福山市今津町薬師寺本堂裏西側墓地に門弟の豪農石井四郎三郎(松永村)&石井藤七(東村)によって建立された墓石がある。
江戸に天保7(1836)年当時現存した諸家564名を姓のイロハごとに分類し、分野、住所、出身地などを記しているのが西邨[宗七] 編『広益諸家人名録』天保7(1836) 金花堂須原屋佐助発行
この史料の中に武井節庵の名前を見つけた。しかし、その彼は梁川星巌の玉池吟社に出入りしながらも大沼枕山のような星巌門下の三羽カラズでもなく、河野鉄兜や江木鰐水そして阪谷朗蘆と接点を持ちながら、武井は密かに”よそ者扱い”をうけていた。しかも、藤江・森田節齊の推敲塾の立ち上げには山路機谷側のスタッフとして縁の下の力持ち的な役割を果たしながら、山路機谷や五十川訒堂のように森田の師友門下生リストに名を連ねることもなかった。
武井節庵の漢詩の先生:菊池五山はお稽古礼金の額の大小によって漢詩評論本『五山堂詩話』中で手心を加えていたらしく、節庵の親父も『諏訪八勝図詩』がそうであったように、息子を早い段階から有名詩人として世に出すためにいろいろと画策していたように思われる。私的にやや意地悪く云えばそういう事の成果として吉田霊鳳とその息子2人が『広益諸家人名録』天保7年版&天保13年版へ掲載されたという気がしないでもない。
それがこちら↓
漢詩:武井雪庵(蘭之助、節庵、養浩堂)@麹町貝坂・・・・なんと~節庵(雪庵)15歳(なんとも不自然!)、詩は菊池五山、大窪詩仏に学び鬼才といわれたと。有名知識人録に名を連ねた元服年齢に達したばかりの少年・武井雪庵(1821-1859)。これはその後の彼の人格形成にどのように作用していったのだろ。明治の三詩人といえば小野湖山・大沼枕山・鱸松塘。晩年の節庵は若い頃からの漢詩人仲間だったこれらの人との関係も絶っていたか。
天保13年版、武井節庵22歳
『節庵詩集初編』
漢詩:高島藩士吉田霊鳳(吉田豊八、1786-1836)@芝将監橋・・・・・・武井節庵の実父(50歳で没)、『諏訪史概説』によると霊鳳は17歳の享和3(1803)年に江戸に出たと。経学を山本北山、詩を大窪詩仏に学んだようだ。蛇足ながら節庵(武井霊鳳の次男)には吉田(奫)大淵と言う弟,吉田加藤太という兄貴がいた。
武井節庵の親父武井士廉(吉田霊鳳)が仲の良かった兄貴(長兄)の武井見竜 (寛、田疇斎)の漢詩集「田疇斎遺稿」の校訂を行っていた。
「田疇斎遺稿」は明治23年に至って、見竜の孫:武井一郎が叔父の岩本士善と相談の上再校訂し、出版されている。それがこちら。なお、孫の一郎の幼少期(弘化元年、1844)に祖父見竜は没しているので、一郎の出生は天保期だったことが判る(この書籍の余白に諏訪郡湖南小学校校長山田茂保さんの談話として。一郎は長野在住時に強盗に殺害されたとメモ書きされている)。
武井節庵の知人大沼枕山
大沼又蔵(枕山)@下谷和泉橋通・・・・天保13年段階には枕山の住所は芝山内だから、この住所は天保7年段階の旧住所だったということになろう。これは旧知の友・武井節庵から出てきた情報だったことを強く伺わせる。
梁川星巌@上野於玉ヶ池
武井節庵(王三畏/武井葆真)が藤江の豪農山路機谷屋敷逗留時代に残した足跡(『未開牡丹詩』安政3 [1856] 刊の編纂作業、おそらくその名目上はともかく実質的中心は山路伯美=機谷本人ではなく武井節庵だったろう)
頼山陽の故郷でもある西国巡歴を始め、最終的に藤江村の山路機谷のところに転がり込む訳だが、江木鰐水が坂谷朗蘆に当てた手紙の中では都会育ちだが、昌平黌出身者でなかった武井はまったく信用の於けない取るに足らない人物(=同志とは扱えない人物)として分類され、武井は幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした輪から完全に外され、(多分に江木の性格にもよるのだろうが、)時として江木による失笑・苦笑の対象にすらされていた(『朗廬先生宛諸氏書簡集』山下五樹、1994)。どうしてそういうことになったのかは謎だが・・・、同時期に山路屋敷に居候していた河野鉄兜と違い武井には江木らにとって人物評価基準(例えば勤王家森田節斎は四書をすべて暗唱した素晴らしい学者だと江木は大絶賛)面で何か不十分なところでもあったのだろうか。あまりに気の毒なので少し武井を弁護しておくと、彼のルーツを考えた場合伯父武井見竜(1781-1844)が人生の後半期を信州国諏訪に「隠遁」していた肥前国の小藩鹿島藩(2万石)の家老坂部堅忠の息子(享保16年に坂部家改易のため浪人となった坂部忠廉(堅忠)の四男:貫之、出家して未了を名乗り、50歳代至り還俗して「天龍道人」を名乗る。未了時代には「国事に奔走し身危うくして踪跡を失し世その死所を知らず。年齢50左右にして諏訪に現れ(還俗して)姓王名瑾」を名乗り、天龍道人、渋川虚庵とも称す。この御仁がすなわち「貫之なることは明治年間に至り」、自身の祖父武井見龍『田疇斎遺稿』の校訂作業や見龍撰文「天龍道人碑碣銘」の考証作業を通して知ることを得た。武井一郎『天龍道人事迹考』大正5年、16頁、諏訪郡渋川氏系図参照)にして江戸中期の尊皇家渋川虚庵(1718-1809)→一説によると竹内式部,山県大弐(だいに)の宝暦・明和事件に関係した御仁(要確認)(通称「天竜道人」)の門下生であったし、その見龍亡き後、節庵は江戸を引き払い一時的に諏訪に帰省。それからほとんど間を置かない形で西国巡歴に出奔。そういう行動をした背景にはある種の故郷喪失-Heimatlos(例えば伯父や実父の死が惹起した類の故郷喪失)と云った類いの感情もあっただろうが,それ以上に尊皇の志という伯父一族(諏訪郡豊田村小川在住・武井家本家)ゆずりのやむにやまれぬ思いというか、パトスのようなものにつきうごかされるといった部分が26歳時の節庵にはあったようだ(『諏訪史概説』の著者山田茂保は武井家の言い伝えとしてそういう意味の話を紹介している)。ただ、山路機谷のもとに転がり込んだ後亡くなるまでの間における武井自身の生き方の中に"国事に奔走"したと言える部分が有ったのか、それとも無かったのか・・・。
江木は坂谷にあてた書簡中において「武井君は収入を得るために倉敷に行くんだって!」風に記述していたが、それは頼山陽風にいえば紙と筆一本をもって「行商」(頼山陽の主たる収入源は書/画を描いて得た礼金だった////徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』、1932、民友社、56頁)にいくことを示唆したものであったのだろう。
武井節庵墓(広島県福山市今津町薬師寺本堂裏墓地)
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武井一郎『天龍道人事迹考』については松尾和義『柳子新論と天龍道人事迹考』、2021年、99-192頁参照のこと。
なお、当該の『天龍道人事迹考』は天竜道人に対し流離した貴種のイメージを重ねる形で脚色された「渋川貫之」譚を念頭にそのbiographyをやや偉人化しつつ、潤色気味に再構成(テキスト・クリティークは必須)。例えば先祖の説明に鹿ケ谷の変において平清盛によって吉備中山に配流された大納言藤原忠親を登場させ、忠親の人生と天竜道人のそれとをさりげなくタブらせるといったことをしている。また、天竜道人自身が鹿島藩主の相続争いに巻き込まれたとか巻き込まれなかったとか、新藩主の徳川将軍への謁見が遅れその責任を被らされる形でお家改易になったとか、そういう芝居じみたプロットを含む部分のあることなどを念頭に置きながら、テクストとしての『天龍道人事迹考』を慎重に眺めていく必要ありそう。ただ、私的には武井節庵研究においてはこういう天竜道人に関する記述部分はノイズ(無用な情報)としてカットしていく。
『豊田村誌・下巻』(諏訪市豊田地区公民館/2013.3.)第五章13節(140-142頁)に「武井見龍とその影響」(未読)
吉田霊鳳の著書「不求堂文集初稿. 巻之1-4 / 吉田清 著」///節庵初集の跋文を所収。
参考文献及び史料類 鉄兜遺稿
「天龍道人碑碣銘/57」所収、武井一郎『天竜道人事迹考』1916、97頁。
阪谷朗廬関係文書武井元卿著『節庵初集』養浩堂蔵刊、天保13年、
西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース:武井節庵 節庵初集解説(一部引用)
○武井節庵は名恭のち亨のち葆真。字安卿のち元卿のち虚白。通称蘭之輔のち精一郎。別号養浩堂・雪庵。文政5年生。信濃高島藩儒吉田鵞湖(士廉)の次男。同藩武井家の養子となる。菊池五山門。天保7年版『〈当時現在〉広益諸家人名録』に「〈詩〉雪菴〈名恭字安卿/一号養浩堂〉 〈麹町貝坂〉武井蘭之輔」。天保13年版『〈当時現在〉広益諸家人名録二編』に「〈詩〉節菴〈名亨字元卿/一号養浩堂吉田霊鳳男〉 〈芝将監橋〉武井精一郎」。天保8年12月に致仕(本書巻4の一丁表参照)その後、西遊、備後沼隈郡藤江村(現・福山市藤江町)に滞在して子弟に教授する。後に今津駅(現・福山市今津町)に移る。安政6年8月4日病没38歳。墓所は今津薬師寺(『広島県沼隈郡誌』773頁に墓碑銘の写しあり)。その他の著作、『春秋百吟』(*日本左伝研究著述年表並分類目録等による)、天保9年序刊『諏訪八勝図詩』(編著)、『声画漫録』(*近世漢学者著述目録大成による)、『養浩堂雑集』(写:茨城大菅)、『養浩堂詩集』(*近世漢学者著述目録大成による)。塩田序と東条跋によれば、武井家は織田信長に仕えた右筆武井夕庵の後裔という。
参考までに河野鉄兜が和友・門弟に宛てた書状(80通)、知友・門弟が鉄兜に宛てた書状(20通)を収録した河野鉄兜 [著],田中真治 編纂『鉄兜及其交友の尺牘』、昭和4年には武井節庵関係のものは不在。
2023年3月5日 追加資料:鉄兜遺稿 1-2,河野維羆 著 ; 河野天瑞 編
関連文献:田村祐之「河野鉄兜の四国・中国旅行の旅程について」,姫路獨協大外国語学部紀要 (27) 1-23 2014年