丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

自由とか愛について

2021-11-15 11:54:08 | 心の解放シリーズ
「相手の選択や自由を認める」と言っても、正直、難しいときだってある。

今のこの騒動では命や健康がかかっているから。

だからみんな葛藤があるわけだ。

私にも、妹と弟がいる。
もういい歳だけど、
わたしにとってはいつまでも小さいときの、いたいけなままであったりする。

例えば、私の親は私のブログを読んでいるようだけど、
自分で選択して、接種した。
それでもし、不幸な結果になったのなら、
つらいけど、「そうしたかったんだね」って
わたしは相手の自由を認めようとするだろう。
「自分で決めて自分でその結果まで責任をとった」わけだしなと。

でも、例えば、私の弟にまで、命に関わるような情報を知っているのに教えないで接種させ、
なにか起きたのなら
許せない気持ちになってしまうだろう。

「自分は打ってなんともなかったから、おまえも打っときなさい」
くらいの感じで打たせたならば
親を責めたくなるだろう。
「自分が決めて」という部分をちゃんとやらせていないからだ。

それは本人が自分で情報収集しないで、親の言うことを鵜呑みにしたのなら
それも本人の選択だから、しかたないのだけど、
そういった、意思が持てない状態に育てたのもまた、その親だということを
身内であるだけに、知っている。

親がなんでも「自分が自分が」で、
子どもが感情や意思を少し出すと否定的な反応をする(つまり支配)っていうのを
ずっと見てきていたりする。
(親もそのまた親にやられている。だから本当は親自身が自分の心のカラクリを理解して心の傷を癒す作業が必要なんだ。)
そんなふうに長年育てられたら、ゆったり自分の感情や才能を伸ばす方向に行けるわけがないからな。自分の意思も当然持てなくなっていく。

「自分で決めて(意思)、自分でその責任をとる」

せめてこれを、妹と弟には、やらせてやってほしい。
誰が責任をとるのか、誰の問題か、誰のテーマか。
これをつねに見極めてほしい。

小さいこどもならばしかたないだろう。
こどもはまだワクチンについて、世の中について、難しいことはわからない。
判断力がない。

でも判断力がついてきたならば、
「誰が決めて誰がその結果まで責任をとるのか」
こういう視点での話合いが不足していないか?
医学的なリスクの情報も大切だけど、ここを忘れていないか?

親だって、なにか起きても救ってやれないだろう。
国も製薬会社も責任をとらない。
子ども自身がその結果を経験することになる。
(親は順番通りなら、こどもより早くお迎えが来るわけだから最後まで守ってもやれないわけだ)

ふだんから、ここがめちゃくちゃならば
調和がもどり、人は伸びていく。
豊かになっていく。
心も、物質的にも。
家庭でも仕事でも。
争いなんかは勝手になくなっている。

意思が持てないのは、感情をおさえているからなんだ。

感情を大切に、自分の感情を主体にして生きることがいけない、それではムリだ、仕事ができないなどと思い込んでいるからだ。
ここが勘違いだとずっと書いてきた。
これだと、あいつらのしもべコースだ。意思がなくなっていくのだから。
他人の目ばかりを気にするようになっていく。
そして感情を感じるよりも思考ばかりするようになる。
(こういう専門家が今、大活躍だ。そしてあいつらの責任を肩代わりさせられるだろう)

感情を抑えて「~なければならない」と頭で考えて生きるようになれば
やがて、自分がなにをしたいのかもわからなくなっていく。
こうして意思がなくなっていく。

親がそのように生きていて、こどもを育てたならば、
こどももそうなっていくだろう。

でも、何十年もこうして生きてきた人には、この意味がわからないだろう。

わかりたくもないだろう。

今までさんざん我慢して、自分の感情、本心を抑えて生きてきたのに
感情を主体に生きた方が正解で、幸せになるなんて、認めたくないだろう。
そうしていれば今悩んでいる問題は起きなかっただろうなんて。。。

受け入れられないだろう。


自分がそういった親の元に生まれ、意思が持てない、苦しいという状態。

これを経験することもまた、ふかい視点から見ると、自分が選択している。
「親は選べない」というのだけど、
私自身は前世からのつながりで、今のこの親なんだなと納得している。
すると責めるのも意味がないんだとわかったの。

ただ自分自身がクリアしたかった課題があって、
それにはその親が都合がよかったんだわ、わたしの場合は。

こういった状態から、這い上がることをしたい人。
今回の人生ではこれをじっくり長い時間かけて経験し、一生を終えたい人、
本当にいろいろだ。

ただ、深い視点ではそうでも、
悲劇が起きた場合、部外者が表面的に見ると、本当につらくなる。

でも、ふかいところで、本人の選択があるってことなんだ。

私自身で言えば、今こういった人生を生きているのも、
前世からのつながりで、ちゃんとつじつまが合うんだわ。

だから今、みなさんおひとりおひとりが経験してることも、
ちゃんと意味があってそうなっているはずだ。
経験して納得したいってのがあるのね。
そうやって進化したい欲求が誰にでもあるんだわ。
だから本質的な解決策がわかって納得するとうれしいのね。
また似たような問題が起きてもクリアできるな~って。もう平気だなって。
すると、これはいいこと、悪いことと頭で思い込んでいることも
あんまり意味がないんだとわかるんだ。

だから、いろいろ気にしてダメだと思うことはないのね。
たとえ苦しい時期、動けない、自分を否定している時期などが長くても。
あとでそういうことだったのか、と、納得したり、つじつまが合うときが必ず来るんだ。
そして動けず、苦しかった経験なんかも全部役立てて、活用し始めたりするの。
勝手に、意識せず、気づいたらそうしてるって感じだ。

むだなこと、意味のないことってないのね。

だから、「相手の自由を認める。自分の自由を認める」というのは
ふかいんだ。
見た目がつらくても。
仮に死んじゃったとしても終わりじゃないのね。
私自身がそうだからw
何度も生まれて、おんなじようなことを、またリベンジとやってるわけだw
頭では、もうやだーって思ってるんだけど、
本質的な深い部分ってのは、ほんとに懲りないのね~w


だからって、あいつらの横暴を許せということでは断じてない。
(ここはおばさん自身のテーマでもある。いかにあいつらに縛られないで生きるかに命かけてるからなw)

許せないと思うのも、気が付いたということだ。

そういう状態になっている方は、その状態で、やるべきことがあるということだ。

そういう状態にない方もまた、意味があってそうなっていて完全だということなんだ。

だから私は責めるべき人、責められるべき人は、ふかい視点ではいないんだと思っている。
(恨み怒りの感情があるうちは、その感情を否定しないで感じ切ることが大事だ)

あいつらには「やめろ」ってはっきり言う!だって迷惑だもん。
(^_^)v
でも、例えば各分野のあいつら工作員のみなさんも、
今そういうことやってるのも、意味があるんだよね~と
心の奥では思っているの。
前世からしもべやっててまだやりたりないって人もいらっしゃるだろうからなw

気の済むまでやる自由があるんだけど、
そろそろ迷惑なんで、やめてくれと言うだけだ。

そういう感じだと、相手を攻撃してやっつけるって感覚ではないのね。

自分の意思と気持ちを継続して言い続けるって感じ。
言ったところで、すんなりあいつらがバカな支配をやめてくれるとも思ってないから
ちりも積もれば山となるという感じで、継続していく。

それにはマイペースになるべく楽に平和に、
自分が楽しく発信していくってのが、やっぱ一番だなぁと思う。
汚いヤツラの話だけど。おばさんのブログの場合は。

そう言う感覚でやっていると平和的な方が共感してくだり、
そのみなさんの温かいお気持ちが穏やかに広がっていくのね。
みなさんがまたどこかで発信してくださるから。
そうすると平和で安全で、すごい力になっていくのね。
これだとあいつら、つぶしづらいからさ。
本当にあいつらをひっくり返すくらいの大きな力になっていく・・・♪
(激しくきつくやっていると、やはり同じような感覚の方の共感を得やすいだろう。
すると先鋭化しちゃったり、訴訟になったりして潰されたり利用されたりしてしまう)

そして持久戦だから、なるべく楽しく工夫をこらして
どういう表現だと自分が楽で楽しくて満足するかなって感覚なの。

だから、あいつらについて書いてるけど、
あんまりあいつらばかりを見すぎていない、自分の表現、アートなのね。これもw

そんな感じだ。

日常のささいなことも全部芸術だ。

くるしい現実やいさかいやトラブルすらも、自分の意識がつくった芸術なんだ。

おばさんから見ると、ベートーベンはあの性格だからあのような曲で
ショパンはあのキャラだからあのような曲なのねって感じだ。
それぞれの味わいがあるわけだ。

カラオケで、苦しい感じで演歌を歌いたい人もいれば
ラブソングを歌いたい人もいる。
選曲は自由だ!
自分が好きな曲を歌って自分が満足♪
それと同じだなぁと思う。

だからあんまり他人の目を気にすることはないのね。
苦しい演歌を歌いたい人が、自分に対して絡んできても、関係ないからなw

離れて、自分の好きな歌をうたっていればいいんだ。

たまに苦しそうな方を見て、苦しい気持ちになっても
ふかい視点から見ると、ふかい意味があって起きているんだねって
見ることにしようと思ったの。
自分自身の自由や愛を守るためにも。

そんな苦しそうな相手すらも認めると、自分の心も守られるのね。
不思議だけど、責めるよりも、自分自身が癒されるのね。

自分ももっとこうしていれば、言ってあげていれば・・・などと考えだすと、もう相手だけでなく自分自身も責めたくなってくる。

でもね、相手のふかい視点から見ると、もう選択が先にあるという感じだ。
自分の選択に合わない情報や助けは、はじいてしまう、スルーしてしまう、拒否してしまうと言う感じ。

だから言ってあげられなかったと自分を責める必要はないんだ。
(言えるなら、相手が嫌がらない範囲で言ってあげたらよいのだ)
相手が口に出さなくても、深いところで拒否してて言わせない場合もたくさんあります。
それをなんとなく感じ取る力があるのね。
拒否していないなければ、すんなり言えたり、言う機会が来たりするもんなんだ。

だから責めなくて大丈夫なの。自分も、相手も。

おばさんは、「今、こういう状態なんだ」って見てあげるようにしているの。
自分自身もほかの人も。
どんな人も、つねにそうなんだ。状態なの。
状態は、あるとき変わったりするから。
いろいろなことが起きたり、自分自身が気づいたりして。
今回の人生でなく次かもしれないし。

そうするとあんまり厳しく考えなくて済む。
つらく捉えなくて済む。
でも、ほんとにそうだと思うし。

そして、そうやって
自分に自由を認めていると、相手も自由でいいよって思えるのね。

こんなふうに、人に対する態度と自分に対する態度はイコールなの。

基本的に、人を変えることはできないのだけど(支配だし、ムリなの)
自分が自分の意思を平和に表明することができるようになると
集合意識がプラスの方向に変わっていくことに貢献しているんだ。
それを見た方が、「あ、こんなふうに言っても大丈夫なんだね」と思われ、
ご自分を解放することにつながるかもしれない。

こんなふうにしていると、「だまって従う」という状態がだんだん変わってくる。
あいつらとの綱引きの様相が変わってくるわけだ。

これが結果として、苦しい方や犠牲になる方を減らすことに繋がると思うんだ。

だからを変えようとするよりも、
自分がより自分の軸でいられるように変わっちゃった方が早い。
そして状態がよくなるってことなんだ。
社会もそうやってよくすることができる。

こういうふうに、人類は進化していくのではないか?と
おばさんは思っています。
もうそうなりかけてるなって思います♪