松永史談会10月例会のご案内
開催日時及び場所:10月25日 午前10-12時。「蔵」二階
話題「沼隈郡今津村式内社高諸神社考-由来記の創作とその時代背景-」
「偽史言説(0r fakelore)としての「式内高諸神社」@福山市今津町」(2021-12-07 執筆)を市民雑誌掲載論攷用に更新する。これまでは➊剣大明神については松永潮崎神社(旧松永・剣大明神)同様、本来中世の新庄つるぎ浦(現在の福山市柳津町内)の産土神を勧請したものであること(市民雑誌『尾道文化』41、2023に「毛利氏の『海の御用商人』尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つるぎ浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描-」として掲載済)、➋今津村の剣大明神の境内地はもともとは中世寺院金剛寺(本尊:如意輪観音)及びこれと習合する形で存在した厳島弁財天社地であり、元禄検地以前のある段階(おそらくは毛利輝元~福島正則時代)に金剛寺を廃寺化し、これらを上書きする形で「剣大明神」境内地が前掲の新庄つるぎ浦の産土神を勧請する形で新造されたらしいことを明らかにしてきた(松永史談会2022年5月例会)。❸10月例会では1718年以後備後福山藩内に京都・堀川学派(伊藤仁斎/1627-1705の次男:伊藤梅宇が福山藩儒として着任)流の古学が興隆していたことを念頭に、伊藤梅宇(1683-1745)とは同門の並河誠所(1668-1738)の畿内における式内社号標識建立活動に着目し、そういう江戸時代中期の時代思潮の中で制作された伊藤梅宇撰文「今津剣大明神縁起」(『福山志料』・『沼隈郡誌』)や宮原直倁(1702-1776)『備陽六郡志』所収関連史料の追加検討を試みる。
参考文献
関連記事
参考まで
重森三玲(1896-1975)『日本庭園歴覧辞典』、東京堂、1974内の高諸神社の記事(一部石垣用に利用されているが、重森はなんでもない社寺境内の巨石にたいても安直に磐座と断定する傾向がみられる人だが、高諸神社境内を捉えて、「日本有数の巨大な磐境」だと:基本的に牽強付会・こじつけ談義)。
【メモ】『福山志料』は並河誠所の編纂書(『大和志』)を引用/参考文献に入れている。
【メモ】向村九音『創られた由緒-近世大和国諸社と在地神道家-』、 勉誠社(勉誠出版) (2021/6/30)に今出河一友(一七〇〇年前後に大和国諸社の由緒 記を述作した在地の神道家)偽作の『石上布留神宮略抄』の中で「下級神職」田井庄司村公の祖先が云々という文言に言及(はじめに4ページ、35-59頁)。これは「田盛庄司安邦」と類似の話。社寺の建物を増改築するときには藩提出の文書の中に、社寺の由緒を記す必要があり、そういうものがまったく無かった今津剣大明神の場合はいろいろ架空の話を在地神道家などに頼んで創作する必要に迫られていた感じだ。そういう事情の中でここは神道家の間では常套的手法とも言えた「田盛庄司安邦」のいう架空の人名を出現させる措置が採られたと考えるのが妥当だろう。今津剣大明神の神主家の場合はこの人物を白鳳期の人物としていた。
田盛庄司安邦という名称はおそらく剣大明神神主の河本四郎左衛門が上方からやってきた神道家からもらい受けた下級神職(百姓神主)の一種のタイトルだった判る。これを先祖に持ってきたのが田盛庄司安邦61世孫を名乗ることになる、事情を知らない河本四郎左衛門眉旨(むねなが)だった。60代目が自分の親の河本和義(ちかよし)。この時期には田盛庄司安邦60世孫というタイトルは不在なので、万事(偽史言説の発信に関するすべてのこと)は河本四郎左衛門の時代に始まったと考えてよいのだろうと思われる。神社の由緒と神主家系それを同時に創作するというのが在地神道家今出河一友らのやり方だった。
開催日時及び場所:10月25日 午前10-12時。「蔵」二階
話題「沼隈郡今津村式内社高諸神社考-由来記の創作とその時代背景-」
「偽史言説(0r fakelore)としての「式内高諸神社」@福山市今津町」(2021-12-07 執筆)を市民雑誌掲載論攷用に更新する。これまでは➊剣大明神については松永潮崎神社(旧松永・剣大明神)同様、本来中世の新庄つるぎ浦(現在の福山市柳津町内)の産土神を勧請したものであること(市民雑誌『尾道文化』41、2023に「毛利氏の『海の御用商人』尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つるぎ浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描-」として掲載済)、➋今津村の剣大明神の境内地はもともとは中世寺院金剛寺(本尊:如意輪観音)及びこれと習合する形で存在した厳島弁財天社地であり、元禄検地以前のある段階(おそらくは毛利輝元~福島正則時代)に金剛寺を廃寺化し、これらを上書きする形で「剣大明神」境内地が前掲の新庄つるぎ浦の産土神を勧請する形で新造されたらしいことを明らかにしてきた(松永史談会2022年5月例会)。❸10月例会では1718年以後備後福山藩内に京都・堀川学派(伊藤仁斎/1627-1705の次男:伊藤梅宇が福山藩儒として着任)流の古学が興隆していたことを念頭に、伊藤梅宇(1683-1745)とは同門の並河誠所(1668-1738)の畿内における式内社号標識建立活動に着目し、そういう江戸時代中期の時代思潮の中で制作された伊藤梅宇撰文「今津剣大明神縁起」(『福山志料』・『沼隈郡誌』)や宮原直倁(1702-1776)『備陽六郡志』所収関連史料の追加検討を試みる。
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重森三玲(1896-1975)『日本庭園歴覧辞典』、東京堂、1974内の高諸神社の記事(一部石垣用に利用されているが、重森はなんでもない社寺境内の巨石にたいても安直に磐座と断定する傾向がみられる人だが、高諸神社境内を捉えて、「日本有数の巨大な磐境」だと:基本的に牽強付会・こじつけ談義)。
【メモ】『福山志料』は並河誠所の編纂書(『大和志』)を引用/参考文献に入れている。
【メモ】向村九音『創られた由緒-近世大和国諸社と在地神道家-』、 勉誠社(勉誠出版) (2021/6/30)に今出河一友(一七〇〇年前後に大和国諸社の由緒 記を述作した在地の神道家)偽作の『石上布留神宮略抄』の中で「下級神職」田井庄司村公の祖先が云々という文言に言及(はじめに4ページ、35-59頁)。これは「田盛庄司安邦」と類似の話。社寺の建物を増改築するときには藩提出の文書の中に、社寺の由緒を記す必要があり、そういうものがまったく無かった今津剣大明神の場合はいろいろ架空の話を在地神道家などに頼んで創作する必要に迫られていた感じだ。そういう事情の中でここは神道家の間では常套的手法とも言えた「田盛庄司安邦」のいう架空の人名を出現させる措置が採られたと考えるのが妥当だろう。今津剣大明神の神主家の場合はこの人物を白鳳期の人物としていた。
田盛庄司安邦という名称はおそらく剣大明神神主の河本四郎左衛門が上方からやってきた神道家からもらい受けた下級神職(百姓神主)の一種のタイトルだった判る。これを先祖に持ってきたのが田盛庄司安邦61世孫を名乗ることになる、事情を知らない河本四郎左衛門眉旨(むねなが)だった。60代目が自分の親の河本和義(ちかよし)。この時期には田盛庄司安邦60世孫というタイトルは不在なので、万事(偽史言説の発信に関するすべてのこと)は河本四郎左衛門の時代に始まったと考えてよいのだろうと思われる。神社の由緒と神主家系それを同時に創作するというのが在地神道家今出河一友らのやり方だった。