- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

カメラ片手にブラブラ

2017年02月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


「君の発音はアメリカ南部訛りがあるね」といっていた高一時代の英語教師永井◇彦先生とおぼしき老人発見。
わたしの現在の細やかな英語力は大学受験時代に通信の英語添削の先生(北海道大学の学生)に煽てられたのが契機となり、主として大学に入ってから今日までに身に着けたものだ。長江一丁目界隈に来ると、私自身不思議だな~と感じることなのだが、高校時代の恩師(慈観寺住職で数学の河野先生)からいろいろ感化を受けていたことを実感出来る。

高校時代の同級生:本◇正子(つくだ煮屋 本多里治商店の娘)の消息も今回分かった。














今津屋村上は徳三郎名なので長波・長庵あたりの村上徳〇〇系となんか関係がありそう。




写真に写っている範囲の最奥の山にはほぼチャリで上った感じだ。






スカートをはいた母校の後輩と勝手にチャリで競走してみたが、赤信号をクリアーする技術(頭脳的プレイ)の差で、結局追いつくことはなくやく1.5キロの区間で200メートル以上離されて、結局当方の完敗に終わった。
コメント

福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4

2017年02月23日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
どうしてこんな本をといった感じの書籍を出版した洛陽堂。経営者の嫁:河本テルが日本赤十字の看護婦時代に新聞記者の作り話よりも、現実を体験したその人の原稿を活字化したもののほうがよいといった意味のことを語っているが、この本もそういう当時の洛陽堂の方針とは矛盾をしないものだ。
序文は当時家庭教育問題について積極的に発言をしていた高島平三郎。高島は序文の中でよりよい子弟教育には子供のベビーシッターとか家族の一員でもある女中さんたち(教育機会に恵まれなかった女たちor無学な女たち)の修養/教育が欠かせないと述べている。
著者福鎌恒子と高島との関係は日本女子大での師弟関係か否か・・・・いまのところ未確認だ。

内務官僚岡村の『児童保護の新研究』は当時としては画期的内容(西欧列強のあり方を取り入れた兵力と労働力確保という視点からの児童問題把握)を含んだ書籍。高島の『教育に応用したる児童研究』、元良・高島・永井『児童学要綱』は当時の児童学研究の完成形を示すもので、元良ー高島がその中心にあり、彼らによる児童研究が心理学と医学との共同作業を志向していたことを示す。医学関係者には広島県出身者が多かった。
山本の『一日一善』はベストセラー本。
当時の洛陽堂は雑誌「白樺」の刊行など大正デモクラシーの時代を担う出版社へと驀進をし始めた時期に当たるが、玩具・子供服・遊園地・童謡など子供を取り巻く商業文化の興隆の中心の一角を高島児童学は占めていたし、洛陽堂は時流をうまくとらえ、なおかつ内務官僚をライターに起用するなど国策に沿った書籍を刊行していた。


袖珍本だ。


福鎌恒子が今日注目されるのは関東大震災の時に朝鮮人暴徒のうわさが広がり、横浜において地域住民らによって朝鮮人虐殺が行われた、その目撃談を以下のような形で『横浜地方裁判所震災略記』、112‐125頁に記述した点においてだ。





「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌文也検事正代理夫人・福鎌恒子・・・・福鎌は横浜地裁の「検事」であった夫君を関東大震災で失っている)。
横浜市震災誌

当時、素人ライターの原稿をずるずると出版した洛陽堂。こうした二匹目のドジョウ狙いは洛陽堂の経営状態にあまりプラスには作用しなかっただろ。気のせいか、わたしには当時の有名学者高島の著書や高島の息のかかった人物たちの書籍がやや目立ち過ぎかなぁと思える。
一度パチンコに勝つと味をしめて、次も勝てる、連敗しても、また勝てると思う種類(認識の違いに由来するタイプ)の誤解のことを認知論的誤謬というが、ある新人画家(竹久夢二)の画集で大もうけしたが河本亀之助の頭から離れなかったことが素人ライターの原稿をずるずると出版した背景にはあったのかなぁ~
下澤瑞世『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45

福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4の読解は後日機会を見ておこなう。

コメント

松永史談会2月例会

2017年02月10日 | 松永史談会関係 告知板
本庄重政による本郷川左岸の新田開発(17世紀後半期)の手法はいろいろ予期せざる環境問題を惹起するなど問題もあったが、それ自体としては当時の先進的な技術を取り入れたものであった。ただ、かつての沼隈郡松永村周辺の村々は本庄重政の新田開発によって多くのものを得ることが出来たが、同時に失うものも相当大きかった。



石井亮吉『松永塩業史・文化史の研究』、昭和48によると沼隈郡松永村発足時、庄屋には高須屋(麻生)治右衛門、宿老には島屋(村上)吉大夫を充て、塩田43浜(寛延4、1751)のうち、その所在地別所有者割合が、尾道:17、竹原:13、三原:1、沼隈郡内:12(藤江山路氏、東村石井氏、西村出身の旧水野家家臣・仲屋井手氏、沼隈町出身で西村井上氏とも関係の深かった大木屋岡本氏など)であったとしている。これらのことは本庄重政らの時代に始まる藩領経営のための新たな基盤造りが芸備一円から広く資本と人材とを確保するという形で行われたことを物語っていよう。

石井亮吉は石井友三郎の息子。




2月18日午前10時 雨天決行、黒川さん宅前に集合.、解散13時予定
本庄重政が手掛けた初期の干拓事業地:槙村新涯・神村新開、羽原川筋の潮汐限界点、千間悪水の取水口、
神村町郷倉、▽福寺墓地(本多藤橘・岡本織之助墓地)、上ノ町〇〇寺にて神像/仏像(木彫品)の鑑賞/拝観及び同墓地:高須屋麻生家・田島屋村上家墓地・東屋喜三次墓、松永剣大明神(中世のつる木浦界隈)、運河としての町裏川の痕跡確認を行う。

〇〇寺での拝観は12時より。

コメント