ネットというのは恐ろしい所で世間では箸にも棒にも引っかから無いような
事が恰も当然の常識の様に蔓延する場所でもある。
事実上アカウント名は有れども匿名性が高くてしかも一過性でしかない特質を
利用して多少なりとも無責任な発言が許される場所でもある。
一般社会とは異なりこうしたコンプライアンスを到底為し得ないながらも
そこに信憑性を求めるのは孤立的な立場からの同調性を求めるが故である。
他者をあざ笑うかのように自己本位な姿勢を維持することに優位性をもたらし
理路整然とさえすれば虚偽の事実でさえそれは一つの意見だと称されると
大きな勘違いを理由に意図的な傍若無人な内容が許されている。
しかしインターネット上の架空の世界から現実社会にその姿をフィードするや
いなやこうした発言や意見は一気に委縮して何の価値さえも持たなくなるもので
あることは一般の人にとっては十分に理解されている。
現実社会でフィードされる事の無いネトウヨやその類の者はネット
そのものが到達地点となり、それ以降の機会や発展に至るケースは
稀でネットにアップ自体が何らかの目的となり満足感を得てそこで行動が完了する。
それにしても今の政治の問題として閣僚の政治家をネット検索することも
多いのですが、麻生なんとかという人物を調べると検索上位にいつも麻生を賛歌
するページが来てしまう。こんな状態がもぅ数年以上続いている。
報道などで注目される問題が発生してもそれは変わらず、毎度おなじみの
ネット工作による麻生を持ち上げるページが先ず目に付くようになっている。
J-NSCと呼ばれる自民党ネットサポーターズのボスが平井卓也メディア局長で
活動の場となるニコ生などのドワンゴ取締役を麻生太郎の甥である麻生巌が
務めその市場調査などを担当する会社エクストーンの取締役が麻生太郎の息子
麻生将豊が務めている。
平井卓也(自民党メディア局長)
麻生巌(ドワンゴ取締役で麻生太郎の甥)
麻生将豊(エクストーン取締役で麻生太郎の息子)
この3人に共通するのが自民党である事と慶應義塾の出身者と出身者の親であること。
昨今のネット工作の悪質性が浮き彫りになると同時にその下にアフアフと
もがいているネトウヨの末端信者に至ってはネトサポ以上に貧相下劣で面前に
ある毅然とした事実も受け入れがたく詐病のように感情的な振る舞いに終始している。
これがネトウヨの黄昏の頃だ。病的な振る舞いに感情としての行動原理の起点を
設けることは理性ある自己を庇い、他動的な扱いにより偏狭な自己防衛を果たそうとする。
事が恰も当然の常識の様に蔓延する場所でもある。
事実上アカウント名は有れども匿名性が高くてしかも一過性でしかない特質を
利用して多少なりとも無責任な発言が許される場所でもある。
一般社会とは異なりこうしたコンプライアンスを到底為し得ないながらも
そこに信憑性を求めるのは孤立的な立場からの同調性を求めるが故である。
他者をあざ笑うかのように自己本位な姿勢を維持することに優位性をもたらし
理路整然とさえすれば虚偽の事実でさえそれは一つの意見だと称されると
大きな勘違いを理由に意図的な傍若無人な内容が許されている。
しかしインターネット上の架空の世界から現実社会にその姿をフィードするや
いなやこうした発言や意見は一気に委縮して何の価値さえも持たなくなるもので
あることは一般の人にとっては十分に理解されている。
現実社会でフィードされる事の無いネトウヨやその類の者はネット
そのものが到達地点となり、それ以降の機会や発展に至るケースは
稀でネットにアップ自体が何らかの目的となり満足感を得てそこで行動が完了する。
それにしても今の政治の問題として閣僚の政治家をネット検索することも
多いのですが、麻生なんとかという人物を調べると検索上位にいつも麻生を賛歌
するページが来てしまう。こんな状態がもぅ数年以上続いている。
報道などで注目される問題が発生してもそれは変わらず、毎度おなじみの
ネット工作による麻生を持ち上げるページが先ず目に付くようになっている。
J-NSCと呼ばれる自民党ネットサポーターズのボスが平井卓也メディア局長で
活動の場となるニコ生などのドワンゴ取締役を麻生太郎の甥である麻生巌が
務めその市場調査などを担当する会社エクストーンの取締役が麻生太郎の息子
麻生将豊が務めている。
平井卓也(自民党メディア局長)
麻生巌(ドワンゴ取締役で麻生太郎の甥)
麻生将豊(エクストーン取締役で麻生太郎の息子)
この3人に共通するのが自民党である事と慶應義塾の出身者と出身者の親であること。
昨今のネット工作の悪質性が浮き彫りになると同時にその下にアフアフと
もがいているネトウヨの末端信者に至ってはネトサポ以上に貧相下劣で面前に
ある毅然とした事実も受け入れがたく詐病のように感情的な振る舞いに終始している。
これがネトウヨの黄昏の頃だ。病的な振る舞いに感情としての行動原理の起点を
設けることは理性ある自己を庇い、他動的な扱いにより偏狭な自己防衛を果たそうとする。