- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

借金問題でもめていた麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門

2018年10月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

ことの発端は江戸後期の不安定な金融経済の下で、角灰屋橋本氏はあくまでも返済金を正銀建てで要求したことだった。橋本氏としては借り手有利となる、(暴落を続けていた)藩札での支払いは到底受け入れ難かった訳だ。





西向宏介「近世後期尾道商人の経営と地域経済-橋本家の分析をもとに-」(地方史研究協議会編『海と風土』雄山閣、2002、p.158-188)


「借金問題でもめていた麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門」というタイトルだが、姻戚関係にあった麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門との間にはもめごとはなく、もめごとはご両人と債権者:角灰屋との間の話。高橋七郎右衛門は嘉永2(1849)年に尾道町町年寄り上席(『新編尾道市史』6、689頁)。麻生吉兵衛は今津村などの年貢米を福山に輸送する海運業者だった。
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沼隈郡今津村にみる「城主信仰」

2018年10月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今日は夕方から90分ほどお見舞いがてら〇〇で読書をした。持参したのは昨日までは単行本(勝矢の著書は読む必要なし)だったが、すこし重いので、たまたま目に入った歴史学研究会編「歴史研究 増刊号」820(2006、10)、青木書店を持って行った。以前、通読したことのある近世部会「歴史意識から見える近世」内の2つの論考に目通すことが出来た。
岸本覚「近世後期における大名家の由緒」と引野亨輔「近世後期の地域社会における藩主信仰と民衆意識」だ。
前者は毛利家の一連の藩祖顕彰事業を進めていく中で、毛利氏が摂関家鷹司家や有栖川宮との姻戚関係を構築し、このことが歴代藩主の「神霊化」に+側に作用したと同時に「勤王の家」としての歴史認識の醸成に深く関わったという(ホンマカイナ)。後者は広島藩と福山藩の例を引き合いに出しながら文化文政期の広島藩では藩主信仰が国持大名を神と崇める城下町人らの動きを初発として領国内に普及したが、山県郡の場合神職主導の国恩祭が農民一般にとっては五穀豊穣・国家太平といった慣れ親しんだ農耕儀礼の延長線のようなものとして受容されると共に、かかる祭祀を主導した地域神職たちは農村内部から経済援助を引き出し、藩権力側からは自らの宗教者としての特権性を認めさせる(地位の向上を図る)ことになったという。一方、福山藩では藩主水野氏に対する崇拝心が醸成されていたが、これは現藩主阿部氏の苛政を非難するという民衆の秘められた感情に支えられたものだと指摘。
文化15年作成の「今津村風俗問状答書」(河本四郎左衛門眉旨記述)を見ると、正月元旦の行事として供物を捧げるべき八百万の神たちの一角に「当村御水帳」と並んで「御当国御城主様」というのがあった。後者は例えば阿部正福筆の梅鷹図のようなものは殿様から拝領のある種「聖遺物」として藩主信仰の一翼を担っていたのだろう。
ってことは・・・・・。
引野が指摘したような城主信仰がすべてではなかったということだ。岸本にしろ引野にしろ自分の小さな脳みその中で組み立てた読者の関心をひきそうなやや刺激的なストリーにそって史料をつまみ食いした感じがする。一つの例を全体化せず、じっくりと腰を据えてテーマと向き合い、もっと手堅さの感じられる事柄の分析を心掛けてほしいものだ
天保期に在方扶持人となった御用商人たちは御国恩に報いる形で、藩からことあるごとに献金を強いられたようだ。


【備忘録】
羽賀祥二『古蹟論』を改めて読んで見た。近世の臆断まみれの歴史(民俗)学⇒英語で言えばHistorical loreを扱ったものだが、クリティカルな論説でないので退屈した。
これも・・・・
相良英輔『近代瀬戸内塩業史研究』、清文堂、1992を〇〇に持参して2時間ほど一部の論文を精読。松永塩田における浜の寄生地主(藤井与一右衛門)とそれを借り受ける製塩業者(相良は「小作人」と認識)とを捉え、特に後者が資本蓄積によって浜地主となった事例:岡田虎次郎にスポット当てつつ論述しているが、やはり研究が予め予想できるシナリオに沿って分析し、やはりそうだったというまことに安直な結論の導き出し方・・・・研究自体の意義の小ささもさることながら、考察が浅い。小作人:岡田虎次郎・石井保次郎を云々するより、この地方の社会の底辺を形成した「浜子」たちの問題の方が社会的に意義が大きいだろと思う。

高橋淡水『偉人と言行』、 楽山堂書店、明治43で高橋は福沢諭吉が藩主奥平氏の氏名の入った文書を踏み、兄貴から忠君の大義を説教され、天罰の報いがあると叱責されている(254頁)。


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松永史談会10月例会

2018年10月21日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会10月例会

10月22日午前10-12
集合場所:ケーズ電器駐車場・福大通り沿い
テーマ「今津島北東角付近のエクスカーション(⇒「微細な歴史」)







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引用され続ける誤謬ー三吉傾山の場合ー

2018年10月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津宿に大成館という漢学塾を開いた三吉傾山に関して『沼隈郡誌』の誤りが、そっくりそのまま村上正名『福山の歴史』上下、昭和53、歴史図書社に受け継がれていた。

菅茶山は江戸時代後期の儒学者・漢詩人で、1748-1827年までの80年の人生であった。しかるに三吉傾山の生涯は1836-1879年。従って三吉と菅茶山との間には時代的な接点はなく「幼くして菅茶山に学ぶ」といったことはなかったのだ。この辺(史料批判が不在といった面で)の脇の甘さが村上正名にはあったかな~
『福山の歴史』、筆者のこれまでいろんなところに執筆した文を集成した教養書だが、その教養書という性格を配慮した結果なのか集成される段階にオリジナルな論考段階に依拠したはずの参考文献リストなどがすべて抜け落ちている。先行する研究成果に依拠しているのが明白なのに・・・・、この辺がまことに惜しまれる。村上辺りは今津宿に寛塾を開いていた江戸人で漢詩人・書家:武井節庵の存在には気づかなかったようだ。

沼隈郡誌の三吉傾山の紹介記事(A)には傾山が菅茶山に師事したと記述。(B)は同書が所収した三吉傾山の墓誌。この中では「読書は神辺の菅氏塾」で学んだとあるだけ。


鴎外:備後人名録@東大図書館・鴎外文庫
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無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態-

2018年10月13日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
ここでは「無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」といったやや冷笑的なタイトルにしたが、久留島浩「村が『由緒』を語るとき‐『村の由緒』についての研究ノート‐」(久留島・吉田伸之『近世の社会集団-由緒と言説-』、山川、1995)では18世紀後半以後、19世紀にかけて村が自己主張を強め、主観的な(=歪んだ)歴史制作が横行していたようだ。

【参考】唐突だが用語解説をしておこう。
現代において「実際には決して起こっていないのに、事実として語られる話 (story which never happened told for true)」を意味するのが「都市伝説」。もうひとつ、ジェームズ・スティーヴンスとの論争の中で生み出されたのがいわゆる「フェイクロア(fakelore)」(本物として提示されたものだが、実際には捏造された民間伝承を指す言葉)。ここで再論する「近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」というのはこのフェイクロアに関わる事柄。

ところで、近世を通じて庄屋・神主(今津宿本陣を含む)を一元的に世襲してきた河本氏は自身が神主を務める神社の由緒づくりに際し、貴種(新羅王)流離譚を創作し、自己のルーツをこれに関連付け、白鳳期の今津のムラオサ・田盛庄司安邦の子孫だと主張。また四郎左衛門の時代(天明期)には当該神社を「村史」(庄屋役用記録)の中で「当一ヶ(備後)国惣鎮守」だとしたり、薩摩藩に対する3000両貸付要請(実際に薩摩藩に提出されたか書面の控えか否かは不明)時には「私家の儀は白鳳年中より当所に居住にて、御太守様御通行の節、往古より相変わらずこれ相勤め来たり(後略)」といった誠に時代錯誤も甚だしい理屈を持ち出す始末(河本家文書研究会編『今津宿本陣 河本家文書解読集』、2018、18頁)。さらには折角伝十郎の時代に伊藤梅宇の撰文を得て完成した神社縁起を子や孫の時代には反故にするかのごとく、剣大明神の社名すら放棄し、安永8(1779)年には沼隈郡式内3社の内の「高諸神社」へと変更しようとした

注)『備後郡村誌』によると「備後一国惣鎮守」とは吉備津彦大明神(備後一宮)のこと(356頁).自分が神主をつとめる「剣大明神」が当一ヶ国総鎮守だと『村史』収録の書上帳に記載した河本四郎左衛門の心の<闇>の一端が透かし見えてきそうだ。



【解説】『福山志料』の論調は沼隈郡今津村の剣大明神を式内社高諸神社に変更したしたことを批判しているわけで、その点は正しいのだが、論理展開には問題があり、沼隈郡式内3座とは何の関係もない延喜式神名帳中の剣神社の有無を冒頭に持ち出し、その結果『式内社調査報告(第22巻、山陽道、)』、544-547頁(金指正三執筆「高諸神社」)、皇学館大学出版から上げ足を取られ、無用な剣大明神=式内社高諸神社説の肯定論を持ち出す余地を与えてしまっている。


馬屋原重帯『西備名区』(文化元年)や菅茶山ら『福山志料』(文化6、1809年)の編纂者たちからこの点について批判がだされると、一旦、その主張を引っ込めるそぶりは見せた(明治期に入り社名を延喜式に記載された「高諸社」と置換)が、(四郎左衛門の時代には)剣大明神境内に縁起の中で形象化された新羅国の王族関係者のならともかく、河本氏の祖先だと主張する田盛庄司安邦を祭神とする境内摂社まで造営し、そこでの祭礼を文化期には村落行事化したとの記録(文化15、1818)年「当村風俗問状答書」)を残す始末。この村落行事では神主河本家(今津宿本陣を兼ねる)屋敷に、近隣の村々(高須村・西村・東村)の村役人や社人ら関係者を招待し初穂米で造ったお神酒と精進料理を振る舞っている。こういう歴史の流れの中で、役得を最大限に利用する形で利益誘導をはかった結果が河本氏の家系と今津村鎮守・剣大明神(式内社高諸社)の二者に対する「格上げ」工作と「権威付けの承認取り付け」工作であった。


西国街道筋では福山城の西側にあって浅野芸州藩に対峙する位置に沼隈郡神村の今伊勢さんと共に同今津村のお剣さんが立地したことの戦略的重要性に言及した後代の記録(『西備遠藤実記』)もあることや藩領内3か所に限定された(祭礼時の)興行場の一つが剣大明神界隈に形成されたことからも伺えるように、恐らく、地政学的な要地として把握するするためには沼隈郡今津村に対して何らかの優遇策や支援策を講じる必要があったのだろう。そういう状況と近世沼隈郡今津村、就中、江戸期を通じて長らく庄屋・神主及び今津宿本陣を独占的に世襲した河本氏(特に、江戸中期の伝十郎~四郎左衛門までの3代)による慢心&傲慢さとが複雑に絡み合って、歴史制作面での逸脱(=腐敗堕落)したやり方の下地が作り出されていったのだろ。


「田盛庄司安邦61世孫」と言い出した河本四郎左衛門眉旨が村差出帳の中に書き加えた「創作=偽造された剣大明神に関する由緒」。四郎左衛門はこのような差出帳とか風俗問状答書のような公的な報告書のような場を活用して歴史制作を行っていた。四郎左衛門は当該差出帳の朱書された追記部分でわざわざ(自分たちがその作成に関与したはずの)「蓮花寺由緒書」なるものを意図的に持ち出し「田盛之社は剣社の境内にあり」と語らせている。こういう一連のやり方は誇るべき証文不在の中で創作した白鳳時代とか田盛庄司安邦なる架空の人物や単なる(新たに創建した)田盛之社の存在に、歴史的実体性を与えるための河本四郎左衛門眉旨が常用した巧妙な印象操作に他ならなかった。こうした江戸時代後期の日本人の生活倫理に則していえば道義を弁えぬ逸脱した行為、換言すれば自分に都合の良い形で行われる歴史制作が近世後半期には、数は多くはなかったにせよ、結構横行していたようだ(久留島浩「村が『由緒』を語るとき」、久留島浩・吉田伸之編『近世の社会集団』、山川出版、1995,3-38頁所収)。


次の書籍は出版されてからかなり時間が経過しているがこうした問題をアカデミズムの中で論じた画期的なものだった。



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東京帝大医学部長時代の永井潜

2018年10月12日 | repostシリーズ
東京帝大の学生の描いた戯画の中の永井先生は・・さてさてどれでしょ?

医学部卒業記念写真。▲印の人物は夏目漱石の主治医でもあった帝大総長・長与又郎。その向かって右隣が生理学者で東条内閣時代の文部大臣となる橋田。橋田文相時代(1940年代)といえば、早稲田大学では古代思想史研究の津田左右吉事件など様々思想弾圧をこうむっていた。その隣が生理学者永井潜だ。長与の向かって左隣りが病院長なのに医学部長の永井が橋田に席を譲ったのは何故なのか。医学上の業績の差???????  長与は癌研究の世界的権威、橋田は実験生理学の我が国における権威だった。彼らに比べると永井の医学面での業績はやや少なかったとされる。ただ一高⇒東京帝大医科という典型的な秀才コースを歩んだ人だけに、その存在はかなりgreatだったらしい。
そのことはともかく民族衛生とか優生学の方面に注力していた頃のなんとなく険しい永井の表情が印象的。

戦後東京都知事となる東龍太郎が二列目。小野田寛郎少尉の長兄敏郎(その後軍医)はこの卒業アルバム作成委員会の中心的人物(前列中央)


永井は松永浚明館(松永西町の石井竹荘が子弟教育のために建てた漢学塾、明治16-18年 沼隈郡内の頭の良い農村青年たちが入門した漢学塾、ただ時代は沼隈郡あたりでもキリスト教の布教が活発化し、かつ近代科学の流入時代を迎えていた)で長谷川櫻南の教えを受け、途中、高島平三郎の忠告で広島師範付属小学校に転入学し、その後福山中学(誠之館)⇒第一高校(ドイツ語専修、無試験で)⇒東京帝大に進学した秀才だった。長谷川櫻南の浚明館には恩師をしたって教え子の高楠順次郎(東京帝大教授・文化勲章受章者)らも時々訪れていたようだ。
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佐々木龍三郎『ギンギンギラギラ夕日が沈む-童謡詩人 葛原しげる』、文芸社

2018年10月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
高島平三郎・葛原𦱳御両人の写った写真を探していて本書(佐々木龍三郎『ギンギンギラギラ夕日が沈む-童謡詩人 葛原𦱳』、文芸社)でよいのを見つけた。機会があったら写真原版を探してみたい。

この本の中に広島県新市町至誠女子高校内創立25周年記念会編『わが郷土 備南文集』の紹介記事があった。わたしは目下のところ地域史研究の最終段階としてGeosophie(生活環境をデザインする時代的知や社会的知の在り方) を再構成(整理〉し直して見たいと考え始めているところだが、これは参考になるかもしれない。本書の寄稿者中には井伏鱒二・福原麟太郎・木下夕爾・森戸辰男・小倉豊文・徳永豊・大妻コタカ・宮沢喜一・久留島武彦ら17人の名前が上がっている。昔読んだ福原の随筆集だけではものたらなかったのでこれに期待。とはいえ、実際問題どの程度役立つかはこの『わが郷土 備南文集』を見てのお楽しみ、まあダメモトで取り寄せてみよう(ほとんど役立たない代物だった)。


これ一冊で事足りるということはないだろう。


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台風24号(2018年9月30日)の落とし物

2018年10月01日 | 断想および雑談

大雨の度に発生する迷惑な落とし物(落石)





昨日の強風で彼岸花の茎はなぎ倒された感じ


写真らしく撮るとこんな感じ
荒川神社付近の本郷川高水敷で撮ったもので、橋は小代橋、背景の山並みは阿草山地


撮影場所は丁卯新田の藤井川堤防斜面。

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