豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

僕たちは、ひとりではない

2015-06-16 05:17:47 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

今朝は午前3時過ぎに起きてきました。

「ありがとう」を久しぶりに連呼しながら洗面をします。

のんびりしてから座禅を1時間10分します。

当分、座っていなかったので、長めに時間をとりました。

スッキリ爽快です。

それで、また、玄関脇で読書をしようと思いましたが、煙草もコーヒーもない。



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仕方ないので、着替えて、コンビニへ。

煙草2箱と缶コーヒーを買って、帰って、読書です。

ああ、やっぱり、いいなあ。

何が違うって、何かこう、柔らかいんですよね。

思いを開くという表現がありましたが、これの方が、悟りを開くよりいいんじゃないかなあwwww

我と一切有情、同時に、成道!

これが、まあ、一番、ほんとうのことでしょうね。

刹那の表現も、生きているのであり、起こっていることというのは、ただ、この場の自然の事である。

何も出来ないのではない。

何をしても自由なのだ。

その、絶対安心の境地から、物事を、見ていく。

すべてが決まっているわけではない。

決まっている事は、ひとつもないというのが、真実である。


朝には、たくさんの鳥が鳴いている。

その、ひとつひとつの声を聞くことが出来るだろうか。

できない。

その一つ一つの声は、しかし、一羽の鳥の発したものなのである。

それらが全体となって、瞬間の、瞬間、瞬間に、僕の耳へ届く。

心が静かだからである。

それは、我と一切有情が成道しているからこそ、成るのである。

最初ッから!


人を迷わせるアイデアを持ち運ぶのは、よくない。

この、世界、この、自然、そして、人間は、同じ、生命を楽しんでいる。

その思いが開けば、全体は、ひとつである。

しかし、これは、体と離れてあるわけではないのである。

感覚が消失したら、人間は、ここにはいない。

生きている限り、必ず、感覚がある。

それが自分のものではないとするのは、アイデアの変更である。

認識の変換である。


そんなことをしなくても、最初から、私たちはひとつなのだ。

なにもすることはない。

手をつけることは、ひとつもない。

自分自身であること、徹底的に、感じ尽くすことが、眼を開かせるのだ。

それは幻想なんかではない。

人生なのだ。

そして苦の滅尽とは、苦しみがなくなることではないのだ。

それは逃避である。

ただ、この苦しみの中で、自分を生きていることが苦の滅尽なのである。


自分から離れる事はできない。

絶対に、できないのだ!!!!!!!!

忘我の境地、また、悟りの境地というのは、自然なものである。

ただ、思いが、心が、この世界いっぱいに開き切っている。

何かする前に、生かされている、この自分、大地、天空の3つの世界が、同時に、ここに現生していることである。


眠っているときですら、あなたは存在している。

わたしなんかいなかったというのは、特定された個人的な持ち物なんか一個もないという意味なのである。

その、しかし、命名出来ない、ひとつの純粋意識の中に、すべてが現生している。

そして、その、機能は、生きている限り、体と離れないのだ。

たしかに、体も、自分ではない。

自然と一体であり、自然界に生かされている。

しかし、その体を通して、今、自己を表現している。

もしも、そこが断たれたならば、生きていないのだ!


ここに、今、生きていることは、奇蹟中の、奇蹟。


この現実は夢で、その夢が消えた時に、ナチュラルな現実が現れるという。

しかし、夢が消えたら、何も残らないではないか。

この夢と、私が、ここで、ひとつの、生命を楽しんでいるのだ。

私も、夢も、消えたのなら、残っているものは、ひとつもない。

元々、そこに、いるのだが、しかし、今は、体と共に、生きているではないか。


冗談ではない。

もしも、私が、そこにいなければ、体も、ない。

心と体は、繋がっているのである。


禅の師匠が「喝!!」と叫んで、棒切れで体を30回も叩くという。

それはなぜだ。

まだ、わからんのかと言って、叩きまわす。

若しくは、ブチ殴る。


道元さんが、中国から帰ってきた。

眼は横であり、鼻は縦である、別段、何も手に入れず、空手にして、帰ってきた。


もしも、座禅も瞑想も、何も要らないと言うのなら、この体を完全に離れているというのなら、それは分離である。

空性と現実が分かれている。

そして、この世界を否定するならば、必ず、危険な道へ進んでしまう。

空と仮の世界は、分かれていない。

心と体は、ひとつ。

心身一如が釈迦の法門であると、昔から言われている。

それを否定できるのだろうか。

そして、それを否定したものが、悟りを語れるのだろうか。


仏道とは自己なり。

この自分自身を離れて、法は、ない。

そう言われてきている。

一切を否定して、闇に葬るならば、それは、現実を見ていない事になる。


無我であるというのは、我と一切有情が同時に成道しているということである。

それは簡単に言ってしまえば、みんな、生きている。

その生きている土台が、本来の面目。

眼は横であり、鼻は縦であるところに、生きているのだ。


まあ、でも、本来は無であるということは否定されない。

本来は無であるが、今は、仮に、ここにいるのである。

そして、この仮の世界を否定する事は、肉体を持って生きている限りできない。

命の尊さ!!!!

生きていることの大切さを、どんな宗教でも主張してきた。


『いのちを大切に』と、どんな人でも言うだろう。

そこを踏み外したら、もう、単なるアイデアである。

逃避である。

仮の姿かもしれない、夢の存在かもしれないが、今、自分は、ここにいるではないか。

そして、その奇蹟の贈り物、ギフト、人生は2度とやってこないのだ。

生きるしかない。

どんな人生でも、中身は、未知である。

決まってなんかいない。

運命は、それは、人間の意志が切り開くものである。

そして、その意志の不在が、この現世界の、戦争ではないか!


社会の事はどうすることもできないかもしれない。

それでも、やるのが、大和魂ではなかったか?


『こうすればこうなると、わかっていながら、大和魂』である。

それは、愛と勇気が、同時に、働いている結果ではないだろうか。

この男性性と女性性は、同時に、ひとりの人間の中にある。

どんなことをしても問題がないというノンデュアリティの価値観は、愛の開花ではある。

それは、個人を徹底的に救うだろう。

しかし集団社会、この、夢の世界は、放っておいてもいいのだろうか。

ただ、夢だから、いいのだろうか?

それは、今までのカルトの、現代宗教の、大きな問題点ではないか。

空を強調しすぎて、おかしくなってしまったら、取り返しがつかない。


大きな影響力を持つ人が、例えば、この世界で、何があっても問題がないなんてことを言ってしまったら、どうなるだろう。

準備のできた人だけに伝えるのなら、問題はないだろうが、そうでない人が、これを勘違いして、なんでもかんでも、やりたいようにやってしまったら、もう、どのように償う事もできない。

『悪いと知って犯せば、償う事はできない』とはグルジェフさんの言葉である。

二度と生きることはできないからだ。


人間の価値観では計ることのできない宗教の風光。

それは、愛、慈悲、つまり情緒の、思いの、開放である。

そこには暴力性は生まれない。

それは、生命の、力に、帰っているからである。

自然の、体の、奇蹟の中に、開放されているからである。


しかし、この事実に導かれる前に、アイデアとして、この『いいもわるいもない』を持ち運んでしまう事に対しては、注意を喚起しなければならない。

薬物で体を悪くしてしまう人がいたら注意しなければならない。

自由とは、そういうことではないのだ。

自由というのは、この世界に、いることである。

この世界に開き切っていることである。


頭の世界を抜けるというのは、考えるのを止める事ではない。

この純粋な知覚が、体と自然とを分けずに、また、空と仮とも分けずに、あるがままに、自然に、生きていることである。

特別な事ではない。

平凡な日常、ほんとうに、ただ、このままの世界。


自己が消失した空に在ることは、自己は消失していない!

この世界に帰ってきて、目の前にある、物事に、普通に生きていることが、自己が消失している事なのだ。

お金を稼ぐために働いていることだwwwwwww

そして、その一挙手一投足が、命を穢さないように、魂を曇らさないように、明快に、明敏に、シャープに、リアルと融合している事なのである。

僕たちは本来はひとつだ。

しかし、その、ひとつが、今、分かれて、ひとりではない。

僕たちは、ひとりではないのだ!!