松永史談会8月例会
日時 8月26日(日曜日) 午前10-12時
場所:川本氏のお宅
話題:今回(8月例会)は秋季例会の予備例会としての位置付けから”『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”と題しての話題提供。。
取り上げる史料は、論点を大きく増やすために、『戊子入明記』・『笑雲入明記』・『享徳2年・外官西忍唐船日記』(大乗院)を中心に、以下で紹介するような各種の史料も援用し、全体としては、『戊子入明記』の、相互テキスト的な読解(「身の回りの出来事の世界史的読み替え」)作業の結果をお話しする。
話題の焦点:①『戊子入明記』や『笑雲入唐記』に記載された中世尾道(尾路)港及び、②尾道周辺で準備された渡海船。③長州藩士高須氏に伝わる日明貿易旗(16世紀末)。④渋谷家文書中の慶長5年沼隈郡神村打渡坪付帳(代銭納・・・・畠方年貢は中国銭で行われた)だが、グローバルな視点から問題を掘り下げ、かつ同時にそれを世界的なスケールから意味付け(=俯瞰し)ていく。
なお、秋季例会は浄土寺宝物館(or尾道市立図書館では近世古地図類)にて江戸中期の尾道町屏風絵(「安永の屏風」)を熟覧予定。(その後、2021年3月段階にすべて史料調査済み)
日明貿易旗・・・・・赤間ヶ関代官高須(沼隈郡高須村杉原氏の末裔。尾道を拠点に杉原氏がかつて日明貿易に従事していたことを示唆)氏に対し「大明国の泉州府晋江県(現、 中華人民共和国の福 建省泉州市)の商船が来年6月にこの港口(赤間関) に来航するので、 その時に旗印を照合して一致すれば、 貿易すべし」 と、記述。
喫茶室
字「つるぎ下」・「明神」(柳津町)・・・・中世のつる木浦付近
勘合貿易について
『戊子入明記』(応仁2 、1468 年将軍足利義政の命によって天与清啓が遣明正使として渡明したときのことを,天文期、1532~55に 周良が現地にて抄記したものだとされてきたが最近の研究(2001)ではかかる通説に疑問符が付けられている。勘合符・船中祈祷の作法、荷物・商品・乗船に関することなどを含め過去の日明貿易の前例に関わることが色々と記されている)
籌海図編(ちゅうかいずへん、1562年に中国,明の鄭若曾によって編集された倭寇対策用の海防研究書)日明貿易上の利害対立から大内氏+博多商人×細川氏+堺商人の現地での武力衝突と略奪事件が発生(寧波の乱、1532)後、中国の対日感情は悪化し、その結果1529年には市舶司大監(貿易事務所)が廃止される。その結果寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。
高須家伝来の日明貿易旗に記載されたに普江の現在(泉州湾岸の普江)
東南アジア島嶼部・北東アジア諸地域に分布する銅製品(例えば中国銭・銅鼓など)のいろいろ
『海東諸国記』には長門国赤間関→竈戸(上関)→尾路関→兵庫関という港町をあげ、備中国・備後国は銅を産出と記述している。
これまでも再々、言及してきたことだが、地方史上の問題を世界経済の動きの中にリンクさせていく作業を行っていく。
『釈笑雲入明記(旧名允澎入唐記)』(1452年)に天龍寺船が温州の育王寺住職によって鐘鼓を鳴らしで大歓迎をされたとあるので平安中期の年中行事絵巻に描かれたチンドンの風景は明時代の温州あたりにもあったことが判る。
日時 8月26日(日曜日) 午前10-12時
場所:川本氏のお宅
話題:今回(8月例会)は秋季例会の予備例会としての位置付けから”『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”と題しての話題提供。。
取り上げる史料は、論点を大きく増やすために、『戊子入明記』・『笑雲入明記』・『享徳2年・外官西忍唐船日記』(大乗院)を中心に、以下で紹介するような各種の史料も援用し、全体としては、『戊子入明記』の、相互テキスト的な読解(「身の回りの出来事の世界史的読み替え」)作業の結果をお話しする。
話題の焦点:①『戊子入明記』や『笑雲入唐記』に記載された中世尾道(尾路)港及び、②尾道周辺で準備された渡海船。③長州藩士高須氏に伝わる日明貿易旗(16世紀末)。④渋谷家文書中の慶長5年沼隈郡神村打渡坪付帳(代銭納・・・・畠方年貢は中国銭で行われた)だが、グローバルな視点から問題を掘り下げ、かつ同時にそれを世界的なスケールから意味付け(=俯瞰し)ていく。
日明貿易旗・・・・・赤間ヶ関代官高須(沼隈郡高須村杉原氏の末裔。尾道を拠点に杉原氏がかつて日明貿易に従事していたことを示唆)氏に対し「大明国の泉州府晋江県(現、 中華人民共和国の福 建省泉州市)の商船が来年6月にこの港口(赤間関) に来航するので、 その時に旗印を照合して一致すれば、 貿易すべし」 と、記述。
喫茶室
字「つるぎ下」・「明神」(柳津町)・・・・中世のつる木浦付近
勘合貿易について
『戊子入明記』(応仁2 、1468 年将軍足利義政の命によって天与清啓が遣明正使として渡明したときのことを,天文期、1532~55に 周良が現地にて抄記したものだとされてきたが最近の研究(2001)ではかかる通説に疑問符が付けられている。勘合符・船中祈祷の作法、荷物・商品・乗船に関することなどを含め過去の日明貿易の前例に関わることが色々と記されている)
籌海図編(ちゅうかいずへん、1562年に中国,明の鄭若曾によって編集された倭寇対策用の海防研究書)日明貿易上の利害対立から大内氏+博多商人×細川氏+堺商人の現地での武力衝突と略奪事件が発生(寧波の乱、1532)後、中国の対日感情は悪化し、その結果1529年には市舶司大監(貿易事務所)が廃止される。その結果寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。
高須家伝来の日明貿易旗に記載されたに普江の現在(泉州湾岸の普江)
東南アジア島嶼部・北東アジア諸地域に分布する銅製品(例えば中国銭・銅鼓など)のいろいろ
『海東諸国記』には長門国赤間関→竈戸(上関)→尾路関→兵庫関という港町をあげ、備中国・備後国は銅を産出と記述している。
これまでも再々、言及してきたことだが、地方史上の問題を世界経済の動きの中にリンクさせていく作業を行っていく。
『釈笑雲入明記(旧名允澎入唐記)』(1452年)に天龍寺船が温州の育王寺住職によって鐘鼓を鳴らしで大歓迎をされたとあるので平安中期の年中行事絵巻に描かれたチンドンの風景は明時代の温州あたりにもあったことが判る。