木下勝俊が著した文禄元(1592)年文禄の役時に京都から肥前名護屋までの紀行文『九州の道の記』(長崎健ほか校注・訳『中世日記紀行集』、小学館 日本古典文学全集48)にある鞆・神島の記述:鞆の浦近くに10日余り滞在し、泊りがけで宿陣先から名所歌枕の地:鞆の浦に出かけたとある。また旧知の人物と出会い、神島では蹴鞠をして友情を温めあったのだろ。緊張を強いられがちな行軍中のひと時の息抜きの感じられる一文だ。てか吉備津宮~厳島間の木下の記述は、(現実には多忙を極める中にもわずかな暇を見つけたといったところなんだろうが)この人物(備中足守藩藩主木下氏のご先祖)の人間性の反映か武人というよりは行軍の疲れを吐露し(=弱音をはき)つつ、現実逃避を繰り返す豊臣政権内の教養ある”お坊ちゃま”武将のそれそのもの。
稲田のいう「鞆」は山陽道上の宿営地に訂正した方がよい。この人のイメージした「鞆」と「鞆の浦」とは実際の地理的実体としては同じものだ。
木下勝俊の行軍ルートについて稲田利徳は上図のように明石~鞆間を海上ルートだったとして理解し、途中龍野(二十日ほど滞在ヵ・・・・稲田利徳注)・吉備津神社には軍務を離れる形で途中下車しわざわざ出向いたとみている。その点の妥当性についてはここではあえて論じないことにするが、神島ー鞆の浦間もその延長線上でとらえ、船旅を続けて来た勝俊は「鞆」に到着し、そこから名所歌枕の地:「鞆の浦」を訪れ、そこからの帰途に就く途中の事柄として、旧知の人物と出会った「神島」を前掲図のごとく位置づけたわけだ。
これがまったくの間違いだったのだ。
図中のKが神島。黒□が九州道上の宿営地(神島近辺の宿陣地・・・福山市の山手~赤坂辺りか)。
木下勝俊としては「鞆の浦」からの帰り、「神島」という場所に立ち寄ったもので、かれが引き返そうとした場所は山陽道上にあった山手~赤坂あたりの宿陣地に他ならなかった。宿の近くには辻堂があったようだ。勝俊はその宿陣地から陸路尾道に向かった模様。そういう意味では稲田の文学作品の地理的舞台に関するフィールドワーク不足は明白で、それが災いし、稲田の提示した木下勝俊の行軍経路図は信ぴょう性の低いものとなっている。というか稲田の場合はこの木下勝俊『九州の道の記』研究を全面的にやり直した方がよい。こういうのはダメ!
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木下勝俊の行軍ルートについて稲田利徳は上図のように明石~鞆間を海上ルートだったとして理解し、途中龍野(二十日ほど滞在ヵ・・・・稲田利徳注)・吉備津神社には軍務を離れる形で途中下車しわざわざ出向いたとみている。その点の妥当性についてはここではあえて論じないことにするが、神島ー鞆の浦間もその延長線上でとらえ、船旅を続けて来た勝俊は「鞆」に到着し、そこから名所歌枕の地:「鞆の浦」を訪れ、そこからの帰途に就く途中の事柄として、旧知の人物と出会った「神島」を前掲図のごとく位置づけたわけだ。
これがまったくの間違いだったのだ。
図中のKが神島。黒□が九州道上の宿営地(神島近辺の宿陣地・・・福山市の山手~赤坂辺りか)。
木下勝俊としては「鞆の浦」からの帰り、「神島」という場所に立ち寄ったもので、かれが引き返そうとした場所は山陽道上にあった山手~赤坂あたりの宿陣地に他ならなかった。宿の近くには辻堂があったようだ。勝俊はその宿陣地から陸路尾道に向かった模様。そういう意味では稲田の文学作品の地理的舞台に関するフィールドワーク不足は明白で、それが災いし、稲田の提示した木下勝俊の行軍経路図は信ぴょう性の低いものとなっている。というか稲田の場合はこの木下勝俊『九州の道の記』研究を全面的にやり直した方がよい。こういうのはダメ!
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