音楽の話をしたらば、不毛な結果になることが良くある訳で、それが慣れっこだったので邦楽の話で
ジメジメとした湿度を感じるのは珍しくもなんとも無い感性を持っているつもりなのだが、
2017年のMステに小沢健二たる人物が19年ぶりに出演するとなると、至って穏やかでは無いばかりか
ネットで流れる彼の評価や歌手活動の一片のそのほとんどが欺瞞であったり、作り話以下の内容であることを
人々は周知しなければならない必要性を更に強く感じてしまう。
それが悪意以外の何物かによって不可抗力的に発生してしまう世間の誤解とは全く違った意味合いであることも
理解しなくてはいけない。2017年の今になって20年前のオザケン王子説がブリ返され本質性を無視して
都合良く美化されデフォルメされ素敵なニュアンスで表に出て来るなんて、飛んだまやかしでしかない。
今から20年前に渋谷を中心とした新しい音楽シーンは決して小沢健二という文学的な独特な
リリックで表現されるアーティストを生み出さなかったばかりか世間は彼に高いセールスや評価も与えなかった。
これが全てだ。音楽業界における小沢健二の実質的な存在意義はそれだけに過ぎない。後は身内による過大評価だ。
小沢健二などというレベルの歌手は只の自己満足型の偶像にしか過ぎず、小澤征爾が親戚にいる事に依存した特異性を除けば
我儘で愚かな有象無象な存在でしかなかった。そして歌唱力もかなり下で決して聞けるものではなかった。
当時テレビではSMAPの木村拓哉派と小沢健二派に別れファン同士が互いに牽制するような動きもあったが
小沢健二派のファンの数は実際にはSMAPのファンの20分の1程度しかいなくて、最初から勝負に成らなかった。
彼の曲のどこが良いのか解らないと言う人が大半を占めていた。
それが何故か、この期におよんで隙あらば、20年前の渋谷に小沢健二というアーティストが人気を博していたように語られるのは
非常に憮然とした気持ちになるばかりでなく、他のアーティストに対して非常に失礼な事だと思う。
20年前のネタも発酵熟成させれば、半分は食べられると思ったら大間違いだ。これには事務所側の問題もあるだろう。
そもそも今の時代にオザケンのニーズなんてほとんど無いのであるから事務所からクビにしてもなんら痛くも痒くもない。
だから勝手にさせて好きなだけやらせて、鳴かず飛ばずで歌手として無事に死亡させるのが妥当なのかもしれないな。
オザケンの突如として沸いたリバイバルと首を傾げる再評価については御心配無く。そのSNSによる評価やコメントの
殆んどが、人為的に作られたステマに近い情報であることを証明します。20年前の小沢健二が今の星野源とは頭が悪すぎる。
歌唱力が違い過ぎる。圧倒的に星野源の方が完成されている歌手だ。くらべものにならない。
小沢健二が活躍していたとされる90年代後半において、独特な文学的な歌詞で人気があったのが「スピッツ」で、カリスマは
「ミスチル」で、ビックセールスは「GLAY」だった。20年経った今でもこうしたビックネームは十分に通用している。
そして当時のファンは今もバンドの支えとなって応援を続けている。今の小沢健二を応援しているファンは一体誰なのだろうか?
20年も辛抱強くリリースの無い歌手を応援するファンって居る訳ないだろ。オザケンわっしょいのSNSや再評価に期待のサイトの
安っぽさと言ったら、やらされている感がヒシヒシと伝わってくる。
自己の価値を20年で完全に喪失した事を悟った時には既に遅すぎた。そもそも知名度を維持できていると思える方が不思議だった。
小沢は手練手管で、Mステの司会のタモリさんに「20年間灯火を・・・」と賛辞を送ったが、これがまた空回りで番組の最後にして
お約束で呆れてしまうような雰囲気を作ってしまっていた。なんてスケールの小さな人物なのだろうか。
驚くべき事に、今回の小沢健二の19年ぶりのMステ出演の内容と山崎邦正ガキの使い卒業とは、ストーリー的に非常に類似している
点が多く、もしもこれが番組演出による効果ならば、Mステのディレクターは天才だなと思った。
ジメジメとした湿度を感じるのは珍しくもなんとも無い感性を持っているつもりなのだが、
2017年のMステに小沢健二たる人物が19年ぶりに出演するとなると、至って穏やかでは無いばかりか
ネットで流れる彼の評価や歌手活動の一片のそのほとんどが欺瞞であったり、作り話以下の内容であることを
人々は周知しなければならない必要性を更に強く感じてしまう。
それが悪意以外の何物かによって不可抗力的に発生してしまう世間の誤解とは全く違った意味合いであることも
理解しなくてはいけない。2017年の今になって20年前のオザケン王子説がブリ返され本質性を無視して
都合良く美化されデフォルメされ素敵なニュアンスで表に出て来るなんて、飛んだまやかしでしかない。
今から20年前に渋谷を中心とした新しい音楽シーンは決して小沢健二という文学的な独特な
リリックで表現されるアーティストを生み出さなかったばかりか世間は彼に高いセールスや評価も与えなかった。
これが全てだ。音楽業界における小沢健二の実質的な存在意義はそれだけに過ぎない。後は身内による過大評価だ。
小沢健二などというレベルの歌手は只の自己満足型の偶像にしか過ぎず、小澤征爾が親戚にいる事に依存した特異性を除けば
我儘で愚かな有象無象な存在でしかなかった。そして歌唱力もかなり下で決して聞けるものではなかった。
当時テレビではSMAPの木村拓哉派と小沢健二派に別れファン同士が互いに牽制するような動きもあったが
小沢健二派のファンの数は実際にはSMAPのファンの20分の1程度しかいなくて、最初から勝負に成らなかった。
彼の曲のどこが良いのか解らないと言う人が大半を占めていた。
それが何故か、この期におよんで隙あらば、20年前の渋谷に小沢健二というアーティストが人気を博していたように語られるのは
非常に憮然とした気持ちになるばかりでなく、他のアーティストに対して非常に失礼な事だと思う。
20年前のネタも発酵熟成させれば、半分は食べられると思ったら大間違いだ。これには事務所側の問題もあるだろう。
そもそも今の時代にオザケンのニーズなんてほとんど無いのであるから事務所からクビにしてもなんら痛くも痒くもない。
だから勝手にさせて好きなだけやらせて、鳴かず飛ばずで歌手として無事に死亡させるのが妥当なのかもしれないな。
オザケンの突如として沸いたリバイバルと首を傾げる再評価については御心配無く。そのSNSによる評価やコメントの
殆んどが、人為的に作られたステマに近い情報であることを証明します。20年前の小沢健二が今の星野源とは頭が悪すぎる。
歌唱力が違い過ぎる。圧倒的に星野源の方が完成されている歌手だ。くらべものにならない。
小沢健二が活躍していたとされる90年代後半において、独特な文学的な歌詞で人気があったのが「スピッツ」で、カリスマは
「ミスチル」で、ビックセールスは「GLAY」だった。20年経った今でもこうしたビックネームは十分に通用している。
そして当時のファンは今もバンドの支えとなって応援を続けている。今の小沢健二を応援しているファンは一体誰なのだろうか?
20年も辛抱強くリリースの無い歌手を応援するファンって居る訳ないだろ。オザケンわっしょいのSNSや再評価に期待のサイトの
安っぽさと言ったら、やらされている感がヒシヒシと伝わってくる。
自己の価値を20年で完全に喪失した事を悟った時には既に遅すぎた。そもそも知名度を維持できていると思える方が不思議だった。
小沢は手練手管で、Mステの司会のタモリさんに「20年間灯火を・・・」と賛辞を送ったが、これがまた空回りで番組の最後にして
お約束で呆れてしまうような雰囲気を作ってしまっていた。なんてスケールの小さな人物なのだろうか。
驚くべき事に、今回の小沢健二の19年ぶりのMステ出演の内容と山崎邦正ガキの使い卒業とは、ストーリー的に非常に類似している
点が多く、もしもこれが番組演出による効果ならば、Mステのディレクターは天才だなと思った。