- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

お墓参り-福山市寺町界隈編-

2024年09月14日 | 断想および雑談
数日後に予定している史料調査の予備作業として福山寺町界隈(洞林寺・賢忠寺大念寺一心寺)で罰が当らぬように掃苔家よろしく謹んでお墓参りをしてきた。


鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹

北条霞亭の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。

賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら

福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。




一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。

「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)


写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。



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久々に『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社

2024年09月07日 | 断想および雑談
馬部隆弘さんの対談を掲載していたので、ふと昔懐かし青土社の雑誌をみかけ図書館より借りだして見た。

これまでは高島平三郎『心理漫筆』、開発社、明治31年を通じて沼隈郡神村の鬼火伝説(「ややの火」)を、同様の話題は得能正通編纂『備後叢書』所収の馬屋原重帯編著『西備名区』にも収録されている。この手の話題は相も変わらず面白おかしく庶民の読書空間の中で飛び交っている(。一応断っておくが、この鬼火伝説(「ややの火」)は得能正通が『西備名区』を『備後叢書』編集刊行する段階にわざわざ記載ヵ所を変更し沼隈郡神村・和田屋石井又兵衛+関係の妖怪伝説としてハイライト化している。それを『沼隈郡誌』は踏襲。それに対して、妖怪を迷信として処理した高島の場合はそういう扱い方をしていない)。
嘯雲嶋業調製 万延元(1860)年「備後国名勝巡覧大絵図」記載の妖怪屋敷(『稲生物怪録』)などは江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、折口信夫が、そして最近では漫画家水木しげるらが作品化。
この大絵図には三原沖に出現するという「タクロウ火」も記載している。今川了俊『道行きぶり』にも鵜飼いの燈火のように見えると言う形で、三原ー本郷辺りの話題として深夜兵士達のもつ松明なのか否かは不明だが、水面に浮かぶ火の言及をしていた。宮原直倁は海辺の村の慣行として「イサリ」(漁り火のイサリヵ:深夜燈火をもって魚・カニを取る)に言及していた。これと関係するかどうかはわからぬが、私の幼少期には明治生まれの老人が行う夜中にカーバイドランプをもって魚取りに行く「風習」(風習ではなく伝統漁法?)が干潟の発達した松永湾岸には残っていた(『福山志料』上巻、巻1風俗に鯛網・イサリの記事、イサリは端午の早朝に神様にお供えするということで干潟の発達した海浜の村々で手火をもって行う漁法、この手火は幾千となく離合集散して動くさまを遠望していると”スコブル壮観”だと)。
わたしがGeosophie研究の一環としてこのところ取り組んでいるのが虚実混淆居士馬屋原重帯の人文学の在り方についてだ。『西備名区』は偽書ではないが、彼が生きた時代特有のドクサを相当に含んでいる。生活世界次元で言えば、馬屋原重帯は平田篤胤-椿井政隆らとは地続きのところに位置づけられると思うが、私の場合は勿論馬屋原に対して馬部隆弘氏が試みたような思想史的背景を視野に入れながらの椿井政隆=偽書・偽文書制作業者論(付随的に並河誠所の式内社考証批判など)や坂田聡氏らに学びつつも、それとは違った位相で捉え直していくことになろう。


これから『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社を専門分野に関係なくざっと目を通してみるが、執筆者達の学問的境地の違い、学問研究上のセンスや研究の進展度の違いからか中身は玉石混淆だ。この手の雑誌類には昔ほど期待してないが参考になる部分があればラッキーだと思う。


関連ブログ①
関連記事②
偽史言説(非公開)→「創られた由緒」という形では例えば坂田聡 『古文書の伝来と歴史の創造-由緒論から読み解く山国文書の世界』2020
向村九音(サキムラ チカネ )『創られた由緒 : 近世大和国諸社と在地神道家』、勉誠社、2021など。同傾向の研究事例としては近年は枚挙にいとまがない。
【メモ】粗雑な歴史考証結果を一切合切取り込んだ形のと言う面では馬屋原の『西備名区』と共通する教部省編『特選神名牒』
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岸田文雄邸とは目と鼻の先にある広島賴家比治山周辺墓巡り

2024年06月02日 | 断想および雑談
慌ただしく出かけたので、地図を忘れて出かけ、帰りを急ぐ余りにカバンに常備している巻尺での墓石の計測もし忘れた



比治山公園界隈は幼少期以来の訪問だった。正面に真言宗・多聞院。



最新のものは令和元年95才で没した頼 惟勤(1922-1999、山陽の長男:頼 聿庵/いつあんの子孫)夫人尹(ただ)子さんのもの。罰(ばち)があたらないように『芸藩通志』編者・賴杏坪墓によく手を合わせておいた。

ジャンボな毘沙門天本堂の背後に賴家墓地(googlemap上の「賴家の墓」表示場所は誤り)がある。そこは開析谷底の奥まったところに当たり、寺の人の話では原爆の影響は殆ど無かったらしい。比治山・多聞院周辺には賴山陽の記念施設(例えば賴山陽文徳殿)や時代遅れの楠公追慕塔などが立地する。率直な印象として、花こそ供えられていたが、広島県史跡「賴家之墓」(賴山陽・賴三樹三郎などの墓は不在)の現在は奥側の木立の中には放置された原爆被災建物と思しき木造の廃屋(下の写真では廃屋そのものは毘沙門堂の建物の背後に隠れて見えない)があったりして美観的には些か気の毒な状況にある。


安芸本郷で途中下車して中世・沼田庄辺りの探訪を考えていたが、通過時刻が16時近くになっていたので他日を期すことにした。
「賴家之墓」のご近所、広島市まんが図書館西側、長性院霊園崖下に岸田首相の実家(ポリボックス有り)がある。
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史伝作家渡辺修二郎考-国会図書館デジタルコレクション中の「寸鐵」を足がかりとして-

2022年12月24日 | 断想および雑談

国会図書館デジタルコレクションが新装されてかなり使い勝手が良くなった。
いろいろ「渡辺修二郎(明治20年官報では渡辺修次郎)」のテクスト類が見つかる。各家庭のPCから自由に閲覧可能なテクスト数が863、中央図書館に出向いて閲覧可能なもの1149,国会図書館に複写請求が必要なもの539,Σ2551点に達するものがこちらに所蔵されているようだ。この人については誠之館人物誌には未掲載で(、阿部家家司として明治期の旧藩主家支えた人物の伝記『岡田吉顕之伝』にも未寄稿、ただし山岡八十郎次之に関する渡辺『阿部正弘事蹟』二の記事を本書12頁に転載、思想は佐幕派「江湖」新聞系)、私自身も後述する丸山真男『福澤諭吉の哲学』の中でほんの一週間前に知った次第。渡辺修二郎は官立東京英語学校(東京大学の前身)及び築地にあった外国人経営の立教学校(現在の立教大学)出身者(妹尾 啓司「備後国福山藩の英学」、日本英学史研究会研究報告/1967 巻 (1967) 74 号が簡単に紹介程度)で、外相陸奥宗光、英国公使アーネスト・サトウとも懇意だったということで人物評伝以外にも外交史関係とか日欧文化交流史関係の書籍類を数多く残していた。
渡辺が最晩年に上梓した好著『近世叢談』(の奥書、緒言の日付は昭和18年12月、本文中の記事投稿日付に昭和18年ものあり)に彼の消息の一端が記述されている。安政2(1855)年生まれで、かりに昭和19年まで健在だったとすれば89歳ということになるが,歴史家の間では江戸から明治・大正、昭和を生きた近現代史の生き証人のように例えられた貴重な存在だっだそうで、代表作は『阿部正弘事蹟』明治43(1978年に 続日本史籍協会叢書の中の上下2冊本の形で東京大学出版より復刻)年だ。
「寸鐵」(ユーモア交えたり交えなかったりするが、要するに極めつきの文芸的な辛口(=用例「寸鐵殺人的ノ短評」)あるいはその類いの批評もののこと)に関しては高橋淡水の著作物の中に「寸鐵録」というのがあっていろいろ、調べてみて明治・大正期には一つの文学的書法として存在していたかなりポピュラーな存在のものであることは理解していたが、このジャンルの極めつけ作品群を(顰蹙を買いながらも)後述するように渡辺修二郎がたくさん執筆していたのだ。
そこで・・・・
寸鐵-国会図書館デジタルコレクション
例えば半仙子(半分仙人気分の北沢良助)『寸鐵』,明治22。これらの小話集。例えば勝海舟は寸鉄鋭いアフォリズムや皮肉をこめて「さぞ本望菊と葵の共栄え」と詠われている。作品としては今一歩といったところだが、勝海舟に対しては福澤諭吉が『痩我慢の説』に記した内容(徳川幕府の幹部[若年寄格]
として戦った相手である現政府に現在大いに参加協力をしているが、あなたには三河武士としての誇りはないのかといった問いかけをした)とは負けず劣らずの皮肉っぽさである。
韓国にも一年の世相を四字熟語(例えば「君舟民水」)で風刺する遊戯を楽しむ風習があるらしい。「君舟民水」とは「民は水、国王は船。川の水は船を浮かせているが腹を立てれば転覆させることもできる」という意味らしい。清水寺が年末近くになって行う今年を漢字一文字で表すって奴も、辛口さは少なめだが風刺する遊戯の一種と言えようか。
このような書法の作品が当時、英国でも流行していたようで、そういうこともあって陸奥宗光は明治24、5年頃、第一次松方内閣時代に薩摩派と衝突して閣外へ去り,直ちに後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、ここを舞台に盛んに松方内閣批判を展開。
この書法としての寸鐵を常用した作家の一人に1855年に福山藩(江戸詰藩士渡辺三太平の息子)に生まれた著述家渡辺修二郎(修次郎)がいて、その作品として例えば『評伝井上馨』(、明治30年、同文館発行//忠国伐閥の立場から辛辣に批判、てか、ほぼ誹謗中傷本)があったのだ。日比嘉高氏(現在名古屋大学)が2000年に筑波大学に提出した学位論文:『<自己表象>誕生の文化史的研究』本編一七ページ目に新声社(新潮社の前身:編集者佐藤儀助、発行所東京市牛込区左内坂町二十八番地、明治29年に雑誌「新声」を創刊)刊『新声』第二巻第二号(明甲2)の「文壇の消息」からの引用した「◎評伝の流行・・・例の民友社如何でか黙し居る可き、渡辺修二郎氏を傭うて「人物評伝」を発行し、其他百頁内外の小冊子出ること頻々たり。尚ほ他に同文館よりも同種のもの出づ」という下りのあることを発見し、もっかこちらの方面の情報収集を始めたところだ。この程度の断片的情報はいろいろかき集められそうだが・・・・。
ところで、丸山真男『福澤諭吉の哲学』に登場する渡辺(ペンネームで焉用氏/えんようし)の『学商福澤諭吉でも福澤を「拝金主義の宣教師」と決めつけ、皮肉を込めてこの人は学問を商売する「学商」だと評定していた。
日本の知性を代表した丸山真男はその辺は角が立たないように渡辺の真意は「(福澤)氏の時代は既に去れり。今に置いてこれを咎むるは抑も酷なり。予等唯後進の為に一言加ふるのみ」という部分にあるのだと少し、渡辺に助け船を出している。
私などは儒者貧乏が普通だった江戸時代の漢学者たちのケースを念頭に私学経営者いやそれ以上に日本国の近代化に大きく貢献する人材育成者として大成功しつつあった(、西洋文明に触発された)福澤諭吉の新しい生き方を渡辺はよく理解出来なかったのだろうという気がしてならない。

渡辺修二郎の登場する博士論文・・・15件。参考までに高橋淡水の場合は2件。そのうち筑波大学のもの(西邑,雅未「筑波山における風景の変容」2018)は審査結果の公表だけで、本文非公開。李さんの「東海散士「佳人之奇遇」とその時代 : 歴史と文学の接点をもとめて」神戸大学(学術博士)、2010は閲覧は出来ないが、目次のみ限定公開されている。

【メモ】福沢諭吉の場当たり主義・得手勝手さ
痩我慢の説」(明治24年脱稿、1901年/明治34年1月1日の『時事新報』紙上に掲載)では三河武士の風上にも置けぬ奴だという形で勝海舟を批判。明治6-8年頃に書かれた『学問ノススメ』では赤穂不義士論(仇討ちを蛮族陋習と批判)・楠公権助論(後醍醐天皇に対する忠誠心が旺盛であった楠木正成の自殺は権助=下男の自殺同様、徒死だと非難。こういう形で頼山陽らが称揚した儒教的な名分論のばかばかしさを笑う)。明らかに三河武士のプライドと君主を殺められた臣下たちのプライドといった武士道の精神の中核部分を巡る福沢の考え方は自分の都合によって得手勝手に使い分けられるという面では一貫性がない。こういう矛盾点に関しては丸山眞男(松沢弘陽編『福澤諭吉の哲学』岩波文庫、2008)も指摘しているが、丸山の場合はそういう面を印象としては人間福沢諭吉という縛りの中で許容している。わたし?丸山の立場が度量があって正しいと思う。わたしなどは冒頭に紹介した「痩せ我慢説」などは生活に困窮する失業士族(とくに旧幕臣)たちの我慢の限界を超えた現状打開を考えさせる福沢諭吉からの一種の陳情書として読む。

【参考資料】横浜開港資料館 渡辺修二関係データ(佐藤孝氏執筆)

「渡辺のその後
  退官後の著述業という以外、渡辺の動向は余り明らかでないが、昭和7年(1932)8月から17年5月官制廃止までの約10年間、維新史料編纂会委員を務めた。この間、『歴史学研究』15年11月号に「鹿児島の対外戦闘並に償金交付の始末」を寄稿、文中サトウの直話を披露している。編集後記に「渡辺翁は明治維新の生きた体験者であり、実に生きた明治史ともよぶべき方である」、論文掲載には原平三・石井孝両氏から協力を得たとある。石井は、戦後『横浜市史』常任編集委員として港都横浜の歴史を叙述する。
 成稿にあたり、横浜市中央図書館の久野淳一氏から多大なご協力、ご教示を賜りました。(佐藤 孝)」

私の関心事?
叙上の話題と関連して次の検討課題としては「渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』明治43年刊(続日本史籍協会叢書、東京大学出版会、1978年として復刻版)濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』明治32刊の言述編制法の比較」を試みざるを得まい(。すでに古地図類を含め関藤籐陰『観国録』・『備後郡村誌』・『福山志料』については検討済みだが、この方面も引き続き探究を進める予定)。 藩政村レベルでは『村史』、『当村風俗御問状答書


【メモ】 森鴎外の『渋江抽斎』
その四十四

 日本の古医書は『続群書類従ぞくぐんしょるいじゅう』に収めてある和気広世わけひろよの『薬経太素やくけいたいそ』、丹波康頼たんばのやすよりの『康頼本草やすよりほんぞう』、釈蓮基しゃくれんきの『長生ちょうせい療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁ふかねすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』、丹波雅忠まさただの『医略抄』、宝永中に印行いんこうせられた具平親王ともひらしんのうの『弘決外典抄ぐけつげてんしょう』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本もと字類に属して、此ここに算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼かの出雲広貞いずもひろさだらの上たてまつった『大同類聚方だいどうるいじゅほう』の如きは、散佚さんいつして世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、永観えいかん二年に上たてまつられた『医心方』が、殆ほとんど九百年の後の世に出いでたのを見て、学者が血を涌わき立たせたのも怪あやしむに足らない。
『医心方』は禁闕きんけつの秘本であった。それを正親町おおぎまち天皇が出いだして典薬頭てんやくのかみ半井なからい通仙院つうせんいん瑞策ずいさくに賜わった。それからは世よよ半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初はじめに、仁和寺にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極きわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美やまとのかみせいびは献ずることを肯がえんぜず、その子修理大夫しゅりのだいぶ清雅せいがもまた献ぜず、遂ついに清雅の子出雲守広明ひろあきに至った。
 半井氏が初め何なにの辞ことばを以て命を拒んだかは、これを詳つまびらかにすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦みそかに洛東団栗辻らくとうどんぐりつじから起って、全都を灰燼かいじんに化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄によりの品でも好よいから出せと誅求ちゅうきゅうした。恐おそらくは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう口上こうじょうを以て『医心方』を出した。外題げだいは同じであるが、筆者区々まちまちになっていて、誤脱多く、甚はなはだ疑わしき※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)巻そかんである。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷ろくごう筑前守政殷まさただの手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人(こうようにん)渡辺三太平(わたなべさんたへい)を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統たねのりを以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵かねぐらから渡されるであろう。書籍は篤とくと取調べ、かつ刻本売下うりさげ代金を以て費用を返納すべき積年賦せきねんぷをも取調べるようにということであった。
 半井なからい広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻けんの二十五に上下がある。細こまかに検するに期待に負そむかぬ善本であった。素もと『医心方』は巣元方そうげんぼうの『病源候論びょうげんこうろん』を経けいとし、隋唐ずいとうの方書百余家を緯いとして作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡いつぼうしたものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良あんりょう法眼ほうげんである。楽真院は※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭さいてい、安良は暁湖ぎょうこで、並ならびに二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此これは法眼になっていて、当時矢やの倉くらの分家が向柳原むこうやなぎはらの宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』影写程式えいしゃていしきというものが出来た。写生は毎朝辰刻まいちょうたつのこくに登館して、一人一日いちにんいちじつ三頁けつを影模する。三頁を模し畢おわれば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能あたわざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔さくに起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦みそかに至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五

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天候に恵まれた17日は、福大通り/山陽本線高架橋へ

2022年04月18日 | 断想および雑談
撮影は△マーク地点より

南側の風景(浦崎半島 正面に尾道市浦崎町青木)⇒撮影地点(△)から青木


北側の風景⇒撮影地点(△)より本郷町旧本郷温泉峡・府中方面


北側風景の解説
追加解説@本郷奥山

参考までに本郷城山東方~北東方の眼下に見える風景
城山の眼下には旧沼隈郡本郷村の諸寺が(寺d=東蔵坊)立地した。
北側の風景とは山側、南側とは海側のことで宮本常一世代の福山市内に居住した地域史研究者村上正名はその接触点をテーマ化しそこでの研究テーマ(地理学的にいえば「生活様式」/ mode of life or lifestyle)をやや文芸的だが「渚の営み」にあると規定していた。そこでのポイントは農山村と漁村との交流(例えば物流)という側面と共に,無論そのこととも関連していくことではあるが干潟の発達した瀬戸内の風土に根座した議論(環境史/開発史)に繋がってくるのだろうと思う。『瀬戸内海の研究』において宮本は地域/海域としての瀬戸内海島嶼部の「環境・歴史・文化」にスポットを当てた訳だが、わたしの本日訪れた福大通り/山陽本線高架橋上で懐いた感情はこういった先人達の視座を俯瞰できる論理的な枠組みを新たに構想・提案・準備していくことの必要性についてのものだった。
数年前までわたしがよく訪れていた№10高圧鉄塔からの松永湾の眺め。 遠山は四国山脈、右端の方のピークが石鎚信仰で知られる愛媛県の石鎚山。参考までに言及しておくとこの地方の住民は鳥取県の大山を石鎚山と同様に信仰対象の「遠山」(大山信仰の聖地)として認識してきた。
宮本常一の地域史研究は島嶼性という切口から瀬戸内海の中近世史(正確に言えば「風土」の歴史)に関し宮本流のやり方での俯瞰形を提示したもの。
№10高圧鉄塔からの松永湾の眺めは一つのやり方として四国までを含めた遠近法的思考の可能性に気づかせてくれる。

なお、高圧鉄塔№9-№10の間に小田谷があり、その谷頭には江戸初期には小田(こだ)と呼ばれる銅鉱採掘を生業とした山師たちがつくった小集落があった。そこを通過したのが東蔵坊方面から府中・新市方面に抜ける近世の小田越道だった。

元禄13(1700)年段階における屋敷持ちとして金右衛門と五郎右衛門の二名の記載、そのうち前者は7反程度の山畑保有。

広島県年表
元和5年(1619) 水野氏,福山城下町建設のため安那郡神辺より大念寺を,沼隈郡神村洞林寺(本科一部4年・橘高忠・・・昭和3年6月『広島県福山師範学校校友会会員名簿』19頁・・・機会があれば場所を特定////遺称地は神村一区、調査済、寺跡は不明。道林寺池があるが、そこは字洞林寺ではない。墓地が立地するところが寺跡かも知れないが不明。グリーンハイツの猪原さんが佐藤久夫さんの屋敷脇に金属製の看板を便宜的に立てていた)より洞林寺(境内墓地内に森鴎外の歴史小説『北条霞亭』の主人公の後継者北条悔堂(1808-1865)墓あり、隣に賢忠寺水野勝成墓など)を城下に移転させる。この頃から,領内より城下に移転の寺院増加〔近世 1・福山市史〕。
寛永10年 4 尾道町,宗旨人別帳を作製する〔尾道・渋谷文書〕。
寛永15年(1638) 沼隈郡本郷銅山の金山寺,品治郡宮内村へ移転する〔近世 1〕⇒旧本郷温泉峡の一角に伝「寺屋敷」という比較的狭い地片があるが、ここが金山寺跡(なお、品治郡宮内村へ移転した金山寺についてはその真偽/存否について『備陽六郡志』『西備名区』などの史料で要確認)。
寛永20年(1643) 水野勝重,領内各地で銀山探鉱調査を命じる〔小場家文書〕
前述の小田集落(江戸中期に廃村)はこの時代に形成されたものだろうか。一帯は江戸時代を通じて藩有林だった。
廃村小田に残るむかしの間歩(まぶ)の出入り口
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ノーベル賞学者真鍋先生曰く「今日ジョギングしていて追い越されたので、抜き返したよ」

2021年10月08日 | 断想および雑談
真鍋先生の話題に触れる前に、今朝方しばらくぶりに『備後国名勝巡覧大絵図』を取り出してみて改めて気づかされたのが、当該大絵図の場合、例えば福山藩領沼隈郡内の情報は豊富だが、芸藩領備後国御調郡の情報は驚くほど少ないという点。逆に備後地方に於ける海上/陸上交通の難所を明示するなど輸送路情報提供には腐心の跡が伺える。こうした点は地図制作者の持つ知識の有り様や制作目的などの反映だろうか。
そうした偏りに関してそこには地図制作者の地理的知識(knowledge,ナレッジ)の地平の在り方とか地図的言説(discourse、ディスクール)編成の在り方の反映が見られると仮定して、あれこれ調べていくといろんな面白いことが浮き彫りにできる。わたしが予てより念頭において来た方法に近いのが文学作品などテクストを分析する際の物語論(Narrathology(「ナラトロジー」、字義的には物語学/物語論)的手法だ。

向島に関してはそもそも(島名としての「向島」の語は)無記載で、「属御調郡/歌島(訓:宇多乃之万)郷」とあるだけ。岡島=「小歌(おか)」と表記、加島は「歌島(かしま)」(ただし、歌島を歌の島と発音する場合、うたのしまとは現在の向島のこと。歌の文字を「うた」と発音するか「か」と発音するかの違いに注意が必要である)、尾道市向東町歌(うた)組だけを捉え、名所旧蹟を意味する▲印付き「歌浦(うたうら)」。あとは古城跡。島の名称である「白石」と「當木」の東方に図示された破線の帯は砂堆、そして「歌浦」沖合、尾道水道沿いの隠顕岩(「ゾワイ」「ソワ」/岩礁・・・黒い独特の山形記号)に「ヲイゾワ」との名称。さらには尾道水道部分には干満の差が激しく、潮流が甚だ急なりとの海事情報。⇒『備後国名勝巡覧大絵図』研究関連記事
御調郡部分の絵図表現を見ていくと、誤りを含め、例えば『芸藩通志』『西備名区』等の古地誌類記載の情報もカバー出来ていないのだ。『備後国名勝巡覧大絵図』は幕末期の福山藩側の人間(map-maker)にとって備後国の広島藩領側の事柄を他人事視する傾向があったのだろうかと感じさせるところがあり、その分、本大絵図はこの当時の地図としては少しく完成度が低いと断じざるを得ないのである。
◇別の公開サイト:『備後国名勝巡覧大絵図

ところでこんな2021年度ノーベル物理学賞受賞者真鍋淑郎先生関連記事を目にした。
「(前略)山中教授によると、真鍋さんは研究だけでなく、何事にも負けず嫌いで、60歳代後半だった当時、趣味としていたジョギングについて、「今日走っていて追い越されたので、抜き返したよ」と勝ち誇ったように話していたという。

 帰国した際に会うと、「論文を書きなさい。論文を書かないで研究者とは言えない」と諭された。一対一になると、ずっと研究の話をするのが常だった。(後略)」

商務省の外局アメリカ海洋大気庁内GFDLの真鍋先生紹介記事(Former NOAA scientist shares Nobel Prize in Physics for pioneering climate prediction)
そういえばわたしが学生時代も思考モードとしては統計解析全盛期が続いていて大いにその影響を受けた。
ところで2021年度の「ノーベル文学賞」はポストコロニアル文学の作家で現代の移民・難民問題に鋭くアプローチしたアフリカ系英国人のアブドゥルラザク・グルナ(Abdulrazak Gurnah、1948年12月20日 - )氏が受賞したようだが「ナラトロジー」というのは思考モード的にはこちらに近いかもしれない。わたしの言うナラトロジーの研究では地図的言説編成のpoliticalな側面poeticな側面といった意味論的な事象が検討対象となるのだが、その結果としてここでは地図学(Cartography)/図学(Descriptive geometry⇒例えば”Universalis cosmographia secundum Ptholomaei traditionem et Americi Vespucii alioru[m]que lustrationes.”は幾何学的研究対象としての比重大)的問題は捨象されるか背景的問題として脇に置かれることになる。
参考までに真鍋先生はこの方面の専門家でもあり、その大気科学/気候学関係の論文には地理的分布図が頻出。

真鍋先生の画期的業績とされるものがこちら1967年度の論文Thermal Equilibrium of the Atmosphere with a Given Distribution of Relative Humidity、May 1967Journal of the Atmospheric Sciences 24(3):241-259

◇真鍋淑郎先生の主要業績一覧


話は変わるがノーベル賞学者利根川進先生の父方の先祖は旧福山藩士(See⇒祖父:利根川守三郞)
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森鴎外の小倉時代

2021年06月24日 | 断想および雑談

「Alt」+「PrtSc(プリントスクリーン)」キー同時押し(コンピューターのディスプレーに表示された静止画や動画をデータとして保存するための便利機能)
元禄11年備後福山城請取絵図」を探してみよう⇒ヒント:分類としては「城絵図


「従大坂至長崎海岸之図」


航路図だがこの程度の正確/不正確さだ。ことに沿岸地名はヒラカナか、漢字。漢字表記の場合半ばは当て字。「えび」は尾道市浦崎町海老。「阿斧兎」は阿伏兎(あぶと、船乗り達の観音信仰の霊場)、鞆には赤字で「湊」と表記、赤線は航路表現。浦崎半島から分離した島状態の「戸崎」。「新庄」/「藁江」は中世荘園名だが、後者は藁江荘を意識した表記か、浦崎半島にまで及ぶ。湊としての「藁江」の代表的用例は『兵庫北関入舩納帳』(室町時代に摂津国に存在していた兵庫北関の文安2年(1445年)1月から翌年1月までの1年余りの入船及び関銭賦課の記録)中のもの。そういう点を勘案すると記載場所から考えて「新庄」は内陸部にある新庄村=沼隈郡本郷村ではなく、間違いなく湊としての「新庄」=(中世の)つるぎ浦(沼隈郡松永村・柳津村境、現在は福山市柳津町西組)を念頭においたものだったろう。藁江が浦崎半島部に記載された関係で「藤江」の位置は誤って松永湾の外側へズレ込み。「草深」の背後の山(標高438㍍の熊ヶ峰)は海上から山を目標にして船の所在を知る〈ヤマアテ〉用に表現されたものだろうか。「浦上」という地名は心当たり無し(「浦崎・上組」のことか、場所的には常石寄りの浦崎・灘組だが)。モモ(百)島の西隣に無人島を意味する朱筆で「かしま/加島」。
本航路図ではこの程度だが、別の航路図の場合沿岸地名は当て字による漢字表記が目立った。参考までに寛永10(1633)年備後国絵図の沼隈半島~松永湾岸~尾道・三原方面の海岸線。なお、本絵図中の芦田川の流路はかなり間違いあり。

ところで地図の史料批判としては森鴎外の日記(『鴎外全集』35巻)でも見かけた。11月27日と29日条だ。


この日記には鴎外の第十二師団(小倉)軍医部長時代の2歳年下の部下だった沼隈郡浦崎村出身の軍医高橋直門(槇山高橋六兵衛家の分家:古川高橋氏)に言及した箇所があるらしい⇒ちょっと調べてみたところ「小倉日記」(明治34年1月19日分)に「高橋直門予等を偕行社に饗す」という一文を見かけた。偕行社現在の北九州市小倉にあった陸軍将校の社交場。
小倉偕行社@旧岡山大学池田文庫蔵「豊後小倉城下」図⇒現地比定(現在はアップル製品修理サービス所など立地

小倉偕行社の建物

さらに明治34年8月29日分に「高橋直門来話す。曰く五弓久文晩年中風にて書を作ること能わず。述作皆人を傭ひて写さしめきと。潤三郎書を寄せて曰く。寛永9年板ちんてき問答一冊及・・・・」。書画骨董品の話に及んだらしい。機会をみつけて悉皆的に調べてみることにしよう(鴎外と陸軍一等軍医で小倉市西紺屋在住の高橋直門との接点は小倉時代のみ。小倉時代の森鴎外についてはこちら)。
【メモ】39歳当時の鴎外は心理學に関心をもち、自らもその勉強をしていた。井上円了の哲学館からの講演要請、井上の「妖怪学講義」販売の話題、軍医監でありながら小倉時代(12師団に左遷中)は仕事(12師団実施の徴兵検査の監督のため北九州~中国地方西部を巡回)の合間に九州地方の先賢の故地探訪(鴎外は大のcemetery tourism、掃苔 そうたい=墓巡りが趣味)を積極的に展開、柳田国男の兄貴:医者の井上通泰の話題時々(井上は東京帝大医科卒で、鴎外の生涯の友)。

絵図分類名:交通図
豊前小倉沖軍船航海図
瀬戸内海絵図・・沿岸地名は当て字が目立ち間違いも散見される(例えば百貫島を伊豫国/備後国にダブって図示、備後国側の百貫島といえば鞆沖合の別称「弁天島」only)。

森鴎外の伝記小説『伊澤蘭軒』には福山藩士の息子浜野知三郎らが史料収集面で随分協力した。



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梁川星巌(やながわせいがん、1789-1858)編著『星巌集』(西征集)を見ながら

2021年05月20日 | 断想および雑談
後に夫人となる紅蘭(1804-1879)を伴って岡山~下関~長崎への巡歴の帰り道、文政8年(1825)のことだが、尾道で主に豪商橋本竹下らの接待をうけ、肉親の葬儀(叔父賴春風)でたまたま竹原に帰省中の賴山陽に会い、田氏女(平田)玉蘊(1787-1855)には漢詩:古鏡絶句4首を送っている(菅茶山翁のススメもあって長崎まで足を伸ばす途中文政6年に、尾道で平田玉蘊・玉葆姉妹の描いた絵を見せられ、その返礼に漢詩を詠んでいるが、帰路に尾道に立ち寄った文政8年には平田玉蘊の為に古鏡絶句4首を詠んでいる。平田玉蘊36-38歳、これらのエピソードからも玉蘊の承認欲求=「他人から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」 という欲求の強さが伝わってこよう)。そして神辺で菅茶山翁(1748-1827)と再会、その後は讃岐・岡山へと向っている

梁川星巌が主宰した玉池吟社(漢詩塾)の社中の中の森田居敬(葆庵)は森田節齊(沼隈郡藤江村に6年間滞在。山路機谷の史記研究を支援した儒学の大先生)の弟で後年備中国庭瀬藩儒。門下の三高足のうち、鈴木松塘(鈴木邦、鈴木を洒落て鱸/スズキとすることも、別名:彦之or松塘)や大沼枕山(大沼厚、1818-1891)ら二人の名前はあったが、小野湖山(門下の三高足の一人)の名前や門下生の河野鉄兜(一時期藤江村に来て山路機谷に漢学を教えた)のそれは度々登場するも本『星巌集』上に漢詩は未掲載。『枕山詩鈔』と同じ東叡山(=浅草寛永寺境内)の(桜)の話題(星巌・紅蘭夫婦と大沼枕山・鈴木松塘らと連れだって参加)の中で武井節庵の名前が一度だけ登場。

おや尊皇家藤田東湖の名前が・・・・

8冊揃・帙入。保存状態は普通。天保の年号の記載された版本だが実際はもっと後の刊行本ヵ、何人かの所有者を経てわたしの所に辿りついたとみえ、各種の蔵書印。その中に「星文庫」というのがあった。

最終巻の口絵に蓮塘の寓居図。左は柳に植物の芭蕉

『星巌集』の研究書としては伊藤信『梁川星巌翁 : 附・紅蘭女史』、大正14が便利。


【追加情報】
こちらは大沼枕山の詠物(漢)詩集『枕山詩抄』

この中には前述の『星巌集』掲載記事と同じ、梁川星巌を交えて、大沼や武井節庵らが近所の上野寛永寺境内で花見をした時の漢詩が入っている。
千葉県の鋸山山頂に建つ星巌詩碑⇒「幕末明治期における日本漢詩文の研究

尾道市立中央図書館・山路家史料の中で見かけた「大沼枕山」の名前(筆跡は山路機谷)
武井節庵関連記事
河野鉄兜関連記事

人気・地方絵師「田氏女(平田)玉蘊(1787-1855)作「桐鳳凰図」@宗教法人慈観寺・・・・この襖絵に対する私の第一印象では、絵心のある素人絵師水準。つまり、伊藤若冲上村松園クラスの大家の作品を基準にしていえば第一人者風の風格(つまり、ハッとするような視覚的インパクトとかピカッと光り鑑賞者の心を鷲づかみにするような美的な迫力)などは全く不在。全体的な構成面(構え)はこじんまりと萎縮気味で、絵柄もどことなく大人しく、突き抜けるような生気や華やぎに欠け、気品もなし。
ただし、昭和8年に松永高女で開催の先哲遺墨展に神村・井上さん所蔵の玉蘊女史の絵が出展されていた(『青むしろ』1-11、昭和8年)。地方では名の知れた人気女流絵師だったのだろう。

メモ 梁川星巌は蝦夷地探検家松浦武四郎や賴山陽の息子頼三樹三郎と懇意だった。
久下実・豊田渡「二神家旧蔵襖絵について」、民具マンスリー52-7(2019年10月刊)、1-9頁が岩城島に転居した平田玉蘊の子孫(玉圃、1813-1884)について言及。
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すっかり忘れていた-著者青木茂氏(1898-1984)からの返信葉書発見の巻-

2021年03月26日 | 断想および雑談
『新修尾道市史』第一巻の表紙裏に著者青木茂氏から頂いた返信葉書を発見。
それがこちら。消印を見ると昭和51年11月4日となっていた。


新修尾道市史全6巻について、80歳の老人が1人取り組み、ご自身は不十分な内容に留まったことを大変悔やんでいられた。
尾道市側の予算の関係で最後の方は内容をかなり省くということもあったようだ。『新修尾道市史・第6巻』・あと書き(844-847㌻)に稿了後の心境(400字詰め原稿用紙13000枚、全6巻5000㌻分の執筆内容に関する反省点・今後の課題などを示唆)が綴られている。


青木茂氏の尾道史研究を編著書『尾道市史・上中下』(昭和14-15)、及び『新修尾道市史・全6巻』の中に探る作業を開始だ(ゴチは所蔵分、尾道市史下巻⇒目次・巻号へは橋本年誌などの近世資料編で新修尾道市史6と同じ)。
青木氏には児童文学・金光教教団そして歴史(経済史・地域史)関係の著書があるが地域史研究の作法についてはざっくりと俯瞰的に検討してみたい。

青木茂氏旧蔵文書
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今更、魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』を

2021年01月11日 | 断想および雑談

魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』柳原書店、1952

研究者をまとめ上げる定評ある魚澄の手腕。1950-1960年段階の地域史研究の一つの到達点を示す本書を紐解くことにした。
「研究課題としての瀬戸内海地域」。
こんなことをいまどき口にすると誰かから苦笑されそうだが、いまなら『方法としての中国』とか『思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企』風にリニューアルする必要がある命題設定かもしれない。
類書のサンプル


図中(A):下組(下条)、(B)戸崎・・・A-Bが浦崎半島

松永湾を塞ぐ形で東西に拡がる浦崎半島(尾道市浦崎町、旧沼隈郡浦崎村)を歩いて気づくことはわたしの認識の枠組に欠落した海と結びついたというか、要するに海洋性の何かがここには息づいているという点だった。


松永湾浦崎下組串ノ浜より戸崎方面を望む。海浜の地割はアサリ育成場(最近はアサリの生育が悪く不作)

松永湾岸における地域史研究の課題を「渚の営み」の解明だと見ていたのが地方史研究者村上正名だったが、戦後世代の我々というのは、戦後経済の発展の中で連絡船が連絡橋に置き換わり、海辺の芦原が臨海工業地帯へと生まれ変わり、生活世界自体が徐々に遠自然的もの(ライフスタイル的には身近な海や山に背を向けるあり方)になっていった。私としてはそういう反省点を踏まえて過去の再構成作業を進めようと思っている次第である。
わたしがこれまで取り上げてきた海関連事項
沼隈郡神村和田石井家に関連した妖火伝承「おやや伝説」の中には神村石井一族が海運と結びついたことを示唆するプロットがある(しかも、姻戚関係を通じてこの石井一族は備後国の島嶼部臨海部と深い結びつきを持つ)。

魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』については取り合えず「研究課題としての瀬戸内海地域」だけは読んでおこう(既読)。
方向性としては戦前からの(瀬戸内式気候・多島海、四国と山陽地方、都と西国及び大陸とを結ぶ「海の回廊」的位置といった地理的属性を有する)風土論とか文化史/文化圏的学説を加味しつつ、大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編, 『西洋経済史講座-封建制から資本主義への移行-』, 第I〜IV巻, 岩波書店刊,1960からの熱風を背中に感じながら史学研究(気分的には封建的土地所有、共同体、前期資本主義、資本主義の生産様式とその社会的構成の発達などの確認作業)を進める辺りだったろうか。
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「今津・善性寺門前のジャンボ石灯籠について」 松永史談会会報2016-8

2020年12月30日 | 断想および雑談








今津・善性寺門前のジャンボ石灯籠の所在地⇒GoogleMapの左端メニュー欄より「ストリートビュー」へ移動。
小稿は地方名望家(国会議員井上角五郎の支援者の一人で、大正期の実業家)による「目立つための消費(衒示的消費)」とか一人の宗教家(在家禅の指導者)の原点を念頭におきながら小話風にまとめたものだったが、今後これを別方向から再論理化予定だ。



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忘れ去られようとしているある人の過去

2020年12月06日 | 断想および雑談

竹藪の中に分け入ったところ。外から見ているだけでは墓地があることすら判らない。しかも猪除けのネットが張られ、以前より竹藪自体に辿り着き難くなってしまった。尖塔のように丈の高い笠付墓は何となく西国捕鯨で知られた沼隈郡田島風。

作田高太郎家墓石は東京に移転、ここにあった作田一族墓も地元在住の関係者が付近の新墓地に移転させ、今こうして残るのは子孫達の選択からこぼれ落ちた、いわば遺棄された墓石達なのだ。

沼隈郡藤江村は村民の大半が水呑百姓で、本百姓は全世帯の内で1割程度だったのだが、本百姓筋のものは明治期に入っても好んで藩政時代の格式:苗字を流通させたようだ(@藤江・公民館付近の「厳島神社」)。
一つだけ大きく傾いた墓石があった。作田高太郎妹の分骨墓だ。


ミヤエ(1893-1922)と芳之助(作田高太郎の国会議員選挙で運動員として力を付け一時期松永町町長)との間には男の子「幸之助」が一人いたが、ミヤエ(大正11年旧8月9日没)が亡くなった年齢と同じ29歳のときにノモンハン(1939年)で戦死している。芳之助はその後、ミヤエの姉(=作田高太郎の姉)の娘ミサトを後妻として迎える。ミサトは母親と同じ29歳で亡くなったX(幸之助)の戦死の報に接したときにはそのことを口にしながら娘清子も驚くほどの号泣をしたという(ミサトの娘清子談)。ちなみにミヤエの夫とミヤエの姉カツの夫とは兄弟(兄:二代目金助・弟:芳之助)。石井四郎三郎家の没落時(大正3年)に松永西町で積極的に田畑の買得を行った人物の一人がこの金助ご当人(通称「桑金」)だった。


2020年12月6日現在の何年かぶりに訪れた作田高太郎生家跡(屋敷地中央北端の石組みは井戸、門構えの家で手前中央辺りがそうだったようだ。屋敷地は150坪程度で)。ミヤエの実妹佐古田ヤエ子の娘千代(1941-)宅を訪れたが、ちょうど留守で、隣家の人の話ではもう大分前に亡くなったとのことだった。後年(2021年11月3日に)再訪問したら千代さんは健在で、自分は後述する松崎清子の従姉妹とのことだった。「坂の東」(さかんとう)の藤江4班消防倉庫廻りの景観一変

関連記事
【メモ】長男徹也(平凡社重役、次男コウジ、長女不明(弁護士と結婚したはず)、二女妙子(松崎清子情報、2021年11月3日)

【作田高太郎(1887-1970)に関するもう一つのエピソード】(吉 武 信 彦「ノーベル賞の国際政治学 ―ノーベル平和賞と日本:吉田茂元首相の推薦をめぐる1966年の秘密工作とその帰結―『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 19 巻 第4号 2017年3月 43頁~ 69頁)に「ノーベル委員会が2016年に開示した史料によれば、1966年の候補は総数33、個人26、団体7であり73)、外務省の伝えた上記情報は正しかった。候補としてウ・タント、ドルチのほか、トルーマン(Harry S. Truman)元アメリカ大統領、リー(Trygve Halvdan Lie)元国連事務総長、ウンデーン(Bo Östen Undén)スウェーデン元外相、ラパツキー(Adam Rapacki)ポーランド外相、ブルギバ(Habib Ben Ali Bourguiba)チュニジア大統領・首相、サンゴール(Leopold Senghor)セネガル大統領らが推薦されていた。アジアからは、ラダクリシュナン(Sarvepalli Radhakrishnan)インド大統領、同じくインドの哲学者・社会奉仕活動家、バーベ(Vinoba Bhave)に加えて、日本の湯川秀樹京都大学教授も推薦されていた 注74)。」という記述を見つけた。その注74)を見ると、何と

注74湯川秀樹は、相模工業大学の兼子秀夫教授(元鳥取県副知事、相模工大 学長)、作田高太郎教授(昭和二九年「世界恒久平和序論」法・道徳・宗教研究会⇒中身的には二番煎じ、この当時の作田は仏教系の宗教家に接近しすぎ)によって推薦されていた。Letter from Hideo Kaneko and Takataro Sakuda to the Nobel Committee of the Norwegian Parliament, dated 20 January 1966, PFL 42/1966 in Det Norske Nobel-Institutt Prisforslag (PFL) 1966.推薦理由として、湯川がプリンストン大学留学中にアインシュタインと議論し、恒久的世界平和を保障するためには世界政府の樹立しか道はないとの結論に達したこと、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言に署名した11人の科学者の一人であり、1957年の第1回パグウォッシュ会議にも参加した一人であったこと、日本でも1955年に世界平和をアピールした7人委員会を設立し、それ以来、多数のアピールを出し、日本、世界の世論に影響を与えていること、1948年頃から国内外の世界連邦運動で重要な役割を演じ、1958年には世界連邦世界連盟(The World Association of World Federalists、WAWF)のアドヴァイザーとなり、1961年には同連盟の会長に選出され、1963年には再選されたこと、1965年の同連盟第13回大会でも会長として活躍したこと、妻の湯川スミも世界連邦運動に活発に参加していることなどが列挙されている。」
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『安部野童子問』/『自白法鑑』再検討のため、敢えて道草を食うの巻

2020年11月28日 | 断想および雑談

国語史・国文学関係の文献はかなり前からときどき紐解くようにはしてきたが今回は浪華城南隠士著『安部野童子問(あべのどうじもん)』つながりで話題にした記事;”一揆物語と太平記読み”を一歩前進させるために今井の大著「『太平記秘伝理尽鈔』研究」にズームインしてみようと言うわけだ。
取りあえずは加美宏提示の先行学説
を押さえておこう。それでは
目次
 序章 『太平記秘伝理尽鈔』の登場
  第一部 『理尽鈔』の世界     
   第一章 「伝」の世界
   第二章 「評」の世界――正成の討死をめぐって――
   第三章 兵学――『甲陽軍鑑』との対比から――
  第二部 『理尽鈔』以前
   第一章 『天文雑説』『塵塚物語』と『理尽鈔』
   第二章 『吉野拾遺』と『理尽鈔』
    付論 『塵塚物語』考――『吉野拾遺』との関係――
   第三章 『軍法侍用集』と『理尽鈔』――小笠原昨雲著作の成立時期――
      付.『軍法侍用集』版本考

第三部 『理尽鈔』の伝本と口伝聞書
   第一章 加賀藩伝来の『理尽鈔』
   第二章 『理尽鈔』の補筆改訂と伝本の派生
   第三章 『理尽鈔』伝本系統論
   第四章 『恩地左近太郎聞書』と『理尽鈔』
   第五章 『陰符抄』考――『理尽鈔』の口伝聞書――
   第六章 『陰符抄』続考――『理尽鈔』口伝史における位置――
   第七章 『理尽鈔』伝授考
  第四部 『理尽鈔』の類縁書――太平記評判書の類――
   第一章 「太平記評判書」の転成――『理尽鈔』から『太平記綱目』まで――
   第二章 『理尽鈔』と『無極鈔』――正成関係記事の比較から――
   第三章 『無極鈔』と『義貞軍記』
   第四章 『無極鈔』と林羅山――七書の訳解をめぐって――
      付.甲斐武田氏の『孫子』受容
  第五部 太平記評判書からの派生書
   第一章 『楠正成一巻書』・『桜井書』の生成
   第二章 『恩地左近太郎聞書』『楠正成一巻書』『桜井書』と『理尽鈔』
   第三章 『楠判官兵庫記』と『無極鈔』
  第六部 太平記評判書とは別系統の編著
   第一章 南木流兵書版本考――類縁兵書写本群の整序を兼ねて――
      付.南木流覚書――『理尽鈔』との関わり――
   第二章 肥後の楠流
      補.誠極流と『太平記理尽図経』/付.『軍秘之鈔』覚書
  第七部 『理尽鈔』の変容・拡散・・・「理尽鈔」は「太平記」の記述に対する異伝/真相(と称するもの)を語り、その立場から登場人物の言動を論評するもの(本書636頁)
   第一章 『太平記秘鑑』伝本論
   第二章 『太平記秘鑑』考――『理尽鈔』の末裔――
   第三章 「正成もの」刊本の生成――『楠氏二先生全書』から『絵本楠公記』まで――
      付.『楠正行戦功図会』覚書
   第四章 明治期の楠公ものの消長――『絵本楠公記』を中心に――
   第五章 「楠壁書」の生成
      付.正成関係教訓書分類目録
  終章 「正成神」の誕生と『理尽鈔』の終焉
  付録.太平記評判書および関連図書分類目録稿
   Ⅰ.太平記評判書および関連書
Ⅱ.太平記評判書を用いた編著 付.楠関係の謡曲
   Ⅲ. 正成関係伝記
Ⅳ.楠兵書 付.『秘伝一統之巻』覚書
    所蔵者略称一覧
    あとがき・索引(人名・書名〈資料〉・『理尽鈔』〈版本〉引用箇所・事項)


私の心境としては『安部野童子問』/『自白法鑑』再検討のため、敢えて道草を食うという感じ。

まだ図書館より借りだして間がないので前書き程度しか読んでないが、この本は『太平記秘伝理尽鈔』の文芸作品としての成立過程(伝本調査とその系統分類作業)に焦点を当てたもののようだ。
ってことは『太平記秘伝理尽鈔』の、それも講釈にスポットを当てつつ、その中の兵法論・道徳論・政道論を論じたものではない。
この辺りのことは従来(例えば前掲の加美宏「『太平記秘伝理尽鈔』とその意義・影響・研究史」)からもかなり取り上げられ、最近では今井正之助門下の若尾政希が幕藩制国家の現実との関わりの中でそれを精力的に研究しているのだと。


若尾政希自身は著書「近世の政治思想論―『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益,」148頁(注3)において大和和雄のコメント:「著者(若尾)が明らかにした思想史の動きが、なぜ《太平記》との関わりの中で進行したのか、日本人が歴史を先例として読むのではなく、史上の人物に託して、政治の論評を行い、歴史の解釈を通じて政治思想を表現するようになることの、思想史的な意味を考えてみたい」(「デジタル月刊百科」1999年10月)を紹介。史上の人物といえば「行基」「聖徳太子」「小野小町」などもそうだったと思うが、そこまで対象を拡げなければ「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠臣楠氏以外では忠臣蔵(大石内蔵助)も同様だ(若尾「近世の政治思想論―『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益」123頁が指摘するような『太平記評判秘伝理尽鈔』に説く、「あるべき治者像」=為政者像のようなものではなくここではむしろ「あるべき臣下(忠臣)像」がハイライト化されている)。こういう部分を含めて私が知りたいのはそれは単なる修辞法上の問題に過ぎなかったのか、それとも『太平記秘伝理尽鈔』やその講釈師たちを支えている(通俗的なものも含めて)思想基盤があったとすればそれはどのようなものだったのかと言う点なんだが・・・・。
いずれにせよ教える側も教えられる側も中国の古典籍類には刃が立たず、為に「倭学」(桑田忠親『大名と御伽衆・増補新版』、1969、264-276頁 桑田は倭学=本朝の古典文学とするが、むしろ『太平記』のような軍記物主体の国書類の評釈/講釈を指すヵ)に傾斜せざるを得なかった事情が、戦乱続きの中世後期の武家社会にはあっただろうことが何となく透かし見えてきそうだ
そんな思いを懐きつつこれからしばらく今井正之助『太平記秘伝理尽鈔』研究を読んでいくことになる。
これまで『自白法鑑』を熊沢蕃山との関わりで考えてきたが、熊沢蕃山の政道論は池田光政時代の岡山藩ではあまり浸透しなかったと言うような意味の話を若尾政希の著書(若尾『「太平記読み」の時代』、平凡社、254-289頁)で学んでから、いまの私は意識としては一旦熊沢を外して『自白法鑑』を見つめ直す必要性をも迫られ始めている次第なのだ。

福沢諭吉は賢く、陰陽五行説や儒教的名分論を盲説として否定。村田露月編著『松永町誌』は本庄重政『自白法鑑』の支離滅裂さを品よく「幽玄」ということばで処理。この辺がこの史料との付き合い方としては正解なのかもしれない。

【メモ】『西備遠藤実記』及び『安倍野童子問』は『府中市史史料編Ⅲ近世編下』に掲載。
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今津ー松永地区航空斜め写真(昭和29年撮影、福山市立今津小学校蔵)

2020年03月25日 | 断想および雑談
令和2年4月より福山市立遺芳丘小学校となる今津小学校蔵今津ー松永地区航空斜め写真(昭和29年撮影)旧今津小学校(今津公民館・今津保育所一帯)西校舎落成記念か東河原の地面に「祝まつなが」の文字が大書されているので松永市制施行の記念とをかねて撮影された航空写真だ。一昔前の今津・松永地区の様子が解る。末広座(松永町字内小代ノ上)見かけ上、上方の白○印はマネキ衣料品店


松永史談会次回例会にてこの斜め写真(A3サイズ=オリジナル画像サイズ)を配付します。
(なお、原板写真同等の、この古写真の高精細コピー版の活用方法を地元の自治連合会長と公民館長に対して口頭で説明の上、提供済み)

承天寺山から今津・高須方面を撮影(昭和30年頃)


矢野光治(昭和29年頃松永町助役)家アルバム中の航空斜め写真
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地租改正時(1870年代)における沼隈郡今津村にあった石井保次郎所有地

2020年03月08日 | 断想および雑談
地租改正時における沼隈郡今津村にあった石井保次郎所有地にはかなり特徴があって字柳ノ内の南西部に一円的に分布した。
こんな感じだ。
場所は西国街道今津宿の東側入り口に位置する吾妻橋(本郷川架橋)の東詰にあった鞆往還と西国街道との分岐点より、鞆往還沿いに南行した松永村(字内小代の上=その北端を区域の形状より「末広町」と通称)境。面積は1.2㌶。字名では(旧沼隈郡今津村)字「柳ノ内」。明治24年に山陽線松永停車場が開業してから石井保次郎(⇒清一)保有地は急速に町場化。「柳ノ内」の地字から大正期~昭和初期にかけて道路沿いの町場は「柳町」(通称)と呼ばれるちょっとした商店街へと発展(その一角に分家の金益家が立地)。一歩路地に入ると借家などが建ち並ぶそんな区域全体が保次郎の土地だった。千間悪水沿いの通路(「止まれ表示」の下に暗渠化された幅2㍍の千間悪水の水路)と鞆往還との交差点には昭和30年頃マネキというこの地区ではけっこうお洒落な衣料品店が立地し、その3階建ての建物は現存


下に表示した『松永村古図』(元禄検地帳と明治地租改正時の地籍情報を書き込んだ、江戸時代の古地図をベースに作成された明治期の古図)上に図示した石井保次郎屋敷とその周辺環境。塩田については満井石井家系統の場合、宗家・満井石井家が松永地区では長和島(明治期に入り高等小学校ー高等女学校用地、一角に繁野屋から英三郎・次男坊たる養子石井節造系の分家が現存)・神島に、益田屋(山波村熊丸家から養子を迎え満井石井家より江戸後期に分家)の分家金益屋の塩田は神島(現在JA松永一帯)、そして益田屋自体のそれは「下(した)の浜」(今津島、この塩田は元来は宗家を継いだ猪之助名義だったもの)等にあった。


旧今津村字柳ノ内の南部一帯は松永市長になった益田屋当主によっていち早く区画整理が実施されている。これは都市政策面では松永市における西町方面での市街地拡大を前進させた。
この点は旧松永市駅前地区(ここは今津村分では旧藤江岡本山路家ゆかりの土地や黒金屋藤井家そして神村分では旧入江屋石井一族によって占有され区域であり、そういう事情もあって大正ー昭和前半期は藤井氏が大正町通り・日の出通り商店街を中心に私的に整備開発)の場合の市街地整備の有り様とは事情が異なっていた。朝日町・日の出町・大正町通り筋によって構成されたこの駅前地区繁華街について若干付言しておくと、昭和30年頃より土地の所有権がかつての自営業を営むテナント達によって買取られていったが、今では複雑な地権者問題も重なって都市再開発がもっとも望まれる地域の一つとなっている。
出典:戦前期広島県資産家に関する基礎資料(1) <資料>広大経済学論叢34-2.2010
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