初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
今日は雨で物悲しいですね。
仕事帰ってから、母親の家で、麻婆豆腐食べてからのんびりしてます。
茶、のんで、ビール、のんで、インターネット。
特に書きたい事もないんだけど、毎日更新しているから、なんか止めたくないだけの理由でブログ更新をはじめました。
そうそう昨夜は久しぶりにYくんと、のんびり会話しましたね。
基本、ドライブで、あとは、コンビニ寄ったり。
人生は、どこにも向かっていないということを受け入れようと思います、笑
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まあ、いろいろ聞いてもらえて、楽しかったですね。
他は、特に、変化も無いなあ。
ノンデュアリティの興奮も冷めてきて、まあ、このまんまなんでしょって気分w
起きていることだけしかない。
これはさ、自然が最初ッから、目の前にあって、それと縁があって、いろんなことが起こっているってことだよね。
まあ、日本人なら、だいたい、みんな知ってるかも、笑
お陰様って言葉もあるくらいだしねえ。
自分だけの力で、何もかもやってると考えてる人の方が、少ない。
感謝も大好きだもんね、みんな。
だいたい、元々が東洋思想だからね。
本家本元の、八百万の神々の国、日本には、敵いませんよww
でね、Yくんの話で言霊の話がよく出るので、調べてみたら、言葉っていうのは、事からきているみたいだね。
だから、起きているという言葉に命を吹き込んだら、その通りになる。
言葉は事だからね。
そうやって、話していたら、その通りになるってことかもしれない。
でも、違っていると災いが起こるみたいなことも書いてあったかなあ。
何と違っているとか忘れたけどwwww
あとね。
心身を清浄に保つということも、日本人は、凄いよね。
清めるという概念まであるくらい。
だから何ってわけでもないけど、もうちょっと、日本の精神性に、自信持ってもいいような気がするなあ。
外国からの輸入ばかりだもんね。
禅だって、外に広まったから、騒がれてるだけで、淡々と、昔からやってるんだからさ。
千利休だっているしねww
ああいう、京都の寺院の庭とかの、自然と静粛性が兼備わったような表現ができるのは、日本人だけじゃないのかな。
仏像の表現でも、平安時代とかのは、もう、吃驚するくらい感性に触れるよね。
まあ、明治になってから、西洋、西洋で、物質文明をずっと追いかけていたから、今の日本人は、逆に、西洋人みたいになってるんだろうね。
昔は、神道と仏教が融合して、超独特な、日本の大乗仏教があって、それが、中々、いい感じに広がって、武士道にまで昇華していったのだろう。
死に狂いなんて、普通、考えませんぜ。
そこは、ちょっと恐ろしすぎて、付いていけないけど、日本人は精神の文化では、世界で一番凄いんじゃないかと思いますね。
「欲しがりません、勝つまでは」という負の歴史もあるけれども、あれだって、まあ、なかなか心が入っている。
だいたい、西洋で受け入れられると弱いからなあwww
思念的な精神性なんて、昔の、日本には、元々、なかったんじゃないかな。
哲学とかが入ってきて、説明が、始まっただけで、昔は、言葉で色々言わなくても、やっぱり神様がいて、悪い事しちゃいけないって、自然に思ってたりして、まあ、普通に、山とか、森が大好きで、尊敬していて、自然を敬っている。
まあ、おばあちゃんとか、見てたら、そんなとこ欠片もなかったかなww
でも、畑仕事とか、一生懸命したり、神社へお参りに行くのが好きで、幸せで居られるようにすることに抵抗が無いなあと思うね。
今のスピリチュアルとかが流行するのって、なんか、変。
おかしくなってきたらから、わざわざ、言葉や概念で説明しなくちゃいけないみたいな感じがする。
じいちゃんもさあ、なんか、自分が幸せに成る事に、遠慮なんか、欠片もなかったもんね、笑
美味しいもの食べたり、プチ旅行したり、家族でワイワイしたり、するのが、好きで、それで自分は幸せで、その幸せが、安泰であるようにお祈りしたりする。
だからと言って、人には、すごく腰が低いわけだよね。
あの年代の人って、みんな、すごく笑顔で、腰が低くて、超優しいけど、なんか生活の事になると、めちゃくちゃ厳しいことも言う。
甘えるなと、よく、言うwwww
死を前にしても、別段、悲しみを表現せずに、もちろん、心では悲しんでいるんだろうけどさあ。
なんか、しようがないって感じで、受け入れている。
自然の姿だ、と、いう風に。
そういう言外の精神性っていうのが、めっちゃ、崩壊してきて、今度も、また西洋から、いろんな癒しツールを持ってきているわけだけど、なんかなあ。
江戸時代くらいの庶民の人って、どんな、感じだったのだろうかとか、そういうことには全然興味がでてこないよねwwwww
自分たちの祖先なわけだけど、ねえ。
まあYくんは、南総里見八犬伝とか読んでいるくらいだから、まあ、みんなが、みんなそうではないだろうけどさ。
そういや、小学生の頃に、毎日、水を飲ませてくれたおじいちゃんがいたなあ。
帰り道に「おじちゃん、水、ちょーだい」って玄関で言うと、飲ませてくれた。
で、はっきり覚えてないけど、優しい人だったんだろうなあ。
ある日、いつものように、水、ちょーだいって、入っていった。
なんか提灯がぶら下がっていて、いつもと違うなあって、思ったんだよね。
そしたら知らない人だったか、おばちゃんだったか。
「今日はだめなんさ」みたいなことを言って、パッと、振り返ったら、大勢の人がいて、今考えたら、アレは、葬式だったのだ。
で、僕は悟って、ああ、おじいちゃん、いなくなっちゃったって、めっちゃ、悲しかったのを、なぜか思い出した。
すごい、いい人だったのだ。
なんか風通しが良かったんだよね、人と人の間が、今みたいに、険悪じゃなかった。
全く、どこの子供かも知らないのに、水飲ませてくれるwwww
しかも、たぶん、笑顔で「おお、学校、終わったんかあ」みたいに「お疲れ様」とか、そんな感じで、めっちゃ、優しいんです。
集団登校とかもなかったしね、あの頃は。
近所の人同士が、道端で、楽しそうに、話していたり、とか、知らない人同士でも気軽に会話が始まったりとかしていたし、今みたいに、窮屈な、ルールばっかりでもなかった気がする。
まあ、まあ、みたいな、笑
のんびりしているというのか、適当というのか。
ああいう素朴な感じの、精神性に、僕は、憧れるけどね。
なんか周りが窮屈になりすぎて、無理に、悟りみたいなものに引かれていくのは、ちょっと違う気がするなあと、思いますわ。
まあ、そんな悲観的なことばかり、書いてもしかたないかwwww
「今日はだめなんさ」と言って、優しく僕を見たというのが、それが事は起きていることを自然に受け入れている姿だと思うんですよね。
諦観していることではないと思うんだ。
そういう精神の事って、言葉だけでなくて、生活していく中で、人と人が触れ合う中で、自然に育っていくもので、こう、中々、パンってできるものじゃない。
生きていくことに罪悪感がなかったのだ、あの人たちは。
そして去っていく事にも、不自然さを、認めなかったのだ。
そういう姿を、僕は、生で、いっぱい見てきている。
病院にお見舞いに行っても逆に、心配されたりする。
「こんなとこに、そんなに来なくてもいいから、自分のするべきことをしろ」という風に言われたりして、悲しみを見せないし、なんか、楽しくしてればいいみたいに、おじいちゃんは、そんなんだったしね。
気にするな、みたいなwwww
そうやって、家族にも、他人にも、腰が低くて、でも、厳しくてっていう、この、昔の日本人の精神性は、とてつもなく優れていたのではないだろうか。
まあ、エライサンは違っただろうけどさ(爆笑)
だいたい、いつの時代も、悪い奴は、いるもんだからね。
まあねえ。
なんだろ。
愛なんて言ったら、もう、赤面ですわ、昔ならwwww
こう、秘すれば花みたいな文化。
うーん、このあたりに、何か、優れたものが、僕には見えるんだけどね。
ぜんっぜん、すこしも、自分が凄いなんて風にせずに、それでいて、優しくて、楽しくて、こう、生きていることに一生懸命である。
生きることに躊躇が全く無いのだ。
そういう人に私はなりたい(爆笑)
信長が本能寺で謀反を知ったとき「是非もない」と言うシーンが、よく小説なんかでありますけど、これが一番、その精神性を表してますよね。
是非もない。
肯定も否定もしていることは、無意味だという意味だろう。
謀反が起こった「是非もない」
それは、事は、起きているということを認めきった言葉だろう。
だからと言って、そこで、逃避なんかしないのだ。
「光秀なら抜かりはあるまい。だが、この信長の髪一本として奴には触れさせぬ」である。
生き切っている上での、是非もなしなのである。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
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今日は雨で物悲しいですね。
仕事帰ってから、母親の家で、麻婆豆腐食べてからのんびりしてます。
茶、のんで、ビール、のんで、インターネット。
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そうそう昨夜は久しぶりにYくんと、のんびり会話しましたね。
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人生は、どこにも向かっていないということを受け入れようと思います、笑
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他は、特に、変化も無いなあ。
ノンデュアリティの興奮も冷めてきて、まあ、このまんまなんでしょって気分w
起きていることだけしかない。
これはさ、自然が最初ッから、目の前にあって、それと縁があって、いろんなことが起こっているってことだよね。
まあ、日本人なら、だいたい、みんな知ってるかも、笑
お陰様って言葉もあるくらいだしねえ。
自分だけの力で、何もかもやってると考えてる人の方が、少ない。
感謝も大好きだもんね、みんな。
だいたい、元々が東洋思想だからね。
本家本元の、八百万の神々の国、日本には、敵いませんよww
でね、Yくんの話で言霊の話がよく出るので、調べてみたら、言葉っていうのは、事からきているみたいだね。
だから、起きているという言葉に命を吹き込んだら、その通りになる。
言葉は事だからね。
そうやって、話していたら、その通りになるってことかもしれない。
でも、違っていると災いが起こるみたいなことも書いてあったかなあ。
何と違っているとか忘れたけどwwww
あとね。
心身を清浄に保つということも、日本人は、凄いよね。
清めるという概念まであるくらい。
だから何ってわけでもないけど、もうちょっと、日本の精神性に、自信持ってもいいような気がするなあ。
外国からの輸入ばかりだもんね。
禅だって、外に広まったから、騒がれてるだけで、淡々と、昔からやってるんだからさ。
千利休だっているしねww
ああいう、京都の寺院の庭とかの、自然と静粛性が兼備わったような表現ができるのは、日本人だけじゃないのかな。
仏像の表現でも、平安時代とかのは、もう、吃驚するくらい感性に触れるよね。
まあ、明治になってから、西洋、西洋で、物質文明をずっと追いかけていたから、今の日本人は、逆に、西洋人みたいになってるんだろうね。
昔は、神道と仏教が融合して、超独特な、日本の大乗仏教があって、それが、中々、いい感じに広がって、武士道にまで昇華していったのだろう。
死に狂いなんて、普通、考えませんぜ。
そこは、ちょっと恐ろしすぎて、付いていけないけど、日本人は精神の文化では、世界で一番凄いんじゃないかと思いますね。
「欲しがりません、勝つまでは」という負の歴史もあるけれども、あれだって、まあ、なかなか心が入っている。
だいたい、西洋で受け入れられると弱いからなあwww
思念的な精神性なんて、昔の、日本には、元々、なかったんじゃないかな。
哲学とかが入ってきて、説明が、始まっただけで、昔は、言葉で色々言わなくても、やっぱり神様がいて、悪い事しちゃいけないって、自然に思ってたりして、まあ、普通に、山とか、森が大好きで、尊敬していて、自然を敬っている。
まあ、おばあちゃんとか、見てたら、そんなとこ欠片もなかったかなww
でも、畑仕事とか、一生懸命したり、神社へお参りに行くのが好きで、幸せで居られるようにすることに抵抗が無いなあと思うね。
今のスピリチュアルとかが流行するのって、なんか、変。
おかしくなってきたらから、わざわざ、言葉や概念で説明しなくちゃいけないみたいな感じがする。
じいちゃんもさあ、なんか、自分が幸せに成る事に、遠慮なんか、欠片もなかったもんね、笑
美味しいもの食べたり、プチ旅行したり、家族でワイワイしたり、するのが、好きで、それで自分は幸せで、その幸せが、安泰であるようにお祈りしたりする。
だからと言って、人には、すごく腰が低いわけだよね。
あの年代の人って、みんな、すごく笑顔で、腰が低くて、超優しいけど、なんか生活の事になると、めちゃくちゃ厳しいことも言う。
甘えるなと、よく、言うwwww
死を前にしても、別段、悲しみを表現せずに、もちろん、心では悲しんでいるんだろうけどさあ。
なんか、しようがないって感じで、受け入れている。
自然の姿だ、と、いう風に。
そういう言外の精神性っていうのが、めっちゃ、崩壊してきて、今度も、また西洋から、いろんな癒しツールを持ってきているわけだけど、なんかなあ。
江戸時代くらいの庶民の人って、どんな、感じだったのだろうかとか、そういうことには全然興味がでてこないよねwwwww
自分たちの祖先なわけだけど、ねえ。
まあYくんは、南総里見八犬伝とか読んでいるくらいだから、まあ、みんなが、みんなそうではないだろうけどさ。
そういや、小学生の頃に、毎日、水を飲ませてくれたおじいちゃんがいたなあ。
帰り道に「おじちゃん、水、ちょーだい」って玄関で言うと、飲ませてくれた。
で、はっきり覚えてないけど、優しい人だったんだろうなあ。
ある日、いつものように、水、ちょーだいって、入っていった。
なんか提灯がぶら下がっていて、いつもと違うなあって、思ったんだよね。
そしたら知らない人だったか、おばちゃんだったか。
「今日はだめなんさ」みたいなことを言って、パッと、振り返ったら、大勢の人がいて、今考えたら、アレは、葬式だったのだ。
で、僕は悟って、ああ、おじいちゃん、いなくなっちゃったって、めっちゃ、悲しかったのを、なぜか思い出した。
すごい、いい人だったのだ。
なんか風通しが良かったんだよね、人と人の間が、今みたいに、険悪じゃなかった。
全く、どこの子供かも知らないのに、水飲ませてくれるwwww
しかも、たぶん、笑顔で「おお、学校、終わったんかあ」みたいに「お疲れ様」とか、そんな感じで、めっちゃ、優しいんです。
集団登校とかもなかったしね、あの頃は。
近所の人同士が、道端で、楽しそうに、話していたり、とか、知らない人同士でも気軽に会話が始まったりとかしていたし、今みたいに、窮屈な、ルールばっかりでもなかった気がする。
まあ、まあ、みたいな、笑
のんびりしているというのか、適当というのか。
ああいう素朴な感じの、精神性に、僕は、憧れるけどね。
なんか周りが窮屈になりすぎて、無理に、悟りみたいなものに引かれていくのは、ちょっと違う気がするなあと、思いますわ。
まあ、そんな悲観的なことばかり、書いてもしかたないかwwww
「今日はだめなんさ」と言って、優しく僕を見たというのが、それが事は起きていることを自然に受け入れている姿だと思うんですよね。
諦観していることではないと思うんだ。
そういう精神の事って、言葉だけでなくて、生活していく中で、人と人が触れ合う中で、自然に育っていくもので、こう、中々、パンってできるものじゃない。
生きていくことに罪悪感がなかったのだ、あの人たちは。
そして去っていく事にも、不自然さを、認めなかったのだ。
そういう姿を、僕は、生で、いっぱい見てきている。
病院にお見舞いに行っても逆に、心配されたりする。
「こんなとこに、そんなに来なくてもいいから、自分のするべきことをしろ」という風に言われたりして、悲しみを見せないし、なんか、楽しくしてればいいみたいに、おじいちゃんは、そんなんだったしね。
気にするな、みたいなwwww
そうやって、家族にも、他人にも、腰が低くて、でも、厳しくてっていう、この、昔の日本人の精神性は、とてつもなく優れていたのではないだろうか。
まあ、エライサンは違っただろうけどさ(爆笑)
だいたい、いつの時代も、悪い奴は、いるもんだからね。
まあねえ。
なんだろ。
愛なんて言ったら、もう、赤面ですわ、昔ならwwww
こう、秘すれば花みたいな文化。
うーん、このあたりに、何か、優れたものが、僕には見えるんだけどね。
ぜんっぜん、すこしも、自分が凄いなんて風にせずに、それでいて、優しくて、楽しくて、こう、生きていることに一生懸命である。
生きることに躊躇が全く無いのだ。
そういう人に私はなりたい(爆笑)
信長が本能寺で謀反を知ったとき「是非もない」と言うシーンが、よく小説なんかでありますけど、これが一番、その精神性を表してますよね。
是非もない。
肯定も否定もしていることは、無意味だという意味だろう。
謀反が起こった「是非もない」
それは、事は、起きているということを認めきった言葉だろう。
だからと言って、そこで、逃避なんかしないのだ。
「光秀なら抜かりはあるまい。だが、この信長の髪一本として奴には触れさせぬ」である。
生き切っている上での、是非もなしなのである。