安毛川(神島/徳島の間を流れる立入川)河口を出ていく俵満載の小舟。同型の舟が3艘ばかり沖合の砂山状のところに碇泊中だ。この砂山状のものは現在の天保山。安政4年のこの屏風絵では当時すでにここが石炭滓の廃棄場だったことが判る。
製塩業で使われた石炭滓が宅地の埋め立て用土として広範に利用されていた。
次の写真の注記「埋立土」の「立」の文字地点で撮影した。
「小代古堤」と呼ばれる3間幅の地片
不等沈下の結果、石炭の燃焼クズで埋め立てられた部分は石垣面より10数㎝程度大きく地盤沈下
住宅が撤去され、更地になった土地が今回の調査地点。場所は松永中学・旧松永測候所の北隣。
更地になる直前
豊洲新市場の予定地は、東京ガス工場跡地に当たり、石炭から都市ガスを製造する過程において生成された副産物(ここでいう石炭滓)などで、土壌及び地下水の汚染が確認されていたらしい。松永ではこの種の汚染問題は議論されてこなかったが、フランス・ゲランド地方やインドネシアのクサンバ地方に見られるような風と太陽に依存する(零細)天日製塩ではなく19世紀初頭段階には石炭火力依存型の製塩業を開始していた。この点は瀬戸内塩業の発展が本来的に環境への負荷を大きくする方式(ビジネスモデル)を自ら選択してきたことを物語ろう。
松永・潮崎神社の玉垣親柱(東町石炭仲仕寄進)
石炭灰の処理方法
【メモ】日本の代表的な禿げ山県とは愛知県、岡山県、滋賀県。言うまでも無く岡山県は瀬戸内製塩地帯と言い換えても良かろう。愛知は岐阜県を加えた尾張・東濃地域の窯業、そして滋賀県は都周辺に位置する関係で古来神社仏閣用の建築用材の伐採が行われてきたところだ。瀬戸内塩業が江戸時代中期より石炭火力依存だったのは塩付き山の薪炭の枯渇(禿げ山化)が原因だった(千葉徳爾『はげ山の研究』1956、農林協会、1991年に出版社そしえてより増補改訂版)。
ジャンボ操車場のある向日町駅(京都府)
ロングレール輸送(山陽線)
駅周辺の高層ビルだがビジネスホテルが一棟、それ以外はアパート・マンション。
日本はきもの博物館(現在は「はきもの資料館」)に関してだが、博物館機能を残しつつ別途、福山大学(たとえば薬学部)か福山市立大学の共同利用施設をここ(駅前地区の一角に立地)に誘致したほうが土地利用面、したがって都市政策上はよいと思う。
・・・・回廊的な機能しか持たない車道が賑わっているだけで、街路は並木が植えられとても感じよく整備されているが、顧客吸引力をもつ事業所はコンビニと自動車教習所程度だから、いつも閑散として来街者などほとんど見かけない。
なお、自動車教習所だが、塩田の跡地利用。
開催日時
7月15日(日曜日) 午前10-12
集合場所:松永・潮崎神社境内
テーマ:本庄重政の町づくり
図中の④:集合場所
6月例会時は本庄重政(1606-1676)の新田開発事業の特徴に関して本庄と同様池田光政の臣下であった熊沢蕃山(1619-1691)の政治論策を引き合いに出しつつ、説明した。本庄の新田開発は新都市建設(上之町~下之町にかけての町場の建造)を伴うユニークなものだった。今回はその点に関して経済的な結びつきの強かった尾道町or 竹原町の事例を引き合いに出しつつ説明する。
配布資料
本荘の中では「」(自己の身礼の変妙を自覚できない、普通にいえば無礼な人間)と分類された人間に対しては斧ならぬ刀を使って切り捨て御免?!
理由つけは滑稽だが、人間と禽獣とは両眼視という面で共通する。しかも行動面を観察してみると禽獣も礼(例えば夫婦愛・仲間同士の朋友感覚)を心得ているようだし・・・、違いは人は神変の気(「気」は陰陽五行説上の概念)を受けているのに対し、畜類は変屈の気を受けていると考えられると。話は人に転じ、人も変妙の結果千変万化で、と呼んでいいものもいるのだと。形は人間だが、心は鬼、すなわち鬼心というケースを数々見てきた本荘だったろうが自らは(妄想心から解放され)仏心を供えた人間として生を全うすることの大切さを自分自身に対して、またもしかすると(折角親父の本荘重政が後見人となった形で10歳の時に500石の待遇で仕官させてもらっていたのにそのチャンスを生かせず、福山藩の客分重政の死と同時に武家社会から放逐されるほど出来の悪かった)息子(1645年生まれ)に対しても言い聞かせる意図が『自白法鑑』には込められていたように思われるのだが・・・・、さてさて真相や如何に。
本荘のユニークなところは彼の言う「禽獣」とは仏教経典が説く「餓鬼畜生」中の畜生の類でない点だ。可能性の問題として、罪人(50-51頁)も畜類も普通の人間同様に死して空妙(例えば場所的には天上世界、心境的には弓射の時の無念無想・・・48頁)に至る。また、つらつら観(おもんみる)に天の性は衆生の聖愚を隔てず、受(うく)然にその性を授かって正用(せいよう)なるを聖となす、不用を愚となすのみなりと書いておりこの辺は陽明学の言説を受容したものだろうか、氏より育ち、どんな人間でも心掛け次第で立派になれるという論法だから寛容性のある考え方といえよう。本荘には罪人に関する言及がある。
すなわち業悪邪道の人は悪名が世間的に流布し社会的な制裁を強いられるものだが、罪人だって死んでも空妙に至らずということはない(50-51頁)と。すべてのものが救われる式の本荘のこの考え方だが、断っておくが、親鸞の「悪人正機」説とはまったく別もの。
まっとうな人間(正確に言えば「妄想心から離脱出来た人」)にするには心身のうちの身体の矯正が必要だと(理由は人間は体/心からなり、後者は体の影に過ぎないから、影をいくら矯正しても無駄だという訳だ・・・【α】)。ってことは、いまではすっかりご法度となりつつある、体罰を伴うスパルタ式教育採用ということになるのだろう。本荘には修験道とか修験者といった、「六根清浄」を唱えつつ、身体の生理的苦痛を克服しながら仏道の修行に明け暮れる人たちに通じる心性を感じる。
断っておくが本荘は「人の形は消滅あれども、心は不生不滅の性なり」(2頁)と考えていた。この場合人の形は身体つまり体のことだ。さらに「心はよく人体を養育すといえどもまた能く体を呵責す」(27頁)とも…【β】。【α】と【β】とは一見矛盾するようだが、前者は人の病に対する外科的な、そして後者は(心療)内科的対応の有効性を示唆したものと考えればよい。陰陽ということで言えば、前者は陽、動脈、masculinity=男性的原理に基づく処置、後者は陰、静脈、femininity=女性的原理に基づくそれと考えれば納得出来ないこともない。
熊沢蕃山は『集義外書』(110頁)には「人の心は人の形ある間の事なり」と。私的には熊沢の考え方のほうがよく理解できる。
masculinityー不動明王像のキャラクター特性ー
本荘の気質から考えて、剣大明神を不動明王像の形象をかりて表現したところは何となく解るような気がする。
本庄重政が『自白法鑑』に面白いことを書いていた。
水と器を巡って水の器に住するか、器の水を住せしむるか、水器不二なるかという禅問答風の記述だ。
要するに主客関係で言えば水と器のいずれを主とするかあるいはその双方を主でもあり客でもあるのかという話なのだ。
ルビンの壺(るびんのつぼ、Rubin's vase)だが、文字注記から対面する二つの顔の方を主題(主あるいは図:figure)、顔と顔の間の黒い部分は背景(地:ground)として処理されている。
こちらはやや傾向の違うだまし絵だ。
選択する観点の違いに応じて少女(少女のあごの線が老婆の鼻の左側の輪郭線、同じく少女のネックレスが老婆の口唇)あるいは老婆の横顔が読み取れる。そして次のMessage d'Amour des Dauphinsだが・・・エロスを認識できない幼児は数頭のイルカが泳ぐ絵だと理解するらしい。
本荘重政(1606-1676)が提起した水か器かの命題だがこの話題は文字の形(字ずら)と文字の実(意味)、妄想心を捨て清浄なるときは人の心は仏という文字の実に触れることが出来るという話の続きに出てくる。
すなわち、水と器を巡って水の器に住するか、器の水を住せしむるか、水器不二なるかということだが、本荘は「悟り知るべし」と書いている。つまり修養を積んで自分で答えをつかみ取れという訳だ。禅的な意味での正解はむろん「水器不二」。
この記述が登場する前後には「水月(写真は@京都天龍寺)(自然界に有りふれている「モノ」といった解釈(空気のように当たり前のように何処にでもある→あってもありふれていてその存在に気づかないという意味では「何処にも無い」同然)から、「空(くう)」を表す)」「見性悟道」といった禅宗用語が目立つようになるのでこういう解釈でよいだろうと思う。
江戸初期の日本を代表する陽明学者は池田光政に一時仕えた熊沢蕃山だが、岡山藩主池田光政のもとを離れて浪人になったという点で同じような経歴を有する10歳年長の本荘(1644年、39歳時に岡山藩から禁錮状を出され、浪人。49歳時に夫人の兄上田氏が家老職を務める福山藩の客分に)とは共通の時代精神の中に生きていたのだろう、しばしば類似の比喩(あの福沢諭吉が徹底的に否定した「陰陽五行説」からみの比喩)を使っている。例えば、
たしかにこの一文からでも熊沢蕃山の文芸表現の巧みさや識見の高さは歴然
大橋は熊沢蕃山の治山治水論を捉えて日本最初のエコロジー思想家だと持ち上げ、わが国の環境倫理学者にも同様の評価をする人がいるが、本荘は水野時代の福山藩の財政基盤整備の為に塩浜開発を金山に代わるものとして果敢に行っていった(未確認情報だが、水野氏は藩領内で金山開発を精力的に行った。沼隈郡内についていえば地質学的可能性などほぼ無視した形で、そこらじゅうで探鉱を行っていたようだ。『沼隈郡誌』によれば金山彦社の類が高頻度で見られる)。言うまでもなく蕃山は塩田の造成は周辺山地の禿山化をもたらすし、新田開発は古田の荒廃を惹起するとして大反対していた人物だった。土木工事現場の統括責任者の人生が本荘重政の人生観を形作り、それを晩年になって書記化したものとして『自白法鑑』があったという理解の仕方でよいのだろうという気がする。
熊沢蕃山同様に本荘の書いたものも雑学趣味を反映したものだがまことに意味深長な”変”・”妙”(例えば空変・空妙・・・変/妙/奇/絶/佳/曲などは頼山陽が景勝地を表現するときに多用した語だと指摘→作庭家重森三玲「山陽の水西荘庭園と彼の風景観」、『庭園』147 号、日本庭園. 協会、1932 年、8-11頁)といった概念とか、二項コード:形/実、形/影を提示しつつ筋の通った叙述を心掛けている。ただ全般的にはそれぞれに道徳価値を割り当てられた図形や数値を多用(操作自体はきわめて稚拙な数秘術:仏教の五輪、儒教の五常、風水術の羅盤のようなものに独自の解釈を付加))しながら儒仏的知見をつまみ食い的に摂取した道徳哲学風教説を展開したもので、(『松永町誌』418頁は幽玄だと論評しているが、)ユニークだが、やや言葉足らずのところも感じられ味気ない。この味気ない部分が実は本荘の真骨頂を発揮した部分(「自白法鑑」の大半部分:4-43頁)だとも言えると思うのだが、その神秘主義的処方は今のところわたしの理解できる範囲を大きく逸脱している。熊沢蕃山には『易経小解』・『八卦之図』・『繋辞上伝』という著述があるが、本荘のそれは似て非なる内容なのだ。
やっと『自白法鑑』読解作業の入口付近まで小舟を乗り付けたかなという状況だが、船着き場は結構波が高くて・・・・(その後、Gregory Batesonではないが、哲学的思考の背後には数学的知が必要だと思うが、本庄の陰陽五行説がらみの神秘主義的(術数学=広義の占術的)教説に対してはわたし的には一切論評をしないことに決した)
草葺屋根時代の面影を残す、隣家の間隔。奥にある石垣(急崖)は山裾を削って町場を造成した痕跡。崖下には井戸が掘られている。湧水を処理するための溝
向かって左側の源五郎家は境界いっぱいに屋根を出している。松四郎家は3尺さげて軒下を通路として活用。
奥行が14間4尺(26m)。山裾を削って町場を造成したことが判る。
往還に沿った主屋と裏の離れに付属屋(各世帯の事情によって借家/家畜小屋/倉庫・土蔵など)
急崖下の井戸(計測はしていないが深さ壱丈程度あるらしい)。側面には石組が施してある。ここに井戸を掘リ、屋敷の両側に溝を通すことによって屋敷地は湿気からは大いに救われてきたはず。
穴があるので「牛繋ぎ石」かと思って調べてみたら・・・・
そこが平たい漬物石だった。重量は30㌔はあっただろうか。かなり大きな石だ。松四郎家は代が変わり一家のご当主は令和に入って土地建物を売り払い広島市方面に転居。
主催者側としては6月18日は史料の熟覧と撮影(純粋に史料調査)を行う予定。時間があればそれに基づいた本荘重政研究、例えば遺著『自白法鑑』など踏まえた本庄重政晩年の「心の風景(inscape)」に関して解説するかもしれない。
6月例会配布資料・・・・本庄重政晩年の論理と境地に関する詳細は7月例会に回すこともある。
追加資料
岡山藩から「奉公お構」の通達が出され、本荘自身は仕官の道が立たれたが、池田光政のもとを去った理由が本荘自身に奉公の希望がなく、「工夫の道を広め」るためだったとは・・・・。渡り鳥人生を選択し、備後福山藩領内で行ったことは新田開発とニュータウン建設事業だった。
大橋健二は江戸初期の代表的な陽明学者熊沢蕃山の著書の一つ『集義和書』の中の一文を捉え、その精神の気高さを称賛。たしかに本荘重政と同じような陰陽五行説関連のレトリック・比喩を駆使した蕃山だが、その文章には心に響くものがある。
その点本荘の文章はまことに味気ない。
蕃山の治山治水論を捉えてかれこそ日本のエコロジー思想家の先駆けと持ち上げている。古くより蕃山は治山植林論者として認識されておりその限りにおいて間違いではない(吉田東伍『徳川政教考』、冨山房、明治27)。
そういう面では水野時代の福山藩の財政基盤を整備する立場から塩浜を金山に代わるものとして導入するなど本荘は殖産興業を優先した開発論者と言えたかもしれない。
なお、福山藩では松永湾岸の「内海」(干潟や水面)を藩主水野勝成の殺傷場(狩場)として指定し、予め漁労生活を営む周辺住民をそこから締め出す措置を取りながら、干潟干拓後の貞享3(1686)年には湾岸10ヵ村(山波・高須・西村・今津・神村・柳津・藁江・金見・藤江・浦崎)より漁猟に対する課税(運上金)制度を設け、藤江村(漁猟)請所(岡本山路氏)にその役割を担わせている。また新規の新涯築立に対しても同様に田畑塩浜の面積に応じた地代銀を山路氏に対して納付することを義務付けている(『松永町誌』、390-391頁)。