- 松永史談会 -

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高橋淡水の郷土意識

2020年02月14日 | 断想および雑談
大正3年福山学生会雑誌(編集責任者は葛原シゲル)が会員に郷土自慢アンケートを募集したときの記事を掲載していた。その中の高橋淡水からのものがあった。
それがこちら

その前後に原稿の到着順のようだが高橋のつぎに山本瀧之助・村上純一郎(沼隈郡田島村出身のむらかみ君,旧制尾道商業⇒東京高等商業卒、三菱銀行、高島平三郎・長女百合子の婿)・井上角五郎(福澤諭吉門下の出世頭の一人)と続いている。
これを見て感じたことだが、近世史研究家でもあった高橋(史伝作家)、郷土松永については無駄口を叩くことなく旧跡と名勝:本庄重政を助けた郷侍島屋村上(尚政)、自宅跡に創建された本庄神社と本庄氏の菩提寺・承天寺遺芳湾湾頭の磯馴松/一本松(下図のαヵ)と簡潔。

著書の『旅行文学』(明治38年刊)では松永については名物の「焼塩」と薇松泉会を主宰した文化人・高橋圭介を紹介しただけだったのでそういう御仁だったのだろ。文章は一昔前の「候」文。
山本瀧之助は地元と全国各地とを往復する精力的な青年教育活動の中で、バラエティに富んだ地元の話題を紹介。なかなかの情報通ぶり。


高橋淡水に関する情報が福山学生会雑誌から入手できたことが昨日今日では最大の収穫。明日は淡水「本庄重政に就て」の後編の資料取り予定(⇒完了)。前編はこちら。淡水には『偉人と言行』、明治43という著書があり、この中で陽明学派(中江藤樹・熊沢蕃山や佐藤一斎)、古学派(山鹿素行)、朱子学派(貝原益軒)の生涯を小伝記という形式で紹介している位の御仁なので、この人の本庄重政著『自白法鑑』理解には少しく注目してみよう。

参考までにこのときの福原麟太郎(ペンネーム:麟生)の返答文











廣田精一は廣田理太郎の弟

メモ:高橋淡水は『旅行文学』の中で河田羆に学んだと記述。

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木島平治郎(1890-1970)による「高島平三郎先生の思い出」

2020年02月10日 | 高島平三郎研究




文中の高島家の家族写真とはこれ(母親の追悼録『涙痕』明治42口絵写真)を指すのであろう。

梅屋敷などについてはこのBLOGで詳しく紹介している通りだ。

木島平治郎は児童文学書などの翻訳を行った人物で1890年、京都に生まれ、三高時代に「海潮音」の著者、上田敏に師事。1917年、東京帝国大学英文化卒業。東京高等商船学校(後の東京商船大学)で十九年間教鞭をとった。高島の教え子で高島家に長く下宿していた。この文章は木島にとって高島平三郎(形ばかりの東洋大学第十三代学長)は生涯忘れえぬ人物であったことが感じられる寄稿文となっている。ここでは部分的引用紹介に留めたが、興味のある方は全文を探し出し読んでみて欲しい。

高島平三郎という人はアカデミックな分野での児童学・心理学の推進者というだけでなく、その理論を教育実践の中にリンクさせていくことにも腐心し、人間教育における知育、徳育及び体育の必要性に自覚であった我が国最初の教育者であった。体育教育面では体育原理 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)という古典を執筆。そういう角度からこの人にフォーカスして行ける若手研究者の登場が待たれる。

 

 

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