屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の博学な知識のほとんどは書物から得たものでしたが、彼自身は文献的知識だけでは不十分であることをよく心得ていたようです。それは、文化年間(1804-18)に「諸国風俗問状」と題する質問状を木版で刷り、日本各地に送って回答を求めるという斬新な調査方法を採用した事実からもうかがえます。
質問は「門松の事」「ひな祭の事」など131項目にわたり、それぞれの地方の年中行事や風習が細かく問われています。弘賢のこの試みは、のちに日本民俗学を確立した柳田國男(やなぎた・くにお)によって、民俗学研究の先駆的業績であると高く評価されました。
「問状」がどのくらい発送され「答書」(回答)が何編届いたのか、正確な数はあきらかでありませんが、現在までに展示資料を含め約20編の「答書」が確認されています。
沼隈郡今津村の答書がこちら
実物は京都大学のデジタルアーカイブ上で全文公開中。
質問は「門松の事」「ひな祭の事」など131項目にわたり、それぞれの地方の年中行事や風習が細かく問われています。弘賢のこの試みは、のちに日本民俗学を確立した柳田國男(やなぎた・くにお)によって、民俗学研究の先駆的業績であると高く評価されました。
「問状」がどのくらい発送され「答書」(回答)が何編届いたのか、正確な数はあきらかでありませんが、現在までに展示資料を含め約20編の「答書」が確認されています。
沼隈郡今津村の答書がこちら
実物は京都大学のデジタルアーカイブ上で全文公開中。