2016年7月神奈川県相模原市の障害者施設津久井やまゆり園で19人を殺害する事件が起きた。
犯人はこの施設の元職員だった植松聖(当時26)で事件発生から数時間後に津久井警察署に出
頭してきた。通称津久井やまゆり園19人殺傷事件の犯人植松聖は逮捕後に6つの罪で検察側か
ら起訴され横浜地裁で初公判を2020年1月に予定されていた。
初公判を1ヶ月前にして神奈川県黒岩知事は施設の運営を「社会福祉法人かながわ共同会」か
ら運営を見直す方向を発表した。事件後から事件の解決や被害者のケアを続けてきた「かなが
わ共同会」から施設の運営が別の組織に変わってしまうとこれまで続けてきた事件への対応が
途切れて神奈川県政から距離が出来てしまうのではないかと被害者家族には不安があるようだ。
黒岩知事はこの残虐な事件を将来に引き摺りたくないので初公判を前にキッチリと県政として
の責任を果たして施設の運営を引き継ぎケジメを着けたいのだろう。 頑張る時にガンバって
嫌な事を将来に残さない努力が報われると思うよ。しかしそれは裁判が拗れない場合のみです。
植松聖被告の刑事責任能力ありと判断された場合には間違いなく死刑が求刑されるだろう。そ
してこの裁判は腫れ物に触るのを避けるようにスピード判決になると予想されている。
しかし本当にそれだけで良いのだろうか、植松には自己愛性パーソナリティ障害以外にも犯行は
不道徳ながらも許せない行為でもありながら、植松に何か一理あると思っている人も少なからず
存在する現代社会の中で彼を単なる障害者差別主義者だと切り捨てられない部分がある。それは
彼が犯行の前に介護職に従事していて単なる障害者とその家族に対する私怨だったかもしれない。
障害者に対する腹立たしい気持ちを介護する側の者として理性で割り切れなかっただけかもしれ
ない。植松でなくとも介護や育児の場で、人は時折、気持ちを抑えきれずについ感情的にカッ!
となり後になって怒ってしまった事を反省して自己嫌悪になる。障害者を相手に気持ちが少しづ
つ削られていく毎日を過ごしていたら鬱憤が溜まって誰だって気が変になる。 自己愛に溺れて
これが自分の生きる現実だと受け入れる事が出来ずに、現実逃避はいつしか倫理観を歪めヒット
ラーの思想を頼りに障害者に対する不要論や怒りに整合性が生まれ、障害者に対する嫌悪感や殺
害は社会に置いて合理的で正しい事だと考え始めてしまう。行き場の無い怒りがヒットラーと距
離を近づけてしまう。
少子高齢化が日本社会に大きな影響を与え現実のものとなっているように、社会保障制度も介護
の現場も来るべき時が来た、ここが限界だと思う。しかし社会に問うべき答えは無い。高齢化は
今後20年が勝負となっている。今後も日本社会ではヒットラーの様な障害者に対する差別主義が
容認されるものではないが、介護職の人手不足や低賃金により障害者に対する犯罪や同様の事件
は今後も増加すると思われる。 繰り返しになるが黒岩知事は津久井やまゆり園の運営をこれま
で被害者を支えてきた「かながわ共同体」から変更する方針を初公判一ヶ月前に発表した。
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