・・・ うたをよむ笹公人 ・・・
「最近、音楽家の名前を詠み込んだ歌に続けて接した。まずは、岡井隆の歌集『暮れてゆくバッハ』より。本日の朝日歌壇・うたをよむ 笹公人の文の初めの段落である。
♦ ヨハン・セバスチャン・バッハの小川暮れゆきて水の響きの高まるころだ
バッハはドイツ語で「小川」を意味する。そのバッハのフルネームの持つ響きを小川の流
れのオノマトペとしても使っている。小川の流れは人生の暗喩でもあろう。と書く笹公人はこの7月に40歳になったばかり。彼の師の岡井隆は87歳である。笹には祖父のような師かもしれない。季節や天候により小川の流は異なる。つねに春の小川ではない。様々な小川の流れのようだった人生を振り返りながら編んだ歌集であろう。
もしこの歌集名が「暮れてゆく小川」だったなら。。岡井隆はリズムをとても大切にする歌人である。小川をヨハン・セバスチャン・バッハに見立て、イメージを膨らませたのではないか。本の題名は顔である。まして歌集名は大切な顔なのだから『暮れてゆくバッハ』
ラフマニノフやモーツアルトなど音楽家の名前を短歌で使われることが多いこと、外国の音楽家の名が多い割には日本の作曲家は短歌に詠み込まれないことを笹公人は指摘し、
「障子越しに聴く山田耕作」とか「畳にこぼれる中山晋平」などはあまり見かけない。日本人だと作中人物として読まれてしまう恐れがあるからだろう。よって「赤とんぼ」などの曲名が使われやすくなる。日本の作曲家もバッハのように詠み込まれるようにと提案する笹公人。
岡井隆は医者でもある。学生時代からドイツ語に親しんでいる。小川を見れば「あゝバッハが流れている」のかもしれない。10月号未来~森鴎外の晩年~にはドイツ語の詩が引用されている。私は全くわからないが小川の流れのようにも見えてくる。
日本の作家もバッハのような詠み込み方をされてもいいのではないか。私は「料亭に降る滝廉太郎」みたいな歌を作りたい。二階から「荒城の月」の独唱が響いてこないだろうか。ここで笹公人のコラムは終わっている。私は今日の3時に二階から月見の団子が入った籠が落ちてこないかなんて思ったりしている。 10月12日 松井多絵子
ドイツ語の詩が小川の流れのようにも見え 「料亭に降る滝廉太郎」 みたいな歌を作りたい。二階から 「荒城の月」 の独唱が響いてこないだろうか。ここで笹公人のコラムは終わっている。私は今朝読んだばかりの朝日歌壇・うたをよむ について書いている。私より遅く「未来」の会員になりあっという間に選者になってしまった笹公人、分かりやすく面白い彼の解説は私を指導してくれる。
10月12日 松井多絵子