今日は夕方から90分ほどお見舞いがてら〇〇で読書をした。持参したのは昨日までは
単行本(勝矢の著書は読む必要なし)だったが、すこし重いので、たまたま目に入った歴史学研究会編「歴史研究 増刊号」820(2006、10)、青木書店を持って行った。以前、通読したことのある近世部会「歴史意識から見える近世」内の2つの論考に目通すことが出来た。
岸本覚「近世後期における大名家の由緒」と引野亨輔「近世後期の地域社会における藩主信仰と民衆意識」だ。
前者は毛利家の一連の藩祖顕彰事業を進めていく中で、毛利氏が摂関家鷹司家や有栖川宮との姻戚関係を構築し、このことが歴代藩主の「神霊化」に+側に作用したと同時に「勤王の家」としての歴史認識の醸成に深く関わったという(ホンマカイナ
)。後者は広島藩と福山藩の例を引き合いに出しながら文化文政期の広島藩では藩主信仰が国持大名を神と崇める城下町人らの動きを初発として領国内に普及したが、山県郡の場合神職主導の国恩祭が農民一般にとっては五穀豊穣・国家太平といった慣れ親しんだ農耕儀礼の延長線のようなものとして受容されると共に、かかる祭祀を主導した地域神職たちは農村内部から経済援助を引き出し、藩権力側からは自らの宗教者としての特権性を認めさせる(地位の向上を図る)ことになったという。一方、福山藩では藩主水野氏に対する崇拝心が醸成されていたが、これは現藩主阿部氏の苛政を非難するという民衆の秘められた感情に支えられたものだと指摘。
文化15年作成の「
今津村風俗問状答書」(河本四郎左衛門眉旨記述)を見ると、正月元旦の行事として供物を捧げるべき八百万の神たちの一角に「当村御水帳」と並んで「御当国御城主様」というのがあった。後者は例えば阿部正福筆の
梅鷹図のようなものは殿様から拝領のある種「聖遺物」として藩主信仰の一翼を担っていたのだろう。
ってことは・・・・・。
引野が指摘したような城主信仰がすべてではなかったということだ。岸本にしろ引野にしろ自分の小さな脳みその中で組み立てた読者の関心をひきそうなやや刺激的なストリーにそって史料をつまみ食いした感じがする。一つの例を全体化せず、じっくりと腰を据えてテーマと向き合い、もっと手堅さの感じられる事柄の分析を心掛けてほしいものだ
天保期に在方扶持人となった御用商人たちは御国恩に報いる形で、藩からことあるごとに献金を強いられたようだ。
【備忘録】
羽賀祥二『古蹟論』を改めて読んで見た。近世の臆断まみれの歴史(民俗)学⇒英語で言えばHistorical loreを扱ったものだが、クリティカルな論説でないので退屈した。
これも・・・・
相良英輔『近代瀬戸内塩業史研究』、清文堂、1992を〇〇に持参して2時間ほど一部の論文を精読。松永塩田における浜の寄生地主(藤井与一右衛門)とそれを借り受ける製塩業者(相良は「小作人」と認識)とを捉え、特に後者が資本蓄積によって浜地主となった事例:岡田虎次郎にスポット当てつつ論述しているが、やはり研究が予め予想できるシナリオに沿って分析し、やはりそうだったというまことに安直な結論の導き出し方・・・・研究自体の意義の小ささもさることながら、考察が浅い。小作人:岡田虎次郎・石井保次郎を云々するより、この地方の社会の底辺を形成した「浜子」たちの問題の方が社会的に意義が大きいだろと思う。
高橋淡水『偉人と言行』、 楽山堂書店、明治43で高橋は福沢諭吉が藩主奥平氏の氏名の入った文書を踏み、兄貴から忠君の大義を説教され、天罰の報いがあると叱責されている(254頁)。