- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

『赤坂村史』中にみられる編集責任者川上順一の不見識、喝!!!

2016年12月29日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
実は川上順一編『赤坂村史』は困った郷土誌だ。
昨日届いたのでページをめくっていたら、な、なんと

口絵部分に置かれた地図が(やむを得ない事情があったのかとは思うが)大正3年沼隈郡明細全図だったとは


藺草に関する記事だが、私淑していた村田露月『柳津村誌』の文章を丸写しした形の流用だ  
赤坂村史編纂員会は村田が健在だった昭和32年に立ち上げられ、村田の指導を仰いでいたようだ。村田が昭和36年に亡くなり、その後は川上が編集主任という形で中心的に本誌の執筆活動に関わって昭和42年に出版にこぎつけたらしい。
川上順一は編集者としては失格。自分の文章と他人の文章との区別をはっきりとさせ、他人のそれに関しては典拠を明示するといった正しい引用の方法を知らなかったのだろうか。



川上は写真の引用先を明示していない。


『柳津村誌』掲載写真の原版(福山城博物館蔵)はこんな感じ。ややピンボケ気味だった。なお、「藺刈風景」の注記はあったが、撮影年次、撮影場所などのメモはなかった。撮影地点が正しく柳津村内であったのか否か、当然問題として吟味されなくてはならないだろ。柳津村誌のゲラ刷りとは別に、別の多数の写真たちとともに幾つかの封筒に入れられていた中の一枚


こういう文章の盗用/流用とか図版類の転用があると郷土史:『赤坂村史』全体の価値と川上自身の編著者としての資質が問われかねまい。

今回紹介したような不正行為を見抜くことは普通の読者だけでなく研究者でさえなかなかできないことだが、より上を目指す人は本を読むときにはこういうケースもあるので日頃より史料に関する批判精神の涵養を心掛けたいものだ。
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煤だらけのある土人形@丹波大山荘

2016年12月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
大山荘調査団編『丹波国大山荘現況調査報告』、(西紀・丹南町文化財調査報告 / 西紀・丹南町教育委員会編, 第3-7集)西紀・丹南町教育委員会, 1985.3-1~4 付録5(のちに一冊の本に)という大部のアカデミズムの中では立派な部類の報告書がある。わたしはこれらの報告書が出された直後からこれらの成果に導かれながらというかやり残しの部分とか、要するに多少あら捜しを兼ねて大山荘の故地を何度か訪れた。
その時の印象ではこういう報告書というのは第一に調査者の自己満足のためのものであって、地域住民にとってはまったく興味も関心もない代物なんだな~と痛感させられたものだ。当時は農林省が音頭を取った田畑の区画整理(圃場整備)事業が全国的に推進され、それを念頭に景観上に残存する荘園史料を記録保存することを目的に、京都大学の大山喬平とその門下生たちが中心となって報告書は書かれた。
地域住民を巻き込んで調査研究することの難しさ、あるいは地域住民を相手にしていては将来を見据えた格調高い調査研究などできないものなんだな~と

大山小学校を近くに二宮神社という小さなお宮さんがあってうっそうとした社叢林の木の間にぽっかりと浮かび上がるように陽光をうけた社殿のたたずまいが実に美しくいまもその時の感動がわたしの頭から離れない。その写真はむかしFlickrのわたしのサイトに掲載していたが、いまは写真の原版ともども行方不明。わたしの思い出の中にかすかに残っているだけだ(忘れていたが木彫の恵比寿大黒は2階の床の間に飾りっぱなし)。

その社殿の裏側に回ると油煙を浴びたのか煤だらけの土人形がたくさん打ち捨てられていた。
あれから20年。我が家にその一体がある。ゴミ捨て場からものを持ち帰るようないやな気持がしたが、おそらく炊事場に置かれていたのだろう、なかでも油煙でねっとりする感じの煤だらけ状態の汚い大黒さんが私の目を引いた。その表情のすばらしさに・・・・こうして今なお、我が家にあり続けている。
それがこれ


大みそかの日に神棚を掃除していたら小さな3体の恵比寿・大国さん土人形が見つかった。小さな土人形は旧宅時代の床の間にはたくさんあったように記憶するが、残っているものの中にはそのうちの1体と思われるものもあった。


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葛原勾当日記の嘉永5年

2016年12月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
勾当41歳、働き盛り嘉永5年の記事11月。
11月2日 福山に着き、江良屋・黒鉄屋を回り、6日に柳津着。そこに2週間滞在し、19日昼から尾道へ。一週間滞在し26日尾道から柳津へ。4日間滞在し、30日舟にて尾道へ。

11月7日の和歌だが「上もなき仏の御名唱えつつ地獄の種を蒔かぬ日ぞなき」
これは稽古をつける時、こころを鬼にして弟子に対し、スパルタ式特訓をする自らの厳しい指導態度を自省の念を込めつつ詠んだものだろうか。

11月日 日記文の「寒ければまた同じ。教えぬさかいに
下線部の「さかいに」は関西のお笑い芸人が「●●や、さかいに」という言い方をする時の言い回しに似ている。
"絶え間なく落ち来る滝の白玉は千代を重ねるためしなるらし"、かく詠みて短冊にして贈ったが、しかし、面白き歌とも思われぬようにおます(安政4年2月、223頁)。
関西弁(”やさかい”、”おます”などは商人言葉ないしは丁稚言葉風)!
「後ろから雪風に吹きたてられて早かった」とか「罪を置き土産にし、帰る」といった勾当のユーモア表現が印象的。
福山での買い物品目は健常者と変わらない。

柳津


11月30日の記事から勾当は尾道ー柳津間を船で移動していたことが判る。屏風絵の柳津の常夜灯は船着き場の存在を示唆し、同時にそれが燈台的機能を有したことを伺わせる。

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山郷を形成していた柳津・神村・今津の村々

2016年12月21日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
「神村新庄奥野山」。これは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山についての記述だが、これら三ヶ村は神村/新庄に属し、そこの奥、つまり神村/新庄奥の野山を共有していたことを示唆したもの。松永・柳津及び今津の一部は神村八幡の氏子圏であり、かつ藩政村柳津村の全域に中世の新庄つるぎ浦が入り込んでいたことを考えると「神村新庄」は中世以来の「神村」「新庄」とが併存しながら混在していたことを示唆した荘園制遺制を引きづった呼称だと判ろう。『柳津村明細帳』に記載され、そこは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山ではあるが、他村内に飛び地としてあることを断っていないので、ここに言う「神村新庄奥野山」とは三か村入会の、藩政村柳津村内の奥山を指したものだろう。だとすれば神村新庄奥野山をめぐって柳津・神村・今津とは中世荘園遺制を引きずるかたちで一種の「山郷」を形成していたことが判る。水利関係を通じて郷を形成する例はよくあるが、山郷という呼称は殆どの人は知らないかもしれない。珍しい言葉として筆者が気にかけているのが『備陽六郡志』などの古地誌類に登場する「ホノケ(「一村の内小名を以て分かつ、俚諺にアサ又はホノケ」とか「観音寺と言える寺跡ホノケ」)」という言葉だ。土佐国の長宗我部検地帳には「ホノギ」という形で普通に登場する語だが、福山藩あたりでは昔は「ホノケ」の語が常用語されていたらしい。

村田露月『柳津村誌』、昭和33.

寺迫山・伊勢山下(かつてこの地字に金山彦神社立地、神村町には2箇所現存)、新庄奥山家上


関連記事:中世荘園制遺制:砂揚げ祭り

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ちょっとカメラ持ち ブラブラ 承天寺(2)

2016年12月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
島屋村上家  出稽古に行ってた島屋(表組入りした島屋のおきく)のことは『葛原勾当日記』にもふれられている。


本村上家・・・・これももとは島屋村上一族。そのうちの中核が松永村の庄屋・郷侍の家筋を形成。


寛政3(1791)年に64歳で没した慎斎邨(村上士鑑)先生墓・・・庄屋・村上久兵衛尚政の季子(末っ子)。能島→田島経由で松永に転住した島屋村上一族だ。詳細は村田露月『松永町誌』,433-434頁の説明文に譲る。


吉和屋亀田氏


鹿市屋漆原氏


福山屋藤原氏




干濱屋・・・・徳島・大木屋浜の隣に同名の塩田業者がいた。 三谷氏(要確認)


宇津戸屋芳蔵

尾道久保に宇津戸屋要助寄進の稲荷さん。

尾道・勇徳稲荷の「宇津戸屋要助」・・・尾道の宇津戸屋は長江口辺りに本拠があった豪商。

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のこぎり探しに再度訪問

2016年12月20日 | 断想および雑談
アルス社製チルトンTL27 ・・・・これはなかなかのすぐれものだ。昨日紛失したので捜索に出かけた。













無事発見・・・・・夢中で草刈りしていて落としたらしい。



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九十九巳之吉

2016年12月19日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
九十九巳之吉さんの子孫を訪ねたが・・・・
子供時代は広島で生活し、後年は新聞記者で外にいたため、むかし醸造業をしていたことは知っていた。それ以外は不知。微かな記憶の中から九十九氏答えていわく、屋号は東(東)・・・●●、おいおい東屋は小川喜三次家の屋号だ。
九十九家は草戸・神島当たりにルーツを有するようだが、すべては不確か(再度確認予定)。


高須屋の居宅の場所が知りたいのだが・・・・・。九十九さんは私の従兄弟の幼友達ということで話が早かった。

麻生家墓地には新しい榊が立てられており、子孫は健在のよう。小川家墓地の雑草の刈り払いを行ったが、3年前に買った高性能のこりぎ紛失。やれやれ。


北隣の宅地の建築現場


巳之助さんが伊勢宮さん境内に桜を植えたことを話すと87才の九十九さんは喜んでおられた。

わたしは承天寺墓地で行ってきたことは松永村の富裕層の人たちの話。これでは零れ落ちるものが相当に出てくる。方法論的に問題ありだ。
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麻生吉兵衛親盈墓

2016年12月19日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

村田露月『松永町誌』に導かれつつ承天寺墓地で撮った写真の整理中に偶然麻生吉兵衛親盈墓をとった一カットを見つけた。親盈(ちかみつ)という大名級の名前には誠に恐れ入る
松永潮崎さんに玉垣を奉納した松永・麻生吉兵衛親盈と尾道高橋七郎右衛門治信。両者は姻戚関係にあったようだ(『松永町誌』、450頁)。弘化3年の月代所規定書(今津・若木屋矢野梅哉旧蔵)に麻生吉兵衛は松永浜並びに柳津歌浜持主とある。

承天寺の麻生家墓地



夫人は桑田祖矩の妹とある。桑田祖矩を山南・桑田氏系図の中に探してみたが・・・・・・
祖の文字を通字とした系統もあったが、祖矩の名はなかった。


なお、高須屋麻生吉兵衛家の古いお墓は神村・万福寺の本堂裏にもある。この麻生連蔵家は松永駅裏(西川國臣家の隣家、旧西川國臣家住宅自体、松永高等小学校に隣接するということで、明治30年頃高須屋麻生氏から買得した物)

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井出重遠(1829-1872)

2016年12月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
井出三省供重夫婦塔とある。これが幕末期松永の医師&文人井出重遠の墓(墓誌なし)である。江木鍔水らに漢学を学ぶ。村田露月編『松永町誌』昭和27によれば先妻は明治2年、後妻は大正7年歿。

画像整理の段階に井出三省供重が井出重遠を指すことを村田露月『松永町誌』の中で知った。

墓地全景・・西川國臣墓地の一段下。

医業をなりわいとした浜(塩田)持主井出家一派の家族の温もりすら伝わってきそうな墓石たち(。小さい墓の多さは江戸後期に於ける乳幼児死亡率の高さの反映)。

西川國臣の墓地のすぐ上。


こちらも医師の家系高橋家のやや堅苦しいが洗練された感じの墓石たち。


『未開牡丹詩』の最後に井出の漢詩が掲載されている。







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ちょっとカメラを持ちブラブラ  承天寺

2016年12月15日 | 断想および雑談
葛原勾当日記』をもって出かけ、中之町の九十九さん(醸造業九十九巳之吉の子孫)の近所で高須屋・小松屋という屋号を聞いてみたが、高須屋は吾妻橋西詰め薬屋(杉原、わたしの子供時代は駄菓子屋)なら知っているという感じでまったく埒が明かなかった。聖護院かぶらを届けに親戚に立ち寄り、承天寺墓地へ。東町理解という面ではいろいろ収穫があった(当然の事として、私としては新たな課題が見つかったという部分での収穫の方がより重要だと感じている)。






元禄期の舟形光背墓、尾道当たりで見かけるものより、相当に小ぶり。


法名に「釋」、「妙」がつく。承天寺近辺墓地には真宗門徒の墓がかなり含まれている。草ぼうぼうの中に墓石が立っている感じで、うっかりしていると雑草の種(”引っ付き虫”)が大量に衣服に付着する(^ω^)。


かつて町内屈指の富豪(幕末期には松永村組頭で、製塩・醸造業、明治25,29年には県会議員に当選)だった東屋小川喜三次夫婦の墓は明治33年御当主の病没後は没落状態になり、土壁ははげ落ち、荒れ放題だが立派な構えの墓地に往時の面影の一端を留める。墓誌の読み取り作業は日を改めて行う予定だ・・・・再調査したが収穫なし

小川家墓地全景・・・草ぼうぼう

小川家墓地からみた松永の街並み




小川喜三次と明治維新期の農民騒乱

平櫛関連記事  栄虎(平櫛姓)


小川喜三次の所有地(今津村500番地、旧三藤喜四郎持分地)を発見。喜三次の土地は沖田地区にももう一筆あったようだ。小川恒松(大前小川家・・・『河本亀之助追悼録』に石井憲吉・石井一郎らとともに出てくる御仁)との系譜関係の有無は不明。なお、499・501番地は第66国立銀行(尾道→広島銀行)の所有地(旧山路右衛門七持分地)。







高橋碧山(1849-1906)の墓誌。医師。武井節庵・北条晦堂、備中興譲館の坂谷朗蘆、21才の時に福山藩医宮森養竹(漢方)、寺地強平(洋方)。明治19年薇松泉会(古銭同好会)を作った。明治33年『西山遺稿』に当時の住所が沼隈郡松永町705番地とある。場所は湯屋ヶ橋の東詰、中之町北端山側の九十九巳之吉経営九十九酒場のあった屋敷だ。承天寺山山麓に茶室風の離れがあって、それを上ると承天寺麻生家墓地付近に出る木戸があった。賴山陽が今津・薬師寺で漢詩会をした後、宿泊したのが高橋西山の親父景張時代のこの竹原屋高橋家住宅だったが、ただし、それが705番地屋敷だったかどうかは不明。


一基だけが丸山鶴吉墓地、二基ある方は弟の丸山幸一家墓地。この丸山一族も栄枯盛衰の波の中に飲み込まれている感じだ。

東京・青山霊園の丸山鶴吉一家之墓



麻生吉兵衛家の墓地。尾道・橋本家文書に「福山藩領松永村の高須屋吉兵衛」とある家筋だ。高須の麻生氏の家紋は卍、こちらのは「八角に剣片喰」。高須屋麻生家の旧墓地の一部は神村万福寺にある。




松永村戸長村上専三夫婦墓、夫人(竹原の豪商米屋吉井家の出、吉井氏は竹原の庄屋でもあった)


安永2年の史料に松永村郷侍(『松永町誌』、388頁)と出てくる村上専蔵家系の息子兵五郎(第二代目松永村村長、在職期間明治25-40年)の墓誌に友人得能正通の書字(丸い墓石の北側or寺側の墓石)。兵五郎は年齢的に河本亀之助と同級生くらい。兵五郎には子供がなく絶家。


「本村上」(島屋村上氏)・村上専蔵家墓地の背後から


同上村上専三家墓地の正面景




この大木屋は大木屋岡本か


徳島の製塩業者井出家一族の墓地だ。製塩業者のお墓は結構小ぶりなものが多い。これは彼らが1.2町歩程度の零細塩田経営を余儀なくされてきたことと無関係ではあるまい。徳島の井出の分家は住宅の解体工事中。西川國臣の墓近くにいた齢80才くらいの見覚えのある男性夫妻(たしか解体工事中の住宅の隣の井出夫婦)に質問してみたが、むかしの事はあまり知らない風だった。こちら井出良〇系(良は通字)・・・良察・良朴らはすべて医師で松永浜持主。井出良朴(西村出身の医師・・・・医師井出健爾の岳父) 井出健爾は本郷村佐藤家の出で養子、子供時代は大成館で漢学を学んだ。    

井出元常・・・こちら井出元〇系(元は通字)も松永浜持主の家筋(『松永町誌』、395-96頁)。子供墓・・・・この一家の幼児死亡率の高さは異様。


『未開牡丹詩』に登場する井出重遠墓(→重顕@豊田郡河内で醤油醸造、俳人)は井出氏一族だが別系統。


尾道屋(高橋氏) 尾道屋の女房の近世末期墓(本堂裏通路沿い榊の自生木脇の太い高さ2尺くらいの石柱墓)が今津・薬師寺旧墓地にあった。


竹原屋(高橋氏)・・・・高橋西山家とは同族。この一族の古い墓地は今津・善性寺本堂裏。






吉和屋亀田家


鰯屋小林と関係ありか?  有力商人たちは藩主への献金の見返りとしてほとんど名字帯刀を与えられていたか。小林の祖先は竹原の鰯屋利兵衛とある。






眼下に丸山家住宅。いまもむかしも借家経営花盛り、このとおり過剰供給に拍車をかけるように中高層マンションばかりが目立つ。


大平山の向こうに本郷奥山の山並み



近世後半~明治初年の墓は半ば無縁墓地化の様相。坂道が急で高齢者にはお墓参りは相当困難だろなと感じた。
ここへはいままでに何度か訪れているが今回も収穫の多い半日旅立った。


関連記事

西町に根を張った入江屋石井系の墓地

【参考】


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ヤフオクに「諏訪八勝図詩(1838)」

2016年12月13日 | 断想および雑談

こんなものがヤフオク市場には出てきているらしい。応札者が18人だから収集家は沢山いる感じだ。諏訪八勝  関連記事


2年前長野県古本市に出品されていたもの。これを扱った茅野市の古書店の話では生まれて初めて扱ったとのことだった。復刻版があるのでまたいつか出てくることだろう・・・探求開始5,6年経過した令和2年9月に復刻版を入手











令和4年11月23日古書店に登場(令和6年元旦には売却済)。
印刷状態はよい。蔵書印あり。わたしの持っている復刻版の元版。




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吾輩は武井節庵の墓守である。

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
こんな記事を目の当たりにすると武井節庵という人が少し気の毒になる。

実をいうと目下わたしは節庵墓の私設墓守だ。


武井節庵は頼山陽門下の大物漢学者森田節斎(1811-1868)の登場(山路機谷のもとに転がり込んできた関係)で出る幕をなくしたか。なんといっても長州藩の勤王志士たちは吉田松陰を介して森田節斎の孫弟子たちなのだから。そういう点でいえば江戸生活を体験した垢抜けした武井節庵だったが、故郷でも今津でも誰からも慕われないという面でやはりダメ人間だったのだろか(福山藩の江木鰐水は阪谷朗蘆宛ての手紙の中で武井を小馬鹿にしてた)。わたしには決してそうは思えないのだが・・・。お墓は没後7年目(墓誌には17年目に墓石を建立とあるが、これは弔い上げを念頭に置いた記述だろうか、正しくは7年目に墓石を立てている)に二人の弟子によって建てられたもの。2022年6月1日知ったことだが、武井節庵の伯父見龍(1781-1844)は江戸中期の勤王家で後年諏訪に定住した「天龍道人」こと渋川虚庵 の依頼で文化5(1808)年に「天龍道人碑碣銘」なるものを撰文(『諏訪史料叢書』の「天龍道人史料」のなかにも収録)。
参考)天龍道人碑碣銘の紹介文
高橋碧山の墓誌に武井の記述があった。節庵は高橋西山と交友があったので、息子碧山の教育を武井節庵(や北条晦堂(『松永町誌』に寺子屋の先生高橋氏の項目で言及)坂谷朗蘆)に委ねたのだろう。


この人は肉親からも備後の漢詩愛好家たちからも見捨てられた存在だったのだろうか。わたしは茅野市と武井父子が出した『諏訪八勝図詩』第二版の復刻版(昭和56年、限定300部・・・・116号を2020年9月15日東京の古書店より購入済み)を出した印刷屋(考古学者でもある武井幸重さん)にもこの辺の情報は提供済。あちらにはまったく武井節庵情報が不足しているということだった。
【メモ】山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店が”武井見龍一族と松島北渚”(204-207頁)の中で武井節庵について言及

墓石のサイズは尾道・慈観寺にある宇都宮龍山のものより大きめ。この地方の一番の大馬鹿(大墓)は山路機谷が生前に建てたもの。



なお、武井節庵墓の周辺には寛文~宝永といった近世前半の墓石がかなりあるが、それらは神村石井家(和田石井氏ヵ)とか沼隈町の枝広といった寺の創建に関わった大旦那筋のものだ。江戸前半期の石井清十郎墓(笠石付き墓石/石井清十郎は和田石井氏系、寛文ー元禄期の神村庄屋ヵ⇒『松永市本郷町誌』、316頁・・・石井清十郎は和田石井氏の公儀名⇔元禄13年検地帳記載の松永村槙島新涯の開発者=所有者”五左衞門”)はこの墓地で一番ジャンボ。話が横道にそれるようだが、この寺の西側河谷はかつて「西迫」(明治以後は字・東坂)という地字の場所だったが、この一角は中世の沼隈郡神村分の土地があったことが判っている。神村石井はそのことと何らかの関係があったのかどうか、いまのところ不明だ。参考までに石井右京進(松永石井家の祖・石井石見守清信の親族)の位牌か過去帳は今津蓮花寺にあるらしい(要確認・・・蓮花寺住職に確認をとったが無いとの回答だった)。






武井のお墓の手前、斜め奥の笠石付きの大きな墓は石井孫右衛門の墓だ。神村石井家の墓石は入江屋系のそれよりも100年ほど古い。この寺の創建に深くかかわった家なのだろう。舟形光背墓・板碑型墓石については今後注意して見て行きたい。参考までに言及しておくと福山藩主阿部家家中で戒名に院殿-大居士号を付された御仁の墓石(@福山実相寺)より、江戸中期の神村屋石井氏の墓石の方が大きい。ただしこちらの戒名は「院号なしの信士」止まり。


関連記事
『山路機谷先生傳--附森田節斎と平川鴨里』復刻版昭和60年(元版昭和8)が平川鴨里に対して薫陶を与えた先生筋の人間の一人として森田節斎夫妻、山路機谷らと並んで武井節庵に言及(105頁)。墓誌が126-127頁。
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史料紹介 小倉豊文校訂 『葛原勾当日記』

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
数か月前までネット上(藤沢市の渡内書店)で販売されていた。たしか¥4000。



いま私が知る限り、福山の児島書店(天満屋裏)で¥18000、アマゾンで¥32800。笑ってしまうくらいの高値で売り出されている。地元の公立図書館には禁帯出のものを含めかなりの冊数が所蔵されている。校訂者の小倉は広島大学の先生だった御仁。精魂(ご当人は80歳の老体に鞭打ちつつ全身全霊を)傾けて取り組んだ感じで社会史研究の史料として使えそうだ。
江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。


凡例の一部


目次の一部(本文註・補註は小倉豊文の研究成果で、有用・・・・ただし、率直に言って内容的には遣り残し多々という意味では不徹底さ・手抜きも・・・・・・まあ、そう考えるよりも少年時代から、葛原しげるによる特別の薫陶を受けてこられた小倉氏は後学のものに多くの課題を残されたと解して感謝するというのがよいのだろうと思う。)   

記述はこんな感じ・・角倉志朗『禅道探究日録』の最晩年の記述がこんな感じ。松永村の高須屋とは麻生吉兵衛家のこと(下之町に別荘)。天保期には高須屋を稽古場として使っている。黒鉄屋とは福山・深津の藤井与一右衛門家のことだろう。文字通りのお稽古日誌。しかし、なかなか・・・・・・


勾当の愚痴まじりのユーモアーこの頃の文面は珍しく豊かな感情表出


私としては邦楽の知識がないのが悔やまれるが、如何にこの史料を料理するか思案するのは実に楽しい。
弟子たちを演奏技術に応じて組(表組・裏組・中組・奥組・四季組・外組)に分け、それぞれ組別にいくつかの課題曲を練習させている。この辺は邦楽の楽曲に関する知識不足を補ってくれそう。

三吉傾山の大成館で漢学を学んだ三井勝治郎は其の後数学・英語をそれぞれ別個に塾経営をする先生のもとを訪れそこで学んでいる。高島平三郎の場合も同様であった。そういう意味においてここで紹介した葛原は良家の子女たちにお琴・三味線を教えるために備後・備中各地の会場(豪商・豪農の屋敷の一角)を使ってその土地土地の入門者たちに対して出稽古を行っていた訳だ。

出稽古先として松永・柳津・藤江が記載されている頁に付けた付箋 江戸時代は松永・高須屋が中心、明治期に入って件数は少ないが、松永岡本某、島屋(村上氏)おきく、入江屋石井(石井竹荘夫人が勾当の弟子)が出てくる。幕末期に柳津の西屋(干鰯商柳田氏)、藤江・岡本は山路機谷家だろうか、少々。


この日記には若干、社会史的出来事、一年を振り返った勾当の社会生活面での所感、安政元年に岡山県邑久郡尻海(牛窓の北に位置する港町)で受けた大地震とそのとき勾当らがとった津波に対する警戒行動、藩主が危篤の折に国中での歌舞音曲の禁止令、四国に渡海するときに、村上とはともに乗船したくないとの気持ちの吐露・風の神送りに鐘太鼓を鳴らすことが禁止されたとか、最近(安政六年)コロリが流行しているとの記述、慶應元年の記事として当時評判の漢学者・興譲館の坂谷朗蘆先生のことなどまことに興味深い。
朗蘆の死の報(明治14年正月)に接し、挽歌一首「散る花はまた咲く頃のあるものを春待つ甲斐の無きぞ悲しき」。勾当は朗蘆の事を老いらくの友だと感じていたようだ。
嘉永五年5月28日柳津で読んだ歌の一首「誠とは誠無きこそ誠にて,誠は仏の誠をぞ得る」というのは思索的だった勾当の一面を垣間見せるもの。
そのほか雨乞神事に3日3晩琴の演奏をさせられ、その暑さには往生したことなど、断片的ならが史料としてつかえそうな記述もあるし、母親の病死とその直後の父親の自殺(心臓下を短刀か何かで刺したもの・・・「切れものを取り出し、手業に心下を突き」と記述)。世相に関する盲人の感度、安政大地震の余震・雷に対する感じ方は盲人勾当の身体性を知る手掛かりが得られるだろう。
山本瀧之助『月と親』、大正14という著書(小冊子)があったが、この諺「月と親は何時もよきもの」を人が話すの聞いて歌を詠んでいる。嘉永5年当時の人たちにとってはポピュラーな諺(親は良い、月は宵とを掛けた一種の洒落を含んだもの)だったようだ。
ここから先は研究次元の話題になるので非公開

本日記については紀田順一郎『日記の虚実』、新潮選書、1988、9-24頁が取り上げている。アマゾンでは雑本扱い(価格1円)で入手できるが、まあ、文芸的過ぎて読んでも読まなくてもよい内容だ。


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元禄検地帳に見る今津村など近隣数ヶ村における郷倉屋敷・牢屋敷の立地点

2016年12月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『松永市本郷町誌』には郷蔵・牢屋の記述がある。それは御領・下土井石井家の近く、森下自転車店のところにあったとか。元禄検地帳には地字「市」に郷蔵屋敷と牢屋屋敷とを続けて記載している。


本郷温泉口付近(字・「山手いたやさこ」)に番所屋敷「いたや」は板屋佐藤武彦家の屋号起源ヵ

松永村では番所屋敷・牢屋敷・・・潮崎神社南、明神端・つるぎ下にあった。高札場が潮崎さんの前だから松永村の中心地をこれらの施設が形成していたことが判る。しかし、こういうケースばかりではない。


西村には「柳升」に番所屋敷、「長くろ」に郷蔵屋敷


東村の郷蔵屋敷と牢屋敷は検地帳の記載箇所から見て一つの場所にではなく地字・「岩崎」・「岩川」というところに別個に布置されていたようだ。後日確認調査をしてみよう。牢屋・郷蔵が村の地域的な中心地に立地したとかいなかったりとかいったことはケース・バイ・ケース。個々の事例に即してみていくことが大切だ。


今津村の牢屋敷と郷蔵屋敷は蓮花寺(境内は3畝15歩の屋敷と周辺の上畑、および除地扱いの阿弥陀堂から構成されていた)と共に地字「西ノ坂」に立地。ここは現在では町外れだが元禄期にはそうではなかったことが判る。


高須村には「まえ」の郷蔵屋敷、「坊示うね」の番所役所+附属畑。いずれも高須村検地帳の第一分冊に記載されている。


メモ)数詞区小地名をもつ神村の場合、松永境にある確か神村第八区が「郷蔵」という。松永町東町上ノ町の北隣にある万福寺一帯がそれにあたる。

「きょうめん」は京免だろうか。郷蔵の規模はかなり大きい。近所にはかなりジャンボな「千右衛門」屋敷があった。
  

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今津町の「土手」と「柳町」

2016年12月07日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津町・土手 合原醤油店(販売)・・・・坂本屋村上さん(醤油醸造)のところに残っていた醤油壺


川本酒店(屋号「あぶらや」)に残っていた佐野酒店(吾妻橋東詰にかつて立地)の清酒壺に「今津・柳町」。柳町の呼称は字地名「柳ノ内」起源らしい。吾妻橋東詰め経由での鞆往還の入り口部分が「柳町」。明治・野取帳では村上重右衛門所有地だった場所。



赤丸・青マークは合原姓住宅。図中の「土手」は便宜的に注記したもので、「今津町 土手」が含意したものとは異なる可能性があり、要確認。


これら2店舗の場所の特定は他日を期す。屋号についても九州往還・鞆往還筋の旧家のそれに関しては悉皆的に調べ上げる必要がある。
麻生酒場を経営した麻生唯右衛門、岡田熊太郎(呉服の広田屋)辺りまでの坂道添いの町家地区を柳町といった。

この住宅地図は河本基一家資料ではなく河本英三郎家資料。各種地方史料と校合してみたが誤りが多く、ここでは区域を限って便宜的に引用した。



大正期の今津町・土手(部分)。吾妻橋東詰めに当たる。



最近見つけた古地図。明治地租改正事業の中で作成された野取帳と対応するが、松永村の末広町分の記載もある。旧石井保次郎所有地(旧島田薬局~福田嘉三郎経営の旧衣料品店「まねき」)


山陽鉄道会社の松永駅開業後町場化が促進されたわけだが、当時の土手部分を除く一帯の土地所有は平櫛又四郎、平櫛小兵衛(426番地only)、石井保次郎によるものだった。この辺の事情(地代収入および不動産売却益面での、地主側の増収増益願望)は田畑の宅地転用を円滑に進め、商業者の来住に対してプラス側に作用したと思われる。この点で一般の自作農の場合は、吾妻橋東詰め以東の西国街道筋において町場化がみられなかったことからも判るように、田畑に対する家産意識の大きさが作用して、当該鞆往還沿いの町場形成に必要な土地の売却、田畑の宅地転用はもっと難航したはず。

明治期の鞆往還・・・神村の「げんこうさん(石井病院)」前経由で松永東町に至る道路と今津・柳町経由で松永東町に至る道路の2系統があった。前者が本来の鞆往還。

明治30年正式2万


大正3年沼隈郡明細全図

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