- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

戦国時代の旅行記集:『近世初頭九州紀行記集』

2016年09月28日 | repostシリーズ
戦国時代の旅行記集:『近世初頭九州紀行記集』 December 15 [Sat], 2012, 20:50
中近世の紀行記に見る備後地方





『中書家久公ご上京日記』

沼田の城(小早川居城)→沼田川を渡河し七日市→備後に入り三原の又左衛門家に宿泊し、やがて三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)、高丸という地名は沼隈郡山波村の標高一〇六㍍程度の山の名前としてはあるようだが、そこに山城はなかった。また『沼隈郡誌』494頁には沼隈郡高須村の村鎮守今宮さんの旧社境内は「高丸」にあった)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿→山田(熊野)の町・山田城→鞆津(という言葉の使い方に注意、「今津の町」の四郎左衛門(寺岡の四郎左衛門と同一人物)は宿所を経営)。『中書家久公ご上京日記』を読むと尾道に関する言及が無く、三原ー御調本郷ー三成ー今津ルートを使ったかなという印象が確かに強い。

ところで、こういう水準の低い素人談義もある。
問題個所多々だが、一例をあげると・・・・・
今津の町には新旧の二本の山陽道があり、両者を結ぶ路地が縦横につながっている薬師寺の前の道が秀吉時代の山陽道であり、 江戸初期の尾道の高須の埋立により、蓮華寺・本陣前の道が山陽道となっているとも述べている。要するに筆者は中世末から近世初頭における本郷川左岸および本郷川ー藤井川河間の海岸線の後退状況についてほとんど念頭に置くことなく、有馬喜惣太の取材情報を薬師寺の立地する今津町後丘陵一帯に当てはめ新旧2つの山陽道のルートを論じている訳だ。
誰が考えても当時の本郷川を西側に渡ってそのまま今津町後丘陵端道(平坦路)をさけてわざわざ海抜15メートル以上もある薬師寺山門前に至る坂道を秀吉が大軍(備中高梁川では渡河のために舟を25,6隻調達した程度の兵員数)を引き連れ登るといった難儀なことをして、アゲ方面に抜けたとは考えにくい。アゲに抜けるには丘陵端を通過する西国街道をそのまま西行し通称オオカミ小路で曲がるほうがよほど楽だ。そもそも秀吉道が薬師寺山門前を通過したという証拠(伝承・遺跡・遺物)は何一つない。また有馬の言う山麓にあったとされる往古の往還が何処のことを指して言ってるかは分らないし、一番問題になる点はそもそも往古の山麓道なるものが秀吉が通過した山陽道だという前提そのものの妥当性に関してだ。
(⇒新稿において否定済み、よって削除)
A:三宝寺に至る、B:御調本郷経由にて三原城に至る、X:字西ノ坂、Y:字西田(西国街道通過)




明治30年の正式2万分1地形図・・・その後の研究で本郷村市⇔東村・永松⇔西村萬福寺前を通過するが近世の「府中往還」(府中ー尾道連絡路)


以下は冗談として処理して頂ければ結構だが、わたしなどには、奉仕団をつくり住民総出で出迎えたであろう天下の覇者秀吉の行軍(季節初夏、旧暦4月9日に)という一大イベントがアゲあたりの曲がりくねったアップダウンのある住民たちの生活道(例えばXを通過)をぞろぞろ行くような形で展開していたとしたらそれこそ秀吉に服属した地元の大名たちにとっては赤恥ものだったろうという気がする。アゲ辺りの曲がりくねったアップダウンのある通路はわたしの感覚(羽柴秀吉と戦って敗れた明智光秀が敗走中に落ち武者狩りで殺された京都市伏見区小栗栖を彷彿とさせるという意味)では落ち武者道そのもの。愛媛県の弓削島(上島町)の周回道路は交通史に興味のあった皇太子さんの来島を契機に新たに整備されたものだと聞いたが、物事って今も昔もそんなものだ。天下人が通過する道は粗相がないように前もって整備されたはずだ(史料的には『広島県史古代中世資料篇Ⅴの山口県文書館蔵史料に一部秀吉下向時関係のものがある)。』


『豊臣秀吉九州下行記』(菊亭家記録2)・・・川辺(備中、高梁川西岸川辺宿)より名護屋まで一里毎に塚を築く(一里塚)

三宝寺より三原城まで8里(3.6キロ×8)  丹念に秀吉が行軍した経路確定のための物的証拠(遺跡・遺物など)を丹念に集めていかなければ確かな議論はできないだろ。後日既往の研究成果、当該古道に関する研究誌をチェックしてみよう・・・・その後の分析で秀吉が九州下向時②通過したのは三原ー尾道ー井原ルートだと判明。


【メモ】『中書家久公ご上京日記』の記載事項と「備後の山城」配置から推定される16世紀当時の山陽道(山手ー御調本郷ー三原ルート)との関係(検討中)


【メモ】京都洛東の古道伝「頼政道」(『源平盛衰記・巻15』に登場する源頼政の園城寺~奈良への逃走路)。東海道、
伏見丘陵を越える、奈良街道(京都~宇治・岡屋千軒経由で奈良に至る古道)など、京都には伝承古道の話題には事欠かない。
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松永史談会のこれまでの足跡

2016年09月27日 | 松永史談会関係 告知板
1)雑誌「まこと」の全巻の目次に関して写真撮影と村田の編集執筆した郷土誌関係の書籍の収集(熊野町村田家(露月氏三女瑞穂さん健在中)にてフルザイズデジカメで目次を悉皆的に写真撮影済・・・大正・昭和期の沼隈郡の動向把握

2)歴史資料室にて明治期の松下勘造調製「測量図」の熟覧と撮影(済)・・・松下は明治26年には尾道町全図を調製した当時の腕の良いMapmaker(等高線にすべき部分は旧態なケバ表現・・・明治20年代は欧米型の近代測量技術の移入期で松下には水準測量の技術がなかった)。今津村測量図に関しては今津村役場に地籍地図制作費関係の史料がある。尾道市市史編纂室にこの辺の情報は伝達済

3)大石井家にて武井節庵関係の史料採訪////武井研究はその後も継続し令和4年に武井節庵研究は完了2025年度市民雑誌に論文形式で投稿予定(松永史談会2024年8月例会)

4)野取帳と及び若木屋(地方文芸誌「青むしろ」)資料のチェック・・・・・「村史」すべて写真撮影。若木屋文書中の「人生画帳」(歴史民俗覚書)の大半のついては放置。

5)広島大学蔵の「検地帳類」DL済(東村・松永村検地帳の撮影ミスについては広大図書館に連絡済、広大側からミス確認の連絡あり、その他の検地帳についてもかなりの頻度でミスがある感じだ)。
6)「当村風俗問状答書」(京都大学蔵)と平山の紹介論文。

7)国土地理院正式2万の1地形図(複製)購入・・・・・この地方最古(明治期の測量図調製の数年後)の地形図。
8)博物館で展示された「風景図屏風」を熟覧(史料調査完了)・・・・小学校の屋上から湾の展望、そのあと善性寺門前の巨大供養塔を見学・・・福山城博物館友の会たより54、2024に論攷を掲載済。
9)尾道・渋谷家墓地および幕末の漢学者:宇都宮龍山墓
播磨屋松之助(高諸神社狛犬寄進者)の墓とかれが建立した父親のための供養塔を見学。

10)本郷奥山内の今津山・小田谷探訪・・・・・・ワラビの採集。
11)今津宿の旧まぐさ場:大平山および高須・西村・今津村入会干潟干拓地「三ヶ村」を探訪
その他。10・11において今津村の周辺探検は終了。
a)今津村・松永村の境界を歩く・・・・・千間悪水を荒川から羽原川まで、鞆街道を湯屋ヶ橋~馬取まであくる。
b)松永潮崎神社界隈から明神端、中世の「つるぎ浦」の故地を探訪・・・・「尾道文化」41に小論考掲載。
c)『浦崎村誌』の執筆者小畑正雄さん宅を訪問(誠之館高校校長だった息子さんの奥さんが健在)3冊入手・・現在継続中の浦崎調査の出発点となった。
d)藤江・山路機谷関係遺跡(威信財)の確認と作田高太郎の著書の収集と生地探訪。
e)河本亀之助・東京洛陽堂その他の書籍の収集、高島平三郎の著書に関しては論文原稿を含め主要なものはかなり収集済み。高島平三郎の明治18年当時の銀板写真を高精細に複写し、写真を額装し誠之館同窓会、神村・須江公民館に寄贈済。
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松永史談会7-10月例会

2016年09月27日 | 松永史談会関係 告知板
6月例会 博物館で松永村古地図(宝暦期)の熟覧→歴史資料室で史料収集(明治初期の野取帳の一部撮影)
松永村古地図の原本調査は予備調査は終了、今後本格調査実施予定。

7-8月例会は 字西田の「正一最上位長徳稲荷社」の調査。

9月例会は長波(竹本屋・尾庵に挨拶)の巡検(excurtion)実施

10月例会は安毛・山下~沖田(→柳の内)の巡検予定
中世の「井出」、沖田の灌漑水系(親池:長草田池)、中悪水溝造成工事、今津一里塚、 柳ノ内(末広座前の町場化)、荒川さんの共同井戸(寄付金芳名板)

南部生涯教育センターにて明治40年ごろの沼隈郡青年大会関係の古写真の熟覧と解説(10月24日実施)

10月現地見学会:現在の予定では10月中旬以後(10月17日実施)。
基礎地盤コンサルタントによる溜池堰堤ボーリング調査・コアデータの観察と分析・・・・・中近世の溜池造成技術
「長草田池」(今津池)と本郷町立神「二ツ池」・・・・・それぞれ別の日時に実施(10月30日実施)
目的:コアデータの写真撮影。

テクストリーディングス:村上正名「」は折を見て
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今津村検地帳の検地作業の推移と場所定位方法

2016年09月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

6尺1分の間竿を用い、一反300歩として計算し、石盛を出す。
山地は目測や歩測によったり、時には適当な数値を記載しただけというところすらあった。田畑は地形の如何にかかわらず十字法といわれ不規則な田畑でも出入が相殺されるよう長方形とみなし計測された。




今津町の南隣:町前から始まりそのまま新田開発地を西に移動、王子丸・坂(現在の矢ノ上)へと北上し、水内・西ノ坂と西村境に移動。次は場所を、町上に変え中間・長波へと北上。本郷川を挟んで対岸に移動し、安毛・大明神、安毛の残りを処理し、沖田部分は東から西に測量を進め、最後に柳の内・東・東青谷・東剣脇といった当時の本郷川のデルタ地帯を経て今津町に至り、今津町周辺の未検地ヶ所を測量し海に面した沖にて終了している。
台帳なので藩政村の境界の確定状況など判然としないが、隣村松永村総図(支配図で、元禄期の検地内容と宝暦期の土木工事などの履歴などを図示。図内には御水帳の地番と字詰帳の地番と称する2種類が表記、何カ所か誤記がある。性格的には脱漏が100筆以上に及んだ明治19年直前段階の松永村地籍の誤りを内包したままの、地主個人が所有した私的な図面)から当時の検地の実態が少しく透かし見えてくる。つまり、村(例えば山がちな村)によっては測量自体のいい加減さとか地元案内人の岡山藩派遣の検地役人たちに対する非協力的態度などいろいろ問題を内包した元禄検地だったようだ。

案内人は6人で、庄屋・組頭の4名を含めると10人体制で検地作業に協力している。案内人については又市(今津町・・・・村内各所に農地を保有)、久七・市左衛門は長波・中間・長庵あたりに農地を保有。


検地帳の最初のページは又市の保有地(宅地サイズの田圃って・・・・・)から。



堂祠に関して興味深い処があるので最後にその点に言及しておく。それは

それは今津町内とそれに隣接した外部に布置されたお堂(地蔵堂)の所在地表現にある町内・町西・町外れなのだが、
畑・屋敷の立地した今津町後ともどもそうなのだが、①今津町がここに隣接する場所との間で「外れ」「前」「後」という風に分類されている。②地蔵堂が集中した今津町内とその周辺だが、「町西」(王子丸神社も町西)は町外れではないが町内からは西側に外れる区域とみなされた。ここと今津町内とに分けられている。ちなみに元禄検地帳に言う町内の地蔵堂は明治期の今津村測量図では字今津町の東端近くの札ノ辻に位置する。このあたりから町西地蔵堂(現在坂田店の隣)の東に位置するおおかみ小路あたりまでが元禄期における今津町の町内に当たる区域だったのだろうか。仮にそうだとしてこの範囲の屋敷数を明治の地図で試算してみると30程度になるので元禄検地帳に記載された今津町の屋敷数とほぼ同じにはなる。ただこれは単なる試算なので当てには出来ない
元禄時代の今津町(の屋敷地)の総間口が計算可能なので後刻それを算出してみよう。
吾妻橋西詰に位置するジオウ堂(元禄期以後の建立、類似の音に十王堂があるが・・・・じおうどう→焔魔堂?というのはどういう性格のお堂なんだろ。町内には2つある。一つは通称「ジオウドウ」の「十王堂」/「地王堂」といま一つは長波の通称鐘鋳久保:旧火葬場奥、現在は小学校脇の広岡山山頂部に移転)のある一角は現在字町上にあたり、吾妻橋の東詰めにあたる元禄検地帳記載の字柳の内とおなじく検地帳記載の字今津町との間にあった東・東青谷・東剣脇といった現存しない地名の一部はその中に統合され、消滅したようだ。ただ、明治の測量図中の字町上内の地番を見ると、665-690番地と1300-1400番あたりの土地が混在しており、これは明らかに小字名の整理統合の結果現在の字町上域が形成され、その中で消滅した小字地名があったこと判るのである(例えば字「藪岡」・・旧土屋家住宅付近、字「地王堂」)。
薬師寺境内及びその参道脇に字堺を示す破線が入っているがこれは地番から考えて誤記だと判る。
あとで野取帳のほうも見ておこう。
 


黄色丸は地蔵堂。
左側の地蔵堂は町西のそれに当たる。


元禄検地帳中の今津町内の屋敷地の奥行きが最長10間程度、現在旧西国街道北側の屋敷地は奥行17間程度あり、明らかに元禄以後山裾部を削って屋敷地拡張を行っている。旧本陣・河本家住宅の門前の坂道は削り残し地形を反映したものか一度発掘調査が必要だ。街道南側はいまも奥行10間程度。街道から20メートル南側にいくと地質は海岸低地性の泥質土になるらしい。
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元禄期の今津村の字地名

2016年09月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


黄色線は元禄検地帳作成当時の推定海岸線




東→東青谷と続き、その次が「同所剣脇」.
東青谷に関しては『村史』中の安永7(1778)年7月6日付文書に「青谷新涯の樋、破損汐入の事」に言及したものがあった。青谷新涯(干拓堤防の一角にあった樋門が壊れ海水が流入)とは字柳ノ内の西国街道以南の区域(実際問題として、字柳ノ内の海側を悪水が通過するので本郷川左岸の今津村内には樋門は存在しえない)を含め概ね緑の楕円内の新涯(干拓堤防の存在に注目した場合、蓋然性が高いのは本郷川右岸、つまり旧今津小学校側)だったと推定される。



同所剣脇=東剣脇




所在地は無記載だが、記載の順序から言って惣四郎屋敷(河本姓)は東剣脇か今津町、その続きが惣四郎が保有した今津町の上々畑(23.5間×6間)そして善四郎屋敷(平櫛姓)。惣四郎屋敷(18間×9間)が一体のもの乃至は隣接したものだった可能性もあり、その場合は後述する本郷村番屋屋敷+畑のケースと同じであるから当該屋敷地は今津町に立地したことになる。ただし、事柄はそれほど簡単ではなく、惣四郎屋敷の前に記述された市郎兵衛・善五郎・利右衛門・五郎右衛門らの屋敷との関連でいえばそれらは東剣脇・今津町のいづれに属したかはにわかには決しがたくなるのである。
ただ、字町後に竹藪を保有する10名を調べてみると薬師寺・蓮花寺以外は字今津町に屋敷地を保有する人物で占められている傾向があるので、惣四郎屋敷は今津町に立地した蓋然性が高い。
元禄期の面積は畑とあわせて1反3歩。明治初期の野取帳では942坪なので元禄期以後(おそらくは本陣ー脇本陣が整備された安永期、ただし今津宿には制度的には脇本陣はなく、安永期以後は西坂より現在地に移転してきた蓮花寺が本陣消失時に補完機能を担い、またそれ以前は薬師寺が同様に本陣機能自体を一時的に担った)に大幅に拡張されていたことが判る。町内で式台のある所は確認済のところでいえば、薬師寺・蓮華寺・尾庵村上氏(近世組頭)。長屋門をもつ竹本屋村上家住宅は未確認。



沖は辺と共に位置格として機能する語だが、位置的には辺(例えば海辺、山辺道の山辺の”辺”)に比べると、きょっと距離が大きく離れている感じの、下流側とか位置的にはより低地にある場所に対して付与される言葉で、位置格的な性格を帯びつつ地名に使われる。例えば山裾の地名Xに対して、より地名xとの相対的な場所関係において眼下にあるとか低地寄りのところにあるような場所に対して地名X沖(沖合の”沖”と海辺の”辺”の語感面での距離差、日常会話の中での語としての”沖”や地名用語としての”沖”は海のない内陸部で多用されている)が分布するといった風である。字の沖は通称沖浜を指すのだが、今津町に対して今津町沖といった感じの地名だ。沖浜という呼称はいまでは字前新開の一角を表す呼称に過ぎないが、海に面していた江戸時代前半期の空間イメージを引きずった地名だ。今津村元禄検地帳では字今津町の次、つまり検地帳の最終ページを飾る字地名となっている。町組的には今は中組だが、かつて沖浜は東組に属した。元禄検地帳上の字「東」は現在は字「前新涯」になっているが、現在の公民館・保育所あたりを指したかもしれない(要確認)。


史料解釈
記載事項のアーティキュレーション(articulation)・・記載方法の原則を探る
検地帳では田畑には字が記載されているが、屋敷にはない。そのため検地帳の記載様式(方法)にある特徴から、その屋敷がいずれの字にあったがを見届ける必要があるのだ。例えば、下の史料中の清三郎屋敷が字西坂にあったのか、それとも字町上にあったのかの判別だ。この史料の場合は以下に示す本郷村番所と附属畑の事例からbで分節化し、清三郎屋敷/畑は直後の字町上にあったと考えてよいのだろう。


本郷村の番所屋敷と附属畑はともに字「山手いたやさこ」(山手板屋迫、板屋は本郷村庄屋を務めた佐藤武彦家の屋号)、なぜなら番所は字立神ではなく、山手橋(本郷温泉峡入り口付近)にあったからだ。現代人には誠に分かりにくい記載方法を取っている次第である。これは誰誰(例えば今津・清三郎)の屋敷という情報は当時は今津・清三郎(公儀名)という名前自体が場所性を含む性格のものだったからだろうか。


こういうケースもあるので惣四郎屋敷の場合以前に東剣脇のあったと指摘したが、そうではなく今津町であって、そしてそれに隣接して惣四郎畑も今津町にあったという見方も出来るのだ。元禄検地帳上では惣四郎屋敷の前にはこのような東剣脇から続く屋敷群があり、まことにヤヤコシイことになっている。

市郎兵衛の東剣脇にあった田んぼ2筆に続き市郎兵衛屋敷が記載されている。この場合屋敷は東剣脇にあったのかどうか。また市郎兵衛屋敷の次に書かれた善五郎・久三郎・小兵衛そして惣四郎はどうなるのか、まことに判断が難しい。



についても同様で、記載された六筆の土地の内、前2者は柳の内、屋敷地は字東に属する4筆の中にあったと見られる。
同様に

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2016年09月20日 | 断想および雑談


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転向後の西川光次郎(光二郎)の生き方

2016年09月19日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
平民新聞は印刷屋に原稿が回った段階でいち早く発行禁止処分を受けた。この離れ業をうっかり活字にしてしまったのが、第二代特高課長の丸山鶴吉だった。
かれは社会主義者の才能を認め、彼らの能力を反社会的な方向にではなく、もっと社会的意義の大きな別の方向にむけさせようと思っていた。
その網に引っかかった最初の魚が西川光次郎(光二郎)だったようにわたしには思われる。西川文子は当時を振り返って恩師新渡戸稲造、松村介石そして高島平三郎の世話になったと述懐しているのできっとそうだろう。
この辺の問題は西川光次郎に関する詳細な評伝を書いた田中英夫は見落としている。見落としているといえば高島平三郎と鈴木テル(河本テルの旧姓)との間に生まれた猪瀬謙一の存在についても田中は沈黙している。田中さんは学習院時代からの高島の教え子で、学生時代は小杉の父親の希望で永らく(てか人生の大半を)高島家に下宿していた人物小杉吉也の記述(「高島壽子追悼録」)に注目しており、猪瀬謙一の存在には気づかなかったようだ。この辺はルポライター田中の残念な部分というほかない。
こういう決定的な失点を重ねる田中英夫だが、やはり彼自身のルポルタージュ文学的手法の手ぬるさと洞察力不足(膨大な事実を列挙しつつも真実に辿り着く一歩手前で記述が終わること)に起因していると思う。
高島平三郎は明治32年暮れに夫人の西川(旧姓志知)文子が女学生時代の京都府立高女に講演で訪れている。

洛陽堂は後年、夫光次郎の著書と共に文子らの書籍も出版をしている。文才のなさから平塚雷鳥ほど、西川文子が世間的な注目を受けることはなかった。

西川は釈放後、高島主催の楽之会での講演依頼を受けている。当時西川には警察による尾行がついていたりしていたはずだが、すこしも世間体をきにせず生活支援を兼ねて洛陽堂は何冊かの書籍を出版している。この辺は丸山鶴吉ー高島平三郎ー河本亀之助(洛陽堂主人)がしっかりとタッグを組んでいたので洛陽堂としても躊躇はなかっただろ。
西川光二郎のケースと加藤一夫のケースとは若干違いが感じられるがイノシシが牙をむかれ豚になった連中だが、山口孤剣 を含め両者のために出版活動を通じて苦境に置かれた彼らに対して手を差し伸べたのが洛陽堂だった。

西川文子らの著書に高島は序文を寄せたりしている。大正10年当時西川は修養団の蓮沼門三らと同様に雑誌「まこと」の定期購読者だった。


昭和に入るとかつての社会主義者の中には国家社会主義者になり下がる連中も出現。そうした中の一人が西川で、彼は儒教道徳をベースとした国民意識の変革を体制変革に優先すべきという信念を実践していく修養運動家として大正末には内務警察官僚で元警視庁特高課長だった丸山鶴吉と行動を共にした。
すなわち社会主義運動から離脱した西川は大正15年の建国祭(赤尾敏提案、丸山が準備委員会を立ち上げ、その委員の中に西川光二郎)には準備委員会のメンバーとして参加。西川の性格上思いっきり右旋回して疑似右翼の丸山と行動を共にするまでになっていた次第である。

西川は転向(意地悪く、変節と揶揄した荒畑寒村のような御仁もいたが、正確にいえば西川の場合収入源としての著述能力面での「挫折」)前後のことは人にはあまり語らなかった。
息子の西川満は実践道徳の考え方を行商(全国遊説)した西川は基本的に殉教者だったと。生涯、列車の三等車に揺られながら全国を講演旅行等で回り、自宅には書斎も持たなかったという。正義と愛に貫かれた人生だったらしい(297-299頁)
西川は獄舎につながれていた2年間の間に、人間一人ひとりのこころが汚れているうちは社会制度を変えても社会はよくならないと考えるようになった訳だ(297頁、西川光二郎遺著『入神第一』、昭和16、子供の道話社)。
昭和16年段階には原重治は西川先生追悼の辞の中で「先生の御最期は明らかに孔子学会否日本青年に向って決死殉道報国の教訓を垂れ実践の命令を発せられた」と結んでいる。国家社会主義者、皇道主義者そのものだった訳だ。
愛と正義の終着点が皇道主義とは・・・・・  西川光二郎という方はその程度の人間だったということだ。

西川には尾道通過時にうたった短歌がある。
紺碧の海を隔てて向島、櫻は白く棚引きにけり(『入神第一』、153頁)

大林の尾道三部作のロケ地となった向島・龍王山(地王山)の桜。千光寺山側のことも念頭に入れてるかも知れないが、直接的にはこの風景を詠んだものだ。
西川が監獄につながれている頃、同じ囚人生活をおくっていたのが倉敷出身の山川均だった。出獄後10歳年下の青山菊栄と結婚、かれらは信念を持って社会主義思想を持ち続け戦前の疾風怒濤時代を乗り切っている。
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松永湾の眺望から

2016年09月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

神村・西山の川本金一さんのお宅近くから見た松永湾。霞んでいるが浦崎半島の山並みが視認できる。
近景に邪魔なものが映り込んでいるが一度金毘羅さんからの眺望を見に行こう。
金毘羅さん辺りには活断層(長者ヶ原断層、横ずれ断層)の断層線が走っているらしい
裏写真上の赤矢印は戸崎。その手前の高圧鉄塔の立地する低山は福山市神村町・本郷町境の大平山




ちょっと変わり者の合理主義者粟村さんは最近ゴルフ好きの娘婿のためにゴルフ場(№14番ホール)脇に当たる、この西山に土地買ったといっていたが粟村さんのことだから畑の脇に小屋を建てそこを鴨長明風の方丈庵化するのだろうか。

日野外山にあった鴨長明の伝方丈庵跡探訪

方丈石という巨岩と「方丈庵」伝説との混同があるような気がするが、ここがふつうに言われている鴨長明の伝方丈庵跡なのだ。日野から供水(こうすい)峠を下って炭山経由で近江石山(石山寺)方面、日野の尾根筋をそのまま北上すると上醍醐寺(真言系の修験道の拠点)。長明は王朝国家期には摂関家の山荘(たとえば藤原道長ゆかりの浄妙寺)の御膝元にあって当時繁華な町場を形成していた旧巨椋池池畔の岡屋千軒(宇治市)を訪れたり、戸山を起点としてあちこち行脚している。

図中の⑲「戸山」(日野外山)・・・・・・鴨長明の方丈庵のあったところだが、この古図では「東岩屋殿」(山科神社の巨大磐座を指す)「龍谷」(風水用語だが、延喜御陵=醍醐天皇陵東方の北醍醐小学校裏手急崖谷、水が枯れているがかつての水垢離or瀧行場のような感じのところで、その手前に龍神さんを祀った神祠(@北醍醐小学校東方の山地内【鳥居マーク】)が建つ。この神祠の手前に洛東用水が通過)などの洛東地区における注記の付け方から類推してなにがしかの信仰上の聖域として「戸山」を書き入れたのだろうか。周知のように上醍醐寺の醍醐水、伏見・御香(ごこうの)宮の御香水、供水(こうすい/こうずい)峠の供水など名水関連の場所だ。

地震といえば慶長伏見大地震(1596)。伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊


わたしは関西地方での在住期間(40年間)が長かったので故郷のことより、そちらのことの方が詳しい。
勧修寺(かじゅうじ)といえば居宅から近かったこともあって何度か門跡(元皇族:山階宮家の筑波)さん会っていろいろ大石順教さんのことなど伺ったことがあるが、今から考えると大塚全教(身障の尼僧)さんの話題も出てきたのだが、彼女がわたしが門跡の筑波さんにお会いする一年前に亡くなられていたこともありこの尼僧が沼隈郡東村出身の人物であることを最近まで知らなかった(最近確認したのだが、お墓は福山市東村町大谷にある実家付近の菩提寺境内墓地の、ちょっと離れた傍にある)。
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永井潜『医学ト哲学』における高島平三郎の序文

2016年09月01日 | 高島平三郎研究
永井潜と高島平三郎の関係が語られている。永井潜の母方の叔父:馬越恭平(1844-1933、岡山県井原出身の実業家)
序文の中では浚明館において従兄馬越篤太郎がよく高島のそばに来ていたことにも言及。こういう自分が表に出てしまう序文を書いたのは高島のやや特異な性格を反映してのこと。しかし、一人の神童(永井)をまっすぐに育て生涯を通じて友人として交流を続けた教育者高島の手腕と永井の人柄には恐れ入る。
蛇足ながら子弟教育という面では高島は3人の息子を帝大(2人は東京帝大の法科と文科、一人は東北帝大・医科)に進学させたが、どうも永井のところの息子たちは親を超えることはできなかったようだ。あとで紹介する富士川游のところは息子・孫とも外国語・文学関係だが東京帝大と東京大学の教授になっている。






医学史研究の大家で同郷同学の先輩:富士川游の序文









永井『医学と哲学』は明治41以後、吐鳳堂書店版(向かって右端)→洛陽堂版(大正11年、中央の書籍)→文化生活研究会版(大正14年、向かって左端)






経営面で行き詰まりしつつあった当時の洛陽堂を支援するためにだったのだろうか、永井は名著『医学と哲学』の版元に関してわざわざ吐鳳堂書店を引き払い、大正11年洛陽堂に委ねている。永井の『生命論』洛陽堂、1913、『生物学と哲学との境 』、洛陽堂、1916に続きこの本も洛陽堂からということになった。これら永井の著書出版を通じて洛陽堂の評価が一挙に高まったとされる。

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