以下は紀野一義氏のyoutube記事よりメモです。
般若経はものの考え方がですね東洋にしかないような考え方が出てくるわけですよ。
般若経の作成時代背景は日本では聖徳太子を殺した蘇我一族がほろんだ上官19年647年の頃で大化の改新があり幸徳天皇が天皇だった。
そのころに玄奘がインドから中国へ戻ってきてそれから間もなく般若心経をつくった。
如是我聞という形をとらないのが般若心教で観自在菩薩がいきなりポンと出てくる。めずらしい演出で一番面白い。家を訪問して取次をパスしていきなり主人にあうような感じ。
法然が天王寺にいた頃におかゆを食べさせる夢をみる。
ある僧が法然を訪ねていきなり生死のことを聞いた。いきなり本題に入っていく。法然が応えると「そんなことはわかっています」と僧が応える。「わかっていたことを何故聞いたのか。わたしにそうだと言ってほしいのだろう」法然に「どうしようもない」と言われてさらに聞く。「けちなことを考えずにおおらかに念仏を唱えろ 仏が成仏させてくれる」僧はありがとうとも言わず退出する。
おおらかに題目おおらかに念仏おおらかに座禅することが大事と。
この僧と法然は普通にみると非常識だが非常識がいい場合もある。常識がいいとは言えないことがある。時々は非常識でいったほうが良い場合がある。
いまの学校の先生が常識的になりすぎるのもものたりないと。
いい人と深いひと。
単にいい人で連帯保証人になってハンコおして借金残し首くくって死んで残された奥さんは困る、こういういい人も困る。
龍安寺の石庭で庭園の石は隠れている部分が多いと重く見える。わたしは掘ったことはないですが専門にやっている人は関西の庭はそうだという。本人も気が付かなようなところを持っているひとが深いひとだ。20年付き合ってもまだわからないようなところや人間にはあるかもしれませんね。人間の深さというのに関わりを持っているような気がします。
海の深さでいえば瀬戸の海は浅いので刻々と七色に変わる。浅い海というのは太陽の光線が当たりますと変わる。山陰の海は真っ黒で浅瀬だけ美しい。人も善も悪もひっくるめた深さが人間の深さ。
前をですね光で照らしてそして進んでいくのがそれが人間の生き方だという。光は背後のほとけよりでている。
ひらがなと漢字 何十年とたってパッとわかるとき、時という漢字を使う。道元禅師もときをそのように使う。
飛鳥時代の仏像は目が刻んでいないから八方睨みになる。長谷寺の八方睨みの寒山拾得という作品がある。どの位置からみても自分を見ている気がする。
話がテレビ放送に移り、ある奥さんが番組をみていて自分を見ている気がすると旦那さんを呼ぶ。京都におすまいの広島高校時代の哲学の先生で「紀野君じゃないか」と20年ぶりに会いたい人に会えた体験を語る。
五蘊皆空とはですね優しい言葉に直したら人間が生きているということは無駄 なことだなぁということなんですよ。朝、夢か現かという時にちょっと考える。味噌汁にしようかパンにしようかなんてのはねそれはもう少し目が覚めてからですねそこまでいかないんですよ。
生きていうことはなんともいえずむなしいということを考えないことない。しょっちゅう考えるんですけど私が変なんですかね。
どんなにがんばってもこころの奥の方で徒労だよ徒労だよとの声が聞えるときがある。
山本周五郎の「虚空遍歴」で「俺のやったことは皆徒労じゃないか」って中也が言うと女性がたしなめる。
川端康成の雪国でお駒に島村が「皆徒労じゃないか」という。川端もそう考えている。
地位のあるひとが「自分がいなくちゃ」と思うけど必ず次のが出てくる。人生とはそんなものだ。
罪業の深さは願いの深さで補ってくれる。
坊さんで自分は悟った、見性したといいふらすのは下の下。見性したなら釈迦のように人を救わなければならない。
釈迦は悟った後に自分を裏切った人間5人を救おうと鹿野園に向かう。
5人が「ゴータマよ」と呼びかけると「わたしを如来と呼びなさい」と。人間とほとけが一体になったことを如来と。
そのとき5人に釈尊は因をおしえたまう。
舎利弗は500人の弟子をもつバラモンだったが釈迦の弟子になる。
あるひとに聞こえて聞こえない人がある。追いつめられていることがほとけの声が聞える条件になる。
坂村真民の詩は見事だ。
先生の衆生請願のあの放射、いままで信じられないものが信じられるようになった。
この先生はどなたか知りませんが。(あるいは紀野氏をさしているがあえてとぼけているのか、まったく別人か不明)