- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

洛陽堂刊の美術全集といえば・・・・

2017年06月30日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
雑誌「白樺」は高級雑誌の典型だが、この洛陽堂刊の美術全集「泰西の絵画及び彫刻」全9巻も当時としてはとてもハイセンスなものだったはず。サイズこそ菊版だが、体裁的にはいまでいう画集。


絵画編4の函の絵はフォゲラー「夏の夕べ」


大正5年刊の本としては珍しくカラー図版。『沼隈郡誌』が刊行されるだいぶ前に出された本だが、最先端の印刷技術をこの全集にいちはやく取り入れた感じ。



有名なクリムト(1862-1918)「ユーディト」(1901)


「前川蔵書之印」

1918年だからクリムトの方は大正8年没ではなかった。

現在入手しようとするとこんな保存状態のものになる。小泉鐡(まがね)が図版提供などに大きく寄与していた。


このシリーズの由来については田中英夫『河本亀之助小伝』417-421㌻が詳しい。田中氏の説明によれば、売れ残った雑誌「白樺」から図版だけを外し、武者小路たちには無断で再編集し、それを河本亀之助編と言う形で刊行したものだったらしい。
先ほどまで雑誌「白樺」は良書だと思ってきたが・・・・・・。
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「飽薇」に登場する大正14-15年当時の高島平三郎

2017年06月29日 | 高島平三郎研究
明治期に復活する京都の豊国神社と豊国祭(豊臣秀吉の慰霊施設とその関連行事)には旧広島藩主浅野氏が大きくかかわっていたことが判る。

陣屋町・備中足守藩主の木下氏もそうだ。(参考までに、浅野・木下の両家は関ヶ原合戦後もお家取り潰しとならなかった秀吉ゆかりの家筋。徳川時代は京都の方広寺は幕府から言いがかりを付けられ潰され、豊国神社及び京都駅の東側に位置する阿弥陀寺山山頂の秀吉墓(豊国廟)も同様の措置がとられていたが、方広寺以外は明治維新後旧広島藩主浅野氏らは中心となって京の地にその再興が図られた。)
丸山鶴吉の口利きが成功したと丸山自身は書いていたが、阿部家の老家令岡田吉顯を動かして誠之舎舎長になった高島平三郎の消息が伝えられている。旧福山藩領内出身の学生たちのために二十年間以上も舎監として高島夫妻は献身した。


広田理太郎といえば加藤タキの祖父。小田勝太郎は加納治五郎門下の柔道家で誠之館中学で教鞭をとった人だが、高島とは幼馴染だったようだ。 宗教者(高野山大学)融道玄の実兄。沼隈郡高須村出身の医師(法医学専攻)三島粛(肅)三の名前もある。阿部正直は旧藩主の息子で丸山鶴吉が一時家庭教師をつとめた。蛇足ながら、阿部正直が持っていた渡辺修次郎『阿部正弘事蹟』、1910は現在私の手元にある。
誠之舎記念祭はいろいろ余興に工夫が凝らされていたようだ。小此木為二という名前を見かけたのでちょっとgoogleしてみたら東京商大(専門部)教授(商業英語)だったようだ。丸山鶴吉や三島粛三と同じ年ごろの人物だった。逐一調べていけば旧福山藩領出身の当時のエスタブリシュメントたちの生き方が判ってくるかも。

神田駿河台カフェブラジル・・・・沼隈郡神村出身の名方担一経営。


高島は小田勝太郎『阿部正弘公』を摂政宮に献上することを助言している。高島は学習院幼稚舎・初等部の教員時代に華族の人たちとのコネを得たようだ。二荒伯爵(旧宇和島藩主伊達宗徳の九男)とは、少年団(ボーイスカウト)日本連盟等(総長は後藤新平)を通じても昵懇だった。後藤新平と広田理太郎は親戚。丸山鶴吉などは後藤新平(朝鮮総督斎藤実とは幼馴染)の世話になった。後藤の女婿が鶴見祐輔で鶴見は丸山と昵懇だった。高島は高松宮妃の花嫁教育に参画している。


高島の外遊壮行会を兼ねた飽薇同好社集会・・・・参加者の中に作田高太郎も。旧広島藩重臣小鷹狩翁はペギー葉山の曽祖父。挨拶は花井卓蔵。花井と高島とは共に長谷川櫻南の門下。高島の長男文雄(明治28生)は東京帝大出身の弁護士になるがもしかすると大物弁護士花井の影響があったかも

高島の教育家としての生き方には首尾一貫したものが感じられる。ただ、かれの生きた時代は日清・日露から第二次世界大戦までと戦時教育への貢献が求められた。そういう意味では人一倍(良い意味での)忠君愛国思想に傾倒し、報国精神旺盛だった高島の人柄からみてまことに気の毒なことであった。高島を終生恩人とした東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)は東京帝大医科生理学教室の第二代目の教授だったが、「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」というの医道観を持ち出して「広島医学」誌上では自己の生き方を合理化したりしているが、東京帝大医科内部では「狭義の生理学者として最近堕落した研状態にある」という形で、自己批判を迫られていた。
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今秋予定の史料調査のためのあいさつ回りのついでに

2017年06月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
大久保・平櫛家の第9代目又策(1873‐1968) 隣は明治4年没(享年48歳)の第七世彦助清忠墓。又策の親父の墓が・・・・第8世善四郎忠則(1846-1910)。大久保平櫛家は2代にわたって津ノ郷村青景氏から養子を迎える。第六世は小左衛門忠友(1798-1879)、青景栄蔵4男。女系一族のようだ。「幕末期今津宿図(1866)」では「又四郎」とある。隣家は「民蔵」とあるが平櫛「民助」の可能性も。又四郎の件に関してはその当時の平櫛家のご当主なら彦助のはず。善四郎は当時弱冠20歳。又四郎・・・・。それはともかく墓地は今津・善性寺の傍だが、菩提寺は本郷・東蔵坊。参考までに過去帳に記載された「小左衛門」は今津村元禄検地帳には不在(だが、寛政期には今津村組頭、松永村元禄検地帳には「小左衞門」あり)。近似した名前としては東・東剣脇に屋敷と田畑を持った「小右衛門」と柳津在住で字宮ノ下に田畑をもった小右衛門がある。
松永・承天寺にある東屋小川家墓地の墓石にある今津・平櫛とはおそらく昔からの姻戚関係からみて大久保・平櫛家のことだろうと思う。


大久保・平櫛家は又策の6女(末娘、大正9年生まれ、またさく54歳の時の子供、苗字は嫁ぎ先の苗字:川上)が健在で、今のうちに史料調査を済ませておかないと・・・・。本家は都会から帰ってきた未亡人の姉郁子が次いで、今はその子孫がご当主。公儀名は小左衛門か善四郎(前者の可能性大)
。元禄検地帳記載の「善四郎」をこれまで大久保・平櫛家と考えてきたが・・・又策さん作成の「過去帳」を見るとそうなっていない。

770番地「平櫛又四郎」は確かに明治・野取帳に記載在り、幕末~明治初期にかけての大久保平櫛家のご当主

東蔵坊遠景。弘徳協会での史料調査依頼に訪問。ここはなかなか時間のかかるところの印象。


中学時代の恩師のお墓詣り・・この寺の第十五世住職だった。お寺(大法寺)の参道、境内、居住棟などすべてが新装されていた。ここは本郷の板屋佐藤家(江戸初期の庄屋)の菩提寺。本郷銅山の実質的経営を古志氏から任されていた家筋でないかとわたしが推定している佐藤武彦家。そういえば本郷町御領の南続き、安毛の「金堀下池」あたりの丘陵(尾根筋)に居住する佐藤喜左衛門家あたりが・・・・・。信原家も本郷銅山一帯に山林をもつ。


昨年7月のゲリラ豪雨で城山の山体の一部が崩落。これが大法寺の参道正面の風景だ。


大法寺から松永湾方面を見ると、戸崎あたりが丸見え。大宝寺の立地点は城山(古志氏の居城)の眼下という場所だがここからのこの眺望は何か意味がありそうだ。たぶん、昔のことだから風水地理を考えた寺の配置だろう。



本郷温泉峡入口にある佐藤武彦家と大法寺は関係が深いようだ。佐藤武彦家は千人坑一帯の山林地主。






楼門が新築されたようだが、伝承では本郷・城山から移築された古志氏山城の城門だったといわれるもの。
本郷城山周辺には昌源寺(尾道・渋谷家文書48号に沼隈郡神村「正源寺」供僧田の記述あり)に城主古志の供養塔があり、そしてこの寺の傳城門遺構あり、さらには前述のとおり浦崎半島の松永湾の入り口が見渡せる樹木を伐採後の大法寺山門前といい、学問的にはなんの根拠も示せないが、わくわくするような歴史小説的な筋書きが描ける歴史の現場がわたしの脳裏に去来する。


本郷・石井一族の共同墓地@清光寺(毛利氏が破却)境内。福島・毛利時代を通じて石井家の菩提寺である神村・本郷の真言宗寺院はいずれも破却されたようだ(尾道渋谷家文書中の「打渡坪付」の分析にを通じて毛利氏による天正惣国検地を契機としてその痕跡を確認済⇒文化財ふくやま誌59号、2024に小論考「天正19年12月27日沼隈郡神村打渡坪付からみた・・・」という形で論究済)。毛利氏は山陽道筋の沼隈郡神村・伊勢宮さんをおそらく沿道の守護神として指定したのだろうか、「新座伊勢・・」という名前で給地を与えていた。

清光寺境内の石井家墓地


石井家墓地からの眺め


土井屋石井氏の家門


土井川と土井屋石井屋敷、大平山周辺に2,3町歩の柿畑を経営


浄土真宗善性寺周辺に大久保平櫛家墓地を発見。古いお墓は整理されていて不在。小左衛門・善四郎などの名前を確認。ここでの収穫はこれだけ。


本日最大の収穫はこちら・・・この地方の墓地の配置と社寺建設時の大口寄進者との関係が少しわかりかけてきた。
機織屋岩井氏・竹原屋高橋氏は善性寺本堂裏に。竹原屋は本庄重政が塩田を造成したときに移住してきた製塩業者。大木屋岡本氏は神村・万福寺墓地。いずれも浄土真宗。高橋氏は竹原・尾道・浦崎に根を張っている印象だ。松永の形成に深く関わってもいる。



このずんぐりした太めの石柱墓は薬師寺墓地に一基ある(享保期の尾道屋の女房)。尾道屋は承天寺。

こちらは門人建立墓、機会があれば後日確認調査したい(調査済み・・『松永町誌』433頁記載の竹原屋高橋七左衞門維清の五男・高橋要平墓:ご本人は機織屋武井要助の女婿、子息は本家竹原屋高橋壽介=高橋西山の養子=高橋碧山、武井節庵の教え子)。墓石は神村萬福寺から現在地に移動したもの。


今津・善性寺門徒
村上憲平は竹本屋村上氏、もと高校校長。


史料調査の方は今秋ということで所蔵者の同意を得た。


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松永史談会7月例会のご案内(第一報)

2017年06月12日 | 松永史談会関係 告知板
日時:7月10日(月曜日)、午前10-12
場所:喫茶「蔵」本宅or2階
論題:歴史・民俗面から「葛原勾当日記」を読み解く

この日記は江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。
校訂者小倉豊文は広島文理科大学助教授時代に被爆し、唯一生き残り戦後教室の再建に尽力された方。専門は歴史・文学。少年時代に葛原しげる(箏曲家宮城道雄の支援者)から感化を受けた人物で、人生最後の大仕事として齢80歳前後のころ全身全霊を傾けながら校訂作業に取り組んだと記している。巻末の地名・用語解説など有用(印象では研究次元の問題としてはかなりやり残しというか後学のものにゆだねられた課題山積)だ。
記述の中心はお稽古日誌そのものだが、そのおりおりのエピソードなど短歌なども織り交ぜながら独特の言葉使いでメモされている。
緑地社(休業状態)、1980年刊だがここにまだ新本在庫(出版社の話では新本・美本が100冊、経年劣化状態の新本50冊程度在庫あり)がある。



参考文献:例えば『日記で読む日本史』 全20巻
葛原勾当の「誠」(国語的な意味では”自他ともに偽らない純真な心”)については和歌を詠んでいるが、福山藩内に流通した「誠」概念理解の一助のため参考文献を付す。
大橋健二『良心と至誠の精神史-日本陽明学の近現代-』、勉誠社、1999、318頁。
大橋健二『日本陽明学、奇蹟の系譜』、叢文社、2006、445頁。

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松永史談会6月例会のご案内

2017年06月01日 | 松永史談会関係 告知板
6月12日 午前10-12、喫茶店「蔵」2階

論題:史料批判の方法ー地図資料学への誘いー
史料批判は史料に含まれる虚偽の見極め真偽を腑分けする上で必要不可欠な作業だ。fake情報が含まれていてもそれが社会的な承認をうけ効力を発揮したことも枚挙にいとまのないところだが、その辺の一般的な偽文書論は下記の書籍に委ねるとしてここでは郷土史関係の一枚の古地図(差図)をめぐって話題提供をしてみたい。



幕末期今津宿町割図(仮称・・・・内容としては今津宿内での家別止宿者数割当図)、◇は問屋場(無記載)

記載事項の明治26年沼隈郡今津村測量図上での比定


主な記載事項の現地比定(◆は問屋場・・・参考)


問屋場一帯の今


【要旨】
今回取り上げた古地図の作成年次と作成目的については結論的にいえば、作成年は慶応2(1866)年2-6月段階、作成目的は福山藩(あるいは神辺本陣)から問い合わせのあった、第二次長州戦争時における幕府軍の今津宿における兵員止宿能力を報告した文書の付図(図面自体は神辺本陣に伝来)である。例会ではそのように判断される理由と本地図が内包する今津村側メッセージ(or社会的論理)を中心に論じ、これが有する幕末期における今津宿の研究上の史料的価値についても言及する予定だ。

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