- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

村上育郎「温古(故) 5、”河本亀之助追悼録”の紹介(1)」、松韻10号、1990

2013年05月29日 | 教養(Culture)
村上育郎「温故 5、”河本亀之助追悼録”の紹介(1)」、松韻10号、1990
については著作面での許諾が取れた場合についてだけ後日全文公開するほうが良いと思うが、もっかのところその予定は未定だ。昨日育郎(大正12年生)の夫人(昭和12年生)に電話したが、この件には触れなかった。
目新しいのは河本亀之助の養女・猪瀬房江(現在=おそらく1990現在83歳)が昭和61年に河本家(千代子、故人)に宛てた書簡の一部が紹介されているところとこれまで知られてなかった東京沼隈会の例会での記念写真だ。写真の持ち主村上薫は当時第一高等学校への合格率が高かった郁文館の経営者・棚橋家の書生をしながら東京商科大学を出て、三井物産に勤務をした人物である。河本亀之助の自信たっぷりな姿勢が印象的だ。
亀之助は明治20年代に東京に出て明治30年ごろには国光社の印刷部門のトップに登りつめていたので、やはり肝の据わった出来る男だったのだ。そういうところがこの集合写真から何となく感じらてくる。
洛陽堂が絶頂期にあった明治42年~大正3年ころの撮影だろうか。村上育郎の説明では明治から大正に代わる頃の写真とのことだ。

著者は河本家と姻戚関係のある医師(大正12年、父親村上薫の任地シアトルにて生まれ、岡山医大卒、長らく商船・船医、昭和45頃より開業、人生の半分近くは世界中を移動してきた人だが、平成20年没)。わたしは村上育郎の書いた文章は若干しか目を通していないのだが、福山の「北杜夫」といえる存在だったかどうか、ちょっと見定めたい気持ちでいっぱいだ。奥さんにはそのことは通知してある。
育郎は岡山大学の医局に残り、医学者の道を目指していたが、家庭の事情(親類「ヒナギク」が倒産し、その時に背負った借金返済のために当時高給が保障されていた)で船医になったようだ。彼は医師会の会長にはなっておらず、昭和45年に開業した医院も、自宅(この地方では豪邸)近くに立てた鴨長明の方丈庵の感覚でこじんまりした佇まい(田舎の診療所風)のものであった。映画監督大林宣彦の祖父(この地方では名士)の病院もたぶんそのようなものだったろう。
その村上育郎が明治前半期の河本英三郎、昭和前半期の矢野天哉に続く地元の「郷土史家(博物学者)」といえる存在かどうか、いまからその見極め作業が楽しみだ。

猪瀬房江さんの書簡の現物とそのご子孫については後日河本(千代子)さん方に問い合わせして見たい。ただ、千代子宅は一度火災にあっていて、先般伺ったところでは代も変わり現在はお付き合いは無いとのことだった。

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夢二画集

2013年05月14日 | 教養(Culture)
夢二画集

国会図書館のデジタル化資料は以下の通り

1 info:ndljp/pid/851910 夢二画集. 春の巻 図書
竹久夢二 画 (洛陽堂, 1911)

2 info:ndljp/pid/851911 夢二画集. 夏の巻 図書
竹久夢二 画 (洛陽堂, 1911)

3 info:ndljp/pid/851912 夢二画集. 秋の巻 図書
竹久夢二 画 (洛陽堂, 1911)

4 info:ndljp/pid/851913 夢二画集. 冬の巻 図書
竹久夢二 画 (洛陽堂, 1911)

大正3年に縮刷版・夢二画集が出版される。これには洛陽堂から出された初版と再版と、版権が他社に譲渡された後に出された三英堂版/蜻蛉館書店/若月書店などがあるようだ。洛陽堂・再版において夢二いわく、初版は複数の彫刻家が自分の原画を木版化したけれど、自分の意図とはちょっと違うので、一部画像の順番などを入れ替え、自分の意図に近付けるために再版を出したと断っている。

蜻蛉館書店・初版はこんな感じだ。大正6年、作家宇野浩二は26歳のとき生活に窮したため東京神田錦町の出版社蜻蛉館(社長・加藤好造)に「水上潔」の変名で勤務し、文芸雑誌「処女文壇」を編集。したがって宇野が大正5、6年ころ「縮刷・夢二画集」の版権が洛陽堂から蜻蛉館書店に譲渡された裏事情を聞き知っていた可能性もある。








復刻版(ほるぷ出版)は残念ながら洛陽堂・初版を使っている。
復刻版は製紙段階に紙に入った縦の筋を生かさず、横筋状態で印刷している点と、コントラストを強調気味の写真印刷のため、元版に見られる絵像の微妙な細部がことごとく潰れてしまっており、概ね不良である。





シミは無い。




復刻版では夢二版画のよさが微妙に損なわれている.この画文は「夢二画集・夏の巻」から。
これは俳画集でもないし、一コマ漫画集でもないし、新感覚の絵本?




わたしが入手した再版は「背」の部分にわずかながら破れがあるが全体としては状態がよかった。扉絵に朱色で竹久の「久」の字が丸久マークで入っている。游古洞の女主人の話では鎌倉に住んでいた「外山賢三」(画家)の旧蔵書らしい。

游古洞・女主人の増田多賀子さんwrote
「この方は一応画家だったらしく(大成はしなかったようです)、ずっと以前に板絵の油彩画をたくさん買ったことがあって、その時この方は明治の学者で東大総長でもあった外山正一の子供だか親戚だかということを聞いたのが記憶に残っていて、この本はその時買ったものではありませんが、字体をみてすぐわかりました。」

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赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年

2013年05月14日 | 教養(Culture)
赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年


東京の古書店で善本を入手した。長期間の積読状態を暗示するように糸綴じ部分などは相当くたびれている感じ。


赤木は最初の夏目漱石論(「評伝・夏目漱石」大正6年、新潮社)を上梓した人物として知られる。

この本を出版した後、雑誌「白樺」は諸般の事情から東京洛陽堂から撤退する。
放蕩文学撲滅論は良家の不良息子集団にはちょっとこたえたかな?!
それとも健康上の理由とか、経営面での苦境がそれを難しくしたか。
志賀直哉の日記を読んだが、かれの日記の話題の乏しさと、世間とは没交渉な話題満載で、その無味乾燥なこと
にはたまげたが、まあ、志賀の性格も大いに関係するところだろうが、小説家志望というのはそういう生活と精神状態の中で創作活動をするのだろうか?!

高島「教育に応用したる児童研究」、大正6年版を見ると発行者が「河本俊三」、大正8年版は亀之助と一時発行者が後退しているので、雑誌「白樺」から手を引いた時期には河本亀之助経営の洛陽堂をめぐって何か異変があったようだ。

この中で赤木は白樺派に対してその将来性に期待をしているが、文学的な技巧面で稚拙だと述べている。志賀直哉の「留女」などは放蕩生活の一端を綴ったものだが、放蕩文学撲滅論を展開した赤木が、志賀の作家としての将来性には大いに期待すると・・・・。赤木は東京帝大中退の連中にはかなり筆鋒鋭い批判に後退が感じられる。


大正5,6年当時、雑誌「白樺」はかなり売れ残っていたようだが、『夢二画集』(縮刷版)の版権譲渡(大正5年に東京洛陽堂→三英堂)しており、これは経営方針の問題だったのだろうか、それとも資金繰りに困っての経営判断だったのだろうか。
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国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL-OPAC)で「洛陽堂」を検索する

2013年05月14日 | 教養(Culture)
国会図書館での蔵書検索→「洛陽堂」347件ヒット
利用登録なしに利用可能な「簡易検索」へ。ここからデジタル化された著作権キレの一部の書籍が閲覧できる。
国立国会図書館サーチで「洛陽堂」検索すると・・・・・1713件ヒット


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