この自己意識と自己感覚が、ないのです。
つまり、ただ、無時間の生命映像が、あるだけ。
全体生命の描写だけがある。
それ以外に、なにもない。
この全体があるというのは、自己にあるわけではないですよ。
全体だけがあって、それを体験している自己は不在なのです。
意識も感覚も、全体の描写です。
ただ、これだけ。
ここまで強烈な表現は、今までに、見た事がない。
現象界で何をするかは、全く関係ないと、いうことです。
完全にコントロール外にあるということですよ!?wwwww
起こることが、起こっているだけ。
愛にすらも意志はない。
このメッセージを理解していたら、まあ、なんていうのかなあ。
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