割庄屋亮平宅とあるが、亮平とは竹内氏、 のち亮左衛門のこと。
現在は東広島市八本松町吉川・・黒瀬川支流の古河(ふるこう)川流域。吉川村は台地上に立地。古河川河岸には河岸段丘が発達。
広島県立文書館は簡単に済ませたが、これからもいろいろ史料の原本調査が続きそうだ。
参考文献(服部英雄氏)
柳津町馬取貝塚は、今まで謎だった松永町・山本新さんという人物が大正15年8月段階に発見し、その後昭和7年1月に至って沼隈郡教育会によって実地調査が行われた。大正15年5月6日~9日の太田貝塚調査で面識が出来たのか山本新さんはその3か月後には京都帝大教授清野謙次(医学)に対して、太田貝塚から言えば、松永湾の対岸に当たる沼隈郡柳津で見つけた馬取貝塚の情報を伝えていた。すなわち清野氏は著書『日本石器時代人研究』 、1928の中では、山本新さん発大正15年8月25日付私信から得られた伝聞情報をそのまま紹介している。参考までに「太田貝塚は尾道市の東郊に して、本邦先 史考古學、人類學の最 も重要なる遺跡である備中津雲貝塚 を西に去る直線距離約8里 の所に位する瀬戸内海 に南面 した緩斜地である。最初大正十五年四月十二 日當時長崎考古學會々員たりし佐藤翼穗氏が試掘 し體 を獲、その報 に島田貞彦 氏急行 して同月十五 日には更に5髄 の古人骨が發掘 5された(但 し人骨番號に第8號 迄)。越 えて翌五月六 日より九日に亘る清野謙次、平井隆、金關丈夫3氏の發掘は更に58例 の古人骨を追加 し合計66例 となつた。」という。 露頭部分は花崗岩の風化土(原地形を一部残す。頂部に柿の木、大正15年当時一帯は桑畑)。地形的には低平な丘陵端の上に貝塚層が乗っている。金江・藤江あたりの海岸部は多数の円礫(古い地層の場合は風化し腐り礫化。これはなし)の露頭が目立つ洪積台地。写真中の水路は人工河川の新川で、新川筋の潮汐限界点はこの地点より若干上流側にある。従って、水路の側面石垣の見られる変色位置は満潮時の水位探る有力な手掛かりとなろう。興味のある人は現場で確認してみるとよい。この貝塚での縄文時代の遺物包含層は満潮時の潮位よりたかだか3㍍程度上位に位置するにすぎない(要確認)。
『福山市史・上巻』に言及が見られるが、倉敷考古館蔵の土偶(福田貝塚 縄文後期)
解説文によれば「(前略)土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の(後略)」。
下迫貝塚一帯の現在(水路は新川)
柳津町下迫貝塚 。縄文時代後期の地形面は新川筋の堤防道路面の1メートル上位。 地元の人に場所を訪ねたが、下迫貝塚を馬取貝塚と混同する人がいたが、ほとんどが馬取貝塚すら不知だった。あらかじめネット情報と住宅地図で見当をつけていたお宅(坂本順助さんの昭和25年生まれのお孫さんがご当主)を訪問し、それが正解だった。むかし、郷土史家I@神村が訪れたことがあるということだったので、わたしの訪問はそれ以来のことだったのだろう。場所的にはわたしが以前からよく訪れていたところ(柳津町市場組・fake史蹟:「神武天皇上陸碑」「磐井」,
村鎮守:清平大明神の「清平」は地名だが、これを祭神光孝天皇皇子一品式部卿清平親王(要確認)の「清平」と解釈し、ここから虚偽言説の大迷走が始まり、明治初年以後は実在が定かでない祭神「清平親王」/「橘清平」とはせず、一挙に著名な祭神「橘諸兄」へと跳躍。この人を祭神とした橘神社に移項させていく。柳津はそういう支離滅裂のFakeloreがまかり通る愛すべき土地柄・・・『沼隈郡誌』515-516頁参照)の数十メートル南方に当たった。縄文後期の土偶は馬取貝塚発見者でもある松永町在住の山本新さんが、昭和14年に考古学研究者村上正名さんらが訪れる1ヶ月ほど前に、坂本さんの屋敷地内で発見したということに菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が言及していた。当該土偶は現在、東京国立博物館に所蔵されている。下迫貝塚は宅地だったため坂本さんの屋敷地の北西隅のわずかな面積を掘り下げただけだったようだ。
島田貞彦「備後國沼隈郡高須村太田貝塚に就いて / 島田貞彥/p23~33」、歴史と地理、26-4,1930.
太田貝塚の立地環境は、隆起海岸低地(松永湾岸での貝塚はこの地形面上、山陽本線線路以東は干拓地で海抜0m地帯、西国街道は海岸低地上、この地形面の2m上位に隆起海岸低地が拡あり、その地形面上に貝塚が立地)(潮汐限界点よりも2m弱上位・、満潮時の海水位よりも3メートル程度上位・・。この太田貝塚が立地する地形面は松永湾岸の干拓地の背後に形成されていた海岸低地の山側で縁取る形で分布。近世の西国街道の地形面と太田貝塚立地の地形面の高度差=a+b) 場所
追加調査:明徳4年(1393)の年紀をもつ、『延寿院殿佐藤左馬頭治信大居士』という珍しい戒名の墓石。一見してFake(インチキ)なのだが・・・。家のルーツ関して深い思い(この点が唯一の事実)が込められているこの地方ではまま見かけるものだ。この形式の墓石はこの地方では江戸前半期のもの。数年前から注目してきた史料なのだが、本日はご子孫の消息確認ができた。半歩前進! 懇意にしていた仏壇屋のお婆さんは平成30年没で、2才年上の主人はその三週間後に亡くなっていた。
室町~戦国期の稲村城主田坂家の戒名@備後・三原 三原市文化課◎村 喜久子「尾張國冨田庄絵図」の主題をめぐって、愛知県史研究5号(平成13)をちょっと読んで見た。
話題①
例えば「近年村岡(幹生)氏は、当絵図研究を総括し航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて、この絵図が描かれている内容・主題を再検討し、円覚寺支配説(◎村さんの持論)を補強され、さらに14世紀半ばの土肥氏一族の当地域への進出時期にこの絵図作成年代求める見解を述べられた」のだと。上村さんはその立場に賛意を示しながら、なお「村岡氏は押領を受けている地がことごとく絵図に記載されている事を指摘し」それをヒントに絵図作成年を想定した(村岡 幹生執筆「荘園・公領制下の人々の生活」、所収『新修名古屋市史』 第2巻・第四章,1998)と。8月19日の時点で『新修名古屋市史第二巻』)、207頁をチェック済。
ただ、例えば絵図に関する見解には論旨に矛盾するところ(茶線=「御厨堺」に領域界の意味あり-204頁と指摘しながら、別の個所では萱野相論の詳細が書き込まれているとは期待しがたい性質のもの-224頁という類の矛盾点)が見られ、その点が惜しまれる。
また「航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて」と◎村さんが紹介していたので、期待して執筆論攷に目を通してみたが、ご本人は国土地理院4万分の一の空中写真(1968年撮影)の一部をそのまま挿絵風に掲載しただけだった。この辺りの説明に村岡さんは力点を置いているが、和与関係文書(『愛知県史』資料編8,1248号)の解釈(単に、樋口さんの模式図を安田さん推定の旧河道図で修正)を含め苦慮した跡もうかがえ、まあわたしなどは直感的に首を傾げてしまいそうな部分もあるので、いずれ批判/異論が噴出してきそう。
◎村さんは論所の中間部に立地したは村岡論文中の「水落」(語意については村岡・名古屋市史220頁に「川が海に落ち込む地点」と説明、従って明らかに御厨川の当時の河道=水落とは理解していない。村岡さんはそういう理解のまま富田荘・一柳御厨余田萱野相論関係概念図、名古屋市史219頁を作成、それ)を(◎村さんは)さりげなく「水落(現河道)」に変更の上、「村岡氏が正しく読解したように」(◎村 冒頭論文8頁)とやっている。こんな間違った庇(かば)いあいを繰り返していると上村さんは研究者としての良識を疑われかねまい。上記の概念図を見る限り、基本的に村岡さんには相論当事者の地形認識の差異と当時の海浜地形のあり様がよく理解出来なかった感じだ。無論、その「村岡氏が正しく読解したように」という◎村さんの記述は偽り。
話題②
▼貝富士男論文(「円覚寺所蔵尾張国富田荘絵図の成立事情」、大東文化大学紀要. 人文科学 42 A101-A122, 2004-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・・内容的には力作)
暦応元年と暦応3年の報告に関して、➊後者は新たに調査を行った結果ではなく、単に暦応元年報告を補足する目的で「詳述」しただけ、➋同年4月16日の御奉書はそのための催促状であった(119頁)。➊➋に関しては疑義が出てきそう。また「全領域図」の「境相論図」への差し替え時期については、絵図が有する主張をまったく脇にやった形で「建武3年末から暦応元年前半期までの間」(120頁)という具合に、(その当否はともかくとして)南北朝期に於ける南朝方と北朝方との勢力基盤の変動と絡めたより広い視野からの理由付けを試みている。そのほか▼貝「円覚寺領尾張国富田荘絵図に見る海水面変動」,大東文化大学紀要. 人文科学 44 A61-A82, 2006-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・内容的には読む必要なしの駄作)⇒註1)で後醍醐政権に対して円覚寺が地頭請権の復活申請をした1334年に原図が作成され、その後1336-1338年頃の一楊御厨余田方との萱野境を巡る争論の絵図に記載内容に一部変更を加えつつ転用と説明(なお、▼見が声高に主張する絵図の右下隅の一紙分のズレに関しては一度料紙や顔料の鑑識学的確認作業が必要。その判定結果を待ってから冷静に議論を進めれば済むこと)。
【後日談】
私自身、尾張国富田荘に関しては愛知県海部郡蟹江町・七宝町から名古屋市中川区にかけて1985年ごろから数年間に亘り、何度か隣地調査してみたことがあるが、そこに立地する旧明力坊・前田速念寺(真宗、名古屋市中川区前田西町1丁目904)の前住職は文化功労者(仏教学)の前田恵学氏。その夫人は旧沼隈郡今津村・長波出身の教育学者川上喜市(旧福山市立今津小学学校校歌の歌詞制作者、松永川上薬局の祖父長市の弟)二女龍さん(1932年生まれ、母親<1896-1970、学習院女子教授・化学>の影響でリケ女:薬学部卒。『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、平成3年)。そのことを知ったのは10年程前のこと(龍さんの甥:姉の子で情報通信工学者▼野〇一郎氏からの情報)だが、考えてみたらという感じで、わたしは尾張国富田荘に対して不思議な縁をかんじたものだ。同じような思いを学生時代にたまたま立ち寄った諏訪市小川が後年(てか数年前に)、武井節庵の故郷だったことを知ったときにも懐いた。不思議なことといえばまだある。「尾道文化」42(令和6年)に書いた論攷の中で、備中足守の地歴研究家小早川秀雄という人物のお墓が、足守の守福寺(僧侶が戦前段階に不在、すっかり御堂が朽ちかけた無住寺)で荘園調査の合間に、ふと思いついて墓石を調べたことがあった。地元の人の話では御当家の人は岡山に転居してここにいないということだった。ここは足守藩家老杉原氏の菩提寺(廃墟状態で屋根部分は大きく崩れ、寺門を含めいまにも建物全体が倒れそうだった)だったが、この中に小早川秀雄(日置流弓道家として知られた足守藩吉田家の祖・吉田源五兵衛経方の末裔)のお墓があったのだ。そのときは小早川のことは知らなかったので気づかなかったのだが・・・、それにしても不思議なことがあるものだ。足守調査は京都からの日帰りを含め、10年前までに拾数回程度は行っているだろう。
隣の蟹江は永井潜の弟子:小酒井光次(東北大学医学部教授・推理小説家小酒井不木)の生誕の地だった。この辺りは海抜0メートル地帯で伊勢湾台風の時は大きな被害を受けた。
参考までに、前田速念寺蔵「蓮如上人御絵像」(1637年)の裏書に、寺の在所を「一楊庄前田郷御厨」となっている(『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、17頁)。名古屋市中村区横井町は速念寺蔵古図では「前田横井」となっているらしい。
【注記】松永史談会2018年4月例会配付資料
本史料内には執筆者河本四郎左衛門によって仕組まれた偽史言説(田盛大明神祭礼)の一端が含まれている。
京都大学図書館デジタルアーカイブ中の「文化15年当村風俗御問状(幕府の右筆であった屋代弘賢が日本各地の風俗,習慣を知るため配付した調査票)御答書」影写版(谷村文庫 「ト」より入る 全文公開)
平山敏治郎「備後国今津村風俗問状答書」解説
歴史民俗学者平山敏治郎氏は『当村風俗御問状御答書』の史料紹介の労をとられた。それを受け、ここでは若干の注記と解説を行ったが、今後必要な作業としては例えば①この種の作業の徹底と史料批判(言説分析)、②周辺地域の諸事例を視野に置きながら西国街道筋の一藩政村沼隈郡今津村の一年(統治/共同体規制と言う側面から見た藩政時代の年中行事)と③『当村風俗御問状御答書』が書かれた当時の時代的、及び社会的背景等について検討を進めていく必要があろう。
平田篤胤門下で、塙保己一『群小類従』の編纂校訂、『寛政重修諸家譜』などの編纂に従事した幕府の右筆屋代弘賢(1758-1841)情報を得て山崎美成のもとにいる(異界からの帰還者少年)寅吉の談話をまとめた篤胤の異界談『仙郷異聞』。平田篤胤や屋代弘賢、その知人で『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴らは仙郷(あの世)に関して、今日的に言えばドクサ(魑魅魍魎・妖怪を実在するものと考えるような臆断の世界)を共有していた。江戸中期人たる賴山陽も同じような虚実混淆の知の地平を生きていた。『当村風俗御問状御答書』はそういう人たちの生きた時代の産物。
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安政4年雲山山人作「松永湾岸風景図屏風」(福山城博物館蔵)に描かれた戸崎付近に咲き乱れる花。 わたしは桜だと思っていたが、実はどうもそうではなかったようだ。
市立園芸センター(福山市金江町藁江609)から見た松永湾の風景(Xは戸崎)↑
昨日小畑正雄『浦崎村史』、1980を見ていて山路機谷の漢詩「遺芳湾雑景」(浦崎八景)に菅茶山が使わなかった「戸崎梅林」の表現をとっていることを知った(『沼隈郡誌』からの孫引きヵ)。わたしは桜かなと思っていたのだが、屏風絵の作者:雲山山人がそのことを認識していたかどうかは判らぬが、戸崎=梅の名所(風景写真のX地点、その向かって右側、山頂を低く削平した場所が古城跡)+海中につきだした古城跡ということをわきまえていたことが判る。
小畑正雄『浦崎村史』だが、千年藤に関して独自に自説(内容的にはfakelore)を展開していた(論証方法が普通に恣意的)。
本日は資料取りモードで出かけた。
北吉津の實相寺境内のモクレン。
山門を上ると・・・・ 三浦・内藤など福山藩の重臣の墓地が目立った。上田勘解由は水野家の家老の家筋(上田玄蕃の弟)。この玄蕃は本庄重政の嫁の実家の人。副住職の案内を受けて小田勝太郎墓地へ。あとで小田勝太郎の写真帳を見せてもらった。すごく画質の良い簡易製本の写真帳だった。『法鏡山実相寺 復興の秘密』というタイトルの本(寺院観光用限定・・テレビディレクターを称する著者だが、中身はなし)を頂いた。なかなか気の利く住職夫人だった。
この寺でも雨乞行事が行われたようだ。
小田銀八夫婦・その子勝太郎(笠付墓、高島平三郎の友人、柔道家)夫婦の墓。小田勝太郎の弟が融道玄。
銀八については『西備名区』に御郡同心として金4両・二人扶持とある(『備後叢書・3巻』、732頁内容的には寛政末年の分限帳のもの)。【追記】「小田銀八」の名前は幕末期に蝦夷地に派遣された福山藩士の中や文化13年改訂版「沼隈郡東村検地帳」(要確認)の検地役人(山林奉行か山奉行のような役職まで出世、能吏)の中でもお目にかかったことがある。
江木鰐水(てか、福山藩医家五十川 、いかがわ)家の墓地だ。江木千之は5歳で亡くなった鰐水の次男。五十川は福山藩医の家系だが、鰐水の嫁さんの家と繋がる。偶然発見。その後注目して探してみたが五十川訒堂墓はいまのところ未確認。だが、ここにあるらしい(千之墓の隣の五十川某がそれか、要確認)。
近世墓の学習用画像、台座が台形、宝篋印塔の形状、お墓のサイズや形状は今津薬師寺墓地にある神村屋石井家の江戸中期墓と同じだが、戒名が・・・三浦氏は院澱号+大居士、石井家は信士。
実相寺から市内を展望・・・・遠方の山塊の右端部分に最高所:熊ヶ峰
木之庄5丁目の地神
高橋碧山の医学の先生:寺地強平のお墓@仁伍の神道墓地。『備後国名勝巡覧大絵図』に”序文”を寄せた人物だ。福山医学の祖。
仁伍の神道墓地(西端部分)のパノラマ写真。
門田重長墓(儒者墓というよりも神道系の墓石)より河相保四郎家墓地を展望。土塀囲まれた河相墓地の手前に福田禄太郎墓、門田重長墓周辺には墓じまいしたのか空き地が散見されたが、もしかするとまさにその場所を含めて、この一帯には高島平三郎の両親の墓があったか。『得能正通年譜2』にはこのように記述されているので其れで良いのだろうと思う。調査開始からまる4年、やっと高島賢齊墓の場所が判明した。
福山市木之庄町尾ノ上共用墓地全景
塀に囲まれた河相保四郎一家の墓地。外務省事務次官・河相達夫(松永浚明館で高島平三郎と出会った後の東京帝大医科教授永井潜の実弟)のお墓でもある。息子が太郎。
河相達夫の息子:河相 洌⇒孫:河相周夫(外務次官→侍従長→上皇侍従長)河相 洌と河相周夫の親族関係については要確認。
本日の最大の成果は①福山城博物館で『廃藩直前福山城下地図』の復刻版を購入。この中に。東町に高嶋」という苗字の士族屋敷が一軒、そして天神町に1軒あることが確かめられたこと(ただ小田という姓の士族屋敷は不在であった)。②文化期の江戸丸山藩邸屋敷図中に「高嶋」を見つけた。これが高島平三郎とどうつながるのか、つながらないのか今後の検討課題だ(併せて高島が入学したのは福山西町上小学校、天神町生まれの融は当然福山東町小学校 この辺の違いをどう理解するべきか)。
なお、『廃藩直前福山城下地図』中の江木鰐水(繁太郎)屋敷は藩校誠之館の北隣りにあった。
膝の具合がよくないので、効率的に調査活動を進めるため駅前からタクシーで目的地へ。あとは歩行。
北吉津の地神。木之庄でも地神をみた。
実相寺着・・・12時21分~12時58分
地神・・・・・・・13時13分
仁伍の神道墓地で寺地強平墓発見・・・・13時21分
河相保四郎一家墓地・・・・13時30分
城北中学通過・・・・・13時55分
福山城公園到着・・・・14時08分、館長に挨拶し、古地図類を購入し、早々に帰路に就く。・
沼隈郡今津村旧剣大明神境内の寄進(奉納)物と寄進(奉納)者を引き合いに出しつつ、断片的歴史情報の連結作業を行ってみよう。 明治40年に今津村在住の木村浅治郎義光(福山藩では献金の対価として、金額の大小に応じる形で細かく細分化された武家社会の格式をそれを望む農民や商人に「切り売り」した(沼隈郡藤江村あたりでは村民の1割程度が自作農で、彼らはおおむねこういう格式ある名前を取得・・要確認)。木村浅治郎義光は浅治郎がそういう形で得たもの)が寄進した左右一対の立派な狛犬。 昭和8年に神村出身・寺岡為次郎(昭和初期に塩田を購入した製塩業者)が寄進した石橋「亀園橋」。為次郎は寺岡七右衛門の子で、寺岡伍一の親族。今津島久井屋浜(現在K"s電機が立地、久井屋浜の名称は柳津・久井屋柳田氏起源)を没落した石井憲吉より大正4年5月25日に買得し、昭和4年に神村より今津村に転居(通称「柳町」)。同時期に今津島・三谷屋浜を買得するが、ここは昭和5年12月に石井清一(益田屋)に譲渡し、昭和7年2月には河本猛郎は大西浜と合わせて三谷屋浜を買得している。大西屋浜(江戸中期ごろ、毛利氏時代に海の御用商人と呼ばれた尾道・渋谷与右衛門家所有塩田)も三谷屋浜も塩田としては陸水(地下水や雨水)の流入が見られよくなかった。 亀園橋の文字はひょっとするとこの時代蓮花寺住職(1928-1938)をしていた石井友三郎(善学)のものか? 為次郎の場合は今津小学校の奉安澱(天皇と皇后の写真=御真影と教育勅語を納めていた建物)も寄贈したりしていた。 「神村出身」とあるので多少自己顕示&社会的承認の獲得のためといった打算が働いたかもしれぬが、今津に転居し、”どうぞよろしく”といった意味合いを込めた寄付行為でもあったのだっただろう。 明治24年に「式内社」の文字入り標注を寄進した芦品郡有磨村の河邨(河村)秀興(「河村太吉秀興」だったかどうかはいまのところ未確認) 芦品郡有磨村上有地の河村太吉は今津村の通称「沖田」にあった山路右衛門七所有地を没落(明治24年)時に大量に買得していった御仁(上有地村の産業資本家で豪農かがす河村氏)だ。福山町の河村秀行(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子、河村秀行のお墓は福山木ノ庄・神道墓地で見かけたことあり)とこの河村太吉との関係及び、河村秀行と今津との関係については目下のところ不明(その後追調査済み・・・無関係)。。かれらと高諸神社に前述の標柱を寄進した有磨村の河邨(=村)秀興との関係についても同様だ。 これらの点は今後の解明していくべき課題だと思うが、山路所有の農地の買得と神社への「式内社」と書かれた標柱の寄進行為との間には何かしら繋がりがあるようにも思えるのだが・・・・残念ながらいまのところ確証は得られていない。 大正2年の境内社殿整備時の献金者芳名碑 文化10(1814)年に尾道の播磨屋松之助(1778-1838)が仲間2名とともに寄進した狛犬一対(@高諸神社)。 同時期に尾道のお寺に寄進された父親の供養塔 天保9年に60歳で没していた御当人のお墓。 関連記事 関連記事 麻生は大坂北浜で株取引をしていた人物(今津・柳町に大正10年に息子源平名義で、ハイセンスな庭園付の新居建設、明治期には吉井石井家の御曹司石井得雄と協働して花筵の海外輸出を手掛けた)、故郷へのUターンを契機にお剣さんにこのジャンボ標注を寄進したもの。当時流行した敬神観念 or 善意の発露という形式を借りた一種の誇示的消費行動(=必要性や実用的な価値だけでなく、それによって得られる周囲からの羨望(せんぼう)のまなざしや社会的承認の獲得を意識して行う消費行動)。典型的には森下仁丹創業者(森下博、沼隈郡鞆出身)や大坂で活躍した尾道出身の山口玄洞による社会事業への寄付行為とか社寺造営。
高諸神社南の前新開堤に植えられた千本松原(戦時中に松脂採取のため伐採)は天然痘封じの大願成就を記念して村民有志が植樹したもので当時の今津村民の敬神観念の在り方を伺わせるもの。 関連記事 【参考文献】 矢野天哉「高諸神社神明記 其の3」、雑誌まこと29-12、昭和14