大正3年福山学生会雑誌(編集責任者は葛原シゲル)が会員に郷土自慢アンケートを募集したときの記事を掲載していた。その中の高橋淡水からのものがあった。
それがこちら。
その前後に原稿の到着順のようだが高橋のつぎに山本瀧之助・村上純一郎(沼隈郡田島村出身のむらかみ君,旧制尾道商業⇒東京高等商業卒、三菱銀行、高島平三郎・長女百合子の婿)・井上角五郎(福澤諭吉門下の出世頭の一人)と続いている。
これを見て感じたことだが、近世史研究家でもあった高橋(史伝作家)、郷土松永については無駄口を叩くことなく旧跡と名勝:本庄重政を助けた郷侍島屋村上(尚政)、自宅跡に創建された本庄神社と本庄氏の菩提寺・承天寺、遺芳湾と湾頭の磯馴松/一本松(下図のαヵ)と簡潔。
著書の『旅行文学』(明治38年刊)では松永については名物の「焼塩」と薇松泉会を主宰した文化人・高橋圭介を紹介しただけだったのでそういう御仁だったのだろ。文章は一昔前の「候」文。
山本瀧之助は地元と全国各地とを往復する精力的な青年教育活動の中で、バラエティに富んだ地元の話題を紹介。なかなかの情報通ぶり。
高橋淡水に関する情報が福山学生会雑誌から入手できたことが昨日今日では最大の収穫。明日は淡水「本庄重政に就て」の後編の資料取り予定(⇒完了)。前編はこちら。淡水には『偉人と言行』、明治43という著書があり、この中で陽明学派(中江藤樹・熊沢蕃山や佐藤一斎)、古学派(山鹿素行)、朱子学派(貝原益軒)の生涯を小伝記という形式で紹介している位の御仁なので、この人の本庄重政著『自白法鑑』理解には少しく注目してみよう。
参考までにこのときの福原麟太郎(ペンネーム:麟生)の返答文
廣田精一は廣田理太郎の弟。
メモ:高橋淡水は『旅行文学』の中で河田羆に学んだと記述。
それがこちら。
その前後に原稿の到着順のようだが高橋のつぎに山本瀧之助・村上純一郎(沼隈郡田島村出身のむらかみ君,旧制尾道商業⇒東京高等商業卒、三菱銀行、高島平三郎・長女百合子の婿)・井上角五郎(福澤諭吉門下の出世頭の一人)と続いている。
これを見て感じたことだが、近世史研究家でもあった高橋(史伝作家)、郷土松永については無駄口を叩くことなく旧跡と名勝:本庄重政を助けた郷侍島屋村上(尚政)、自宅跡に創建された本庄神社と本庄氏の菩提寺・承天寺、遺芳湾と湾頭の磯馴松/一本松(下図のαヵ)と簡潔。
著書の『旅行文学』(明治38年刊)では松永については名物の「焼塩」と薇松泉会を主宰した文化人・高橋圭介を紹介しただけだったのでそういう御仁だったのだろ。文章は一昔前の「候」文。
山本瀧之助は地元と全国各地とを往復する精力的な青年教育活動の中で、バラエティに富んだ地元の話題を紹介。なかなかの情報通ぶり。
高橋淡水に関する情報が福山学生会雑誌から入手できたことが昨日今日では最大の収穫。明日は淡水「本庄重政に就て」の後編の資料取り予定(⇒完了)。前編はこちら。淡水には『偉人と言行』、明治43という著書があり、この中で陽明学派(中江藤樹・熊沢蕃山や佐藤一斎)、古学派(山鹿素行)、朱子学派(貝原益軒)の生涯を小伝記という形式で紹介している位の御仁なので、この人の本庄重政著『自白法鑑』理解には少しく注目してみよう。
参考までにこのときの福原麟太郎(ペンネーム:麟生)の返答文
廣田精一は廣田理太郎の弟。
メモ:高橋淡水は『旅行文学』の中で河田羆に学んだと記述。