- 松永史談会 -

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松永史談会5月例会のご案内

2022年04月29日 | 松永史談会関係 告知板
5月例会のご案内-第一報-
  
日程及び開催場所
5月27日(金曜日)、午前10-12時、開催場所:福山市今津町・薬師寺本堂
中世今津に存在した金剛寺(現在は廃寺)の本尊:如意輪観音像の拝観及び
「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」

広島県年表(1374-1600) 松永史談会「2021-11月例会レジュメ」④⑤に整理し掲載。
関連記事(松永史談会の研究成果公開分)//
参考文献)備後国守護山名関係の事柄については岸田裕二『大名領国の経済構造』岩波、2001,及び岸田裕二『大名領国の構成的展開』,吉川弘文館、1983など。

【追記】
『沼隈郡誌』に天平6年6月と銘打った「剣大明神由来記」に「御山の内厳島弁財天とて石あり」(495頁)の記述。これについて昭和に入り神主を務めた金原氏はわざわざ拝殿の西北脇にそれらしい石組(金原さんは「青むしろ」か「?」の地方雑誌中の小論文の中で「磐座」)を新造し、そこは旧来より厳島(宮島さん///厳島のことを宮島と呼ぶのは明治以後、この時代には剣大明神境内の弁天岩を厳島弁財天だという認識が消滅していたことを示唆)と名付け云々と紹介していた。内容はfakeだったが、この厳島弁財天は石段脇の所謂「弁天岩(明治10年には元禄7年の石灯籠と一括して闇龗神社と命名)」を指す。この辺の口伝は戦前段階には神主さんたちの間でも不在だったのだろう。さらに『沼隈郡誌』掲載の伊藤梅宇撰文「剣大明神縁起」(496頁)にその霊験として「而して或いは龍女献燈の事あり」の一節を記述しているが、剣大明神境内にはそれとは別に厳島弁財天=龍女伝説が伏在していたことが判る。この辺のものは金剛寺本尊:如意輪観音像(像高さ50~70㎝程度のまことに小さなもの)関連の伝承だろうと思われる。剣大明神縁起とは別に、本社の境内地には金剛寺とリンクした如意輪観音-厳島弁財天‐龍女信仰が複合していた点が確かめられたように思う(2023年5月5日)。


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天候に恵まれた17日は、福大通り/山陽本線高架橋へ

2022年04月18日 | 断想および雑談
撮影は△マーク地点より

南側の風景(浦崎半島 正面に尾道市浦崎町青木)⇒撮影地点(△)から青木


北側の風景⇒撮影地点(△)より本郷町旧本郷温泉峡・府中方面


北側風景の解説
追加解説@本郷奥山

参考までに本郷城山東方~北東方の眼下に見える風景
城山の眼下には旧沼隈郡本郷村の諸寺が(寺d=東蔵坊)立地した。
北側の風景とは山側、南側とは海側のことで宮本常一世代の福山市内に居住した地域史研究者村上正名はその接触点をテーマ化しそこでの研究テーマ(地理学的にいえば「生活様式」/ mode of life or lifestyle)をやや文芸的だが「渚の営み」にあると規定していた。そこでのポイントは農山村と漁村との交流(例えば物流)という側面と共に,無論そのこととも関連していくことではあるが干潟の発達した瀬戸内の風土に根座した議論(環境史/開発史)に繋がってくるのだろうと思う。『瀬戸内海の研究』において宮本は地域/海域としての瀬戸内海島嶼部の「環境・歴史・文化」にスポットを当てた訳だが、わたしの本日訪れた福大通り/山陽本線高架橋上で懐いた感情はこういった先人達の視座を俯瞰できる論理的な枠組みを新たに構想・提案・準備していくことの必要性についてのものだった。
数年前までわたしがよく訪れていた№10高圧鉄塔からの松永湾の眺め。 遠山は四国山脈、右端の方のピークが石鎚信仰で知られる愛媛県の石鎚山。参考までに言及しておくとこの地方の住民は鳥取県の大山を石鎚山と同様に信仰対象の「遠山」(大山信仰の聖地)として認識してきた。
宮本常一の地域史研究は島嶼性という切口から瀬戸内海の中近世史(正確に言えば「風土」の歴史)に関し宮本流のやり方での俯瞰形を提示したもの。
№10高圧鉄塔からの松永湾の眺めは一つのやり方として四国までを含めた遠近法的思考の可能性に気づかせてくれる。

なお、高圧鉄塔№9-№10の間に小田谷があり、その谷頭には江戸初期には小田(こだ)と呼ばれる銅鉱採掘を生業とした山師たちがつくった小集落があった。そこを通過したのが東蔵坊方面から府中・新市方面に抜ける近世の小田越道だった。

元禄13(1700)年段階における屋敷持ちとして金右衛門と五郎右衛門の二名の記載、そのうち前者は7反程度の山畑保有。

広島県年表
元和5年(1619) 水野氏,福山城下町建設のため安那郡神辺より大念寺を,沼隈郡神村洞林寺(本科一部4年・橘高忠・・・昭和3年6月『広島県福山師範学校校友会会員名簿』19頁・・・機会があれば場所を特定////遺称地は神村一区、調査済、寺跡は不明。道林寺池があるが、そこは字洞林寺ではない。墓地が立地するところが寺跡かも知れないが不明。グリーンハイツの猪原さんが佐藤久夫さんの屋敷脇に金属製の看板を便宜的に立てていた)より洞林寺(境内墓地内に森鴎外の歴史小説『北条霞亭』の主人公の後継者北条悔堂(1808-1865)墓あり、隣に賢忠寺水野勝成墓など)を城下に移転させる。この頃から,領内より城下に移転の寺院増加〔近世 1・福山市史〕。
寛永10年 4 尾道町,宗旨人別帳を作製する〔尾道・渋谷文書〕。
寛永15年(1638) 沼隈郡本郷銅山の金山寺,品治郡宮内村へ移転する〔近世 1〕⇒旧本郷温泉峡の一角に伝「寺屋敷」という比較的狭い地片があるが、ここが金山寺跡(なお、品治郡宮内村へ移転した金山寺についてはその真偽/存否について『備陽六郡志』『西備名区』などの史料で要確認)。
寛永20年(1643) 水野勝重,領内各地で銀山探鉱調査を命じる〔小場家文書〕
前述の小田集落(江戸中期に廃村)はこの時代に形成されたものだろうか。一帯は江戸時代を通じて藩有林だった。
廃村小田に残るむかしの間歩(まぶ)の出入り口
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尾道・千光寺&向島龍王山の桜

2022年04月03日 | 「okey dokey(オキドキ)」へのgate

正面に向島・兼吉の丘(竜王山、途中に旧日立造船保養所「秀山荘」、現在予約制パスタ店”See So”////展望抜群)




山頂展望台Peakからの眺め
浦崎半島付け根 下組串の浜からみた千光寺山(4月5日撮影、山頂部に桜並木と寄棟型屋根の市立美術館の建物、山頂部左端に尾道城跡展望台などが見える)


新型コロナ感染の危険性はしばらく忘れてという花見客も・・・。このところ感染者が広島県内では増加中だ。山頂展望台Peakから桜に囲まれた寄棟型屋根の市立美術館一帯(遠くに忠海)方面をみるとこんな感じ
尾道城跡展望台からの眺め
尾道城跡展望台
向島竜王山側より見た千光寺山 若い鶯の拙い鳴き声に包まれた向島竜王山山頂
帰り道 教育実習最終日(打ち上げを兼ねて)にちょっとお色気サロン(ホステスと先生とはかなり顔なじみだった)にわたしを連れて行った恩師の居宅(空き家)に立ち寄ってみた。隣近所で消息確認したが確かなことは判らなかった。不思議なもので先生の生家は民俗学者宮本常一と同じ、山口県の周防大島だった。写真撮影が趣味でスライドを使った授業中に夕陽の朱が上手く撮れたと「宍道湖の夕日」写真を自画自賛された先生の姿が今でも懐かしい。

ちょっと写真らしく撮ったつもりだったが画角が小さすぎ残念な一枚

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