- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

旦過寺@東広島市西条町(山陽道安芸・四日市)駅裏

2023年11月24日 | repostシリーズ

広島県文化財ニュースという雑誌のバックナンバーをチェックしてみた。この埋蔵文化財調査関係の分野は予算が潤沢なのか情報が豊富だ。ちょっと目にとまった情報・・・・・旦過寺@安芸・四日市
吉野健志「御建遺跡の発掘調査」、広島県文化財ニュース204号、平成22.10-15頁。
『芸藩通志』に秀吉が泊まった四日市(東広島市西条町西条、JR西条駅北側)の旦過寺(現在は旦過寺観音堂)の記事を確認予定(12月03日に確認済み)。安芸国分寺跡は土地割でもそのジャンボな範囲の痕跡が追跡できる。上道(うわみち)は近世の西国街道の古道(古代山陽道の遺構と考えられてきたもの。道幅は側溝を除くと150センチ程度のかなり細いものだったようだ。この上道は南東方向に直線的に伸びて、近世の山陽道と同様、松子山(まつごやま)峠に向かうことが想定できるようになったらしい、前掲論文12頁。古代の官道としては道路幅が狭すぎるので先行研究に当たるなど、要注意。現在御建公園野球場になっている一帯の円形のくぼ地はなんだったんだろう。戦時中の軍用施設?実は大正13年造営の御建神社付属の神苑付属馬場:

「御建(みたて)馬場」だった(現在は公園化され野球場)

旦過寺跡南側を南東-北西方向に土地の起伏を無視した形で伸びる直線路は「上道」(うわみち)。古代の山陽道の痕跡だと見られている。

四日市(JR西条駅)を西に通過すると山陽道及び山陽本線線路わきにひろがる田園地帯(古代条里制の痕跡が明瞭→田園部に見られる碁盤目状の土地区画)に石見瓦こと西条瓦(赤瓦)の印象的な民家が散居する農村風景となる。現在は東広島市駅前周辺の都市化が進み、市街地化している

『芸藩通志』賀茂郡 四日市・五郎丸村図中にある御茶屋は旧西国街道沿いの本陣(現在賀茂鶴酒造↓)を指す。
御茶屋は豊田郡本郷村図中にもある。なお、沼田庄の故地、本町図中には「風呂小路」。
参考文献:例えば
足利健亮:吉備地方における古代山陽道⇒内容的には全くダメ。(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅲ』、大明堂、1981,99-105頁に転載)

高橋:『古代交通の考古地理』、大明堂、1995(備後地方は手薄で隔靴掻痒)及び『広島県史』(こちら要確認、高齢の米倉二郎執筆の場合は内容の確認が必要・・・ちょっと見、真正面からは扱っていない)
国土地理院地形図
GoogleMap松永史談会

◎旦過ついては

  1. 松永史談会記事➊
  2. 松永史談会/拙稿「尾道の『丹花(たんが)』について」、尾道文化40(2022)、63-71頁。
  3. 平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』、国史研究叢書第二篇、1934、至文堂→卓越した学知的感性。
  4. 服部英雄『中世景観の復原と民衆像-史料としての地名論-』、2004→豊富な事例を掲載
  5. 榎原雅治『地図で考える中世: 交通と社会 』、 2021/3/27→思考面で上滑りや論理の飛躍が目立つ。
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松永湾岸一帯の様々な井戸-民俗学的メモ-

2022年10月01日 | repostシリーズ

浦崎にはと称する灌漑用の溜池が沢山ある。
これに類するものが『松永湾岸図屏風』にも記載されていた。



共同井戸といえば尾道・天寧寺のジャンボな共同井戸とか松永・「上之町」の「鍛冶屋川」だが、こちらは同類の共同井戸、柳津・市場組の共同井戸:通称「磐井」(中世史料に登場する「柳井津」(元禄検地帳上は柳津と表記)の柳井に当たる井戸だろうか)。神武天皇ゆかりの高島宮に引きつけ同天皇の上陸地の石碑及び貴船神社(水神さん)など井戸脇に立っているので、比較的最近、そういう文脈の中で付された呼称(つまり磐井という名称)だろう。類語に石井(松永・入江屋石井家一族の屋号は松井・吉井・安井・丸井とか井戸起源)。松永・字内小代ノ上の荒川


長波・下條(下組)の共同井戸・・明治初年の野取図中に山畑脇の「井」(面積は1間6尺×1間8尺・・面積2坪程度)


野取帳記載の安毛の共同井戸


実物がこれ・・・いまは上水道の整備によって使われていない。


長波・先牧組の共同井戸


山路機谷のいた藤江の各家庭の井戸・・・・りっぱな井筒だ。各家庭がこのような状況なので恐れ入る。この井戸のことはいざ知らず、近所の岡田さん(金江境)宅のものは塩分がひどく飲用できないとのことだった


安毛の天水(屋根に降った雨水)を貯める形での井戸



佐藤孫吉所有内の灌漑用溜池


高垣助七の所有地脇の灌漑井戸。野取り図にある「助七池」というのは高垣さん個人の灌漑用ため池のことだろうか。


2384番地の畑内に「掘」




現在は宅地(佐藤姓)


長庵・村上藤七所有地内の「坪」は井戸ではなく耕作地の隅に掘られていた屎尿をいれる野ツボを指すのだろうと思う。


水の利用形態はところかわればかくも変化に富んでいる。松永湾岸一帯のその問題は製塩業(鹹水=海水)と農業(真水=淡水)との相克だけではない。井戸の問題を丁寧に調べ上げれば研究になるがそれが誰もが注目する面白い研究になるか否かはその人の能力次第。井戸端をめぐる路地裏(尾道久保の水尾井など3つが集中し、傍らに熊野神社)などのフォークロアまで行きつけばすばらしいが・・・・そうなると文学的センスも必要になってくる。

この史料には現在松永駅の構内に当る場所に,明治8年当時、岡田新三郎所有畑に付属する形で存在した「私有井戸」(面積2坪)があったことが分かる。面積から想像するに、この「私有井戸」とはおそらく冒頭で紹介した『松永湾風景図屛風』中の浦崎あたりでは「堀」と呼ばれている灌漑用の小溜池あるいは井戸ではなかったろうか(以上2016/11/18 08:15:36投稿記事) 。雨水を含め陸水(淡水)の用途と貯留方法にはその土地の風土性なり、風俗(folklore=民俗の知恵)なりの有り様が反映される。
いろいろあれこれ隣地調査の結果を紹介してみたが、あくまでもわたしの基本的立場は史料面からその中にfolkloreを探るというもの。例えば、中世文書の中に登場するいわゆる「ズーズー弁」風の言葉で表記したものとか絵巻物/絵図に登場する犬追物原のようなものだ。

関連記事① 松永史談会2018-12月例会
関連記事②

福山市柳津町中組(「中世地名の「風呂の木」の故地)の場合共同井戸を介在させる形で「薬師堂」と「中組クラブ」(集会場)が立地。文字通り井戸端会議の場が形成されていた事が判る。
柳津・西組字つるぎ下(鞆往還脇)の井戸(塩分を含み、牛馬の飲料水用に使われた井戸・・・地元の人の話では明治4年の農民騒乱時に焼討ちされた旧西久井屋柳田栄助屋敷にあった3つの井戸の一つ)

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江戸の有名文化人(漢詩人)だった武井蘭之助(節庵)青年

2022年05月29日 | repostシリーズ

福山市今津町薬師寺本堂裏西側墓地に門弟の豪農石井四郎三郎(松永村)&石井藤七(東村)によって建立された墓石がある。

江戸に天保7(1836)年当時現存した諸家564名を姓のイロハごとに分類し、分野、住所、出身地などを記しているのが西邨[宗七] 編『広益諸家人名録』天保7(1836) 金花堂須原屋佐助発行
この史料の中に武井節庵の名前を見つけた。しかし、その彼は梁川星巌の玉池吟社に出入りしながらも大沼枕山のような星巌門下の三羽カラズでもなく、河野鉄兜や江木鰐水そして阪谷朗蘆と接点を持ちながら、武井は密かに”よそ者扱い”をうけていた。しかも、藤江・森田節齊の推敲塾の立ち上げには山路機谷側のスタッフとして縁の下の力持ち的な役割を果たしながら、山路機谷や五十川訒堂のように森田の師友門下生リストに名を連ねることもなかった。
武井節庵の漢詩の先生:菊池五山はお稽古礼金の額の大小によって漢詩評論本『五山堂詩話』中で手心を加えていたらしく、節庵の親父も『諏訪八勝図詩』がそうであったように、息子を早い段階から有名詩人として世に出すためにいろいろと画策していたように思われる。私的にやや意地悪く云えばそういう事の成果として吉田霊鳳とその息子2人が『広益諸家人名録』天保7年版&天保13年版へ掲載されたという気がしないでもない。
それがこちら↓
漢詩:武井雪庵(蘭之助、節庵、養浩堂)@麹町貝坂・・・・なんと~節庵(雪庵)15歳(なんとも不自然!)、詩は菊池五山、大窪詩仏に学び鬼才といわれたと。有名知識人録に名を連ねた元服年齢に達したばかりの少年・武井雪庵(1821-1859)。これはその後の彼の人格形成にどのように作用していったのだろ。明治の三詩人といえば小野湖山・大沼枕山・鱸松塘。晩年の節庵は若い頃からの漢詩人仲間だったこれらの人との関係も絶っていたか。
天保13年版、武井節庵22歳
『節庵詩集初編』
漢詩:高島藩士吉田霊鳳(吉田豊八、1786-1836)@芝将監橋・・・・・・武井節庵の実父(50歳で没)、『諏訪史概説』によると霊鳳は17歳の享和3(1803)年に江戸に出たと。経学を山本北山、詩を大窪詩仏に学んだようだ。蛇足ながら節庵(武井霊鳳の次男)には吉田(奫)大淵と言う弟,吉田加藤太という兄貴がいた。
武井節庵の親父武井士廉(吉田霊鳳)が仲の良かった兄貴(長兄)の武井見竜 (寛、田疇斎)の漢詩集「田疇斎遺稿」の校訂を行っていた。

「田疇斎遺稿」は明治23年に至って、見竜の孫:武井一郎が叔父の岩本士善と相談の上再校訂し、出版されている。それがこちら。なお、孫の一郎の幼少期(弘化元年、1844)に祖父見竜は没しているので、一郎の出生は天保期だったことが判る(この書籍の余白に諏訪郡湖南小学校校長山田茂保さんの談話として。一郎長野在住時に強盗に殺害されたとメモ書きされている)。
武井節庵の知人大沼枕山
大沼又蔵(枕山)@下谷和泉橋通・・・・天保13年段階には枕山の住所は芝山内だから、この住所は天保7年段階の旧住所だったということになろう。これは旧知の友・武井節庵から出てきた情報だったことを強く伺わせる。
梁川星巌@上野於玉ヶ池

武井節庵(王三畏/武井葆真)が藤江の豪農山路機谷屋敷逗留時代に残した足跡(『未開牡丹詩』安政3 [1856] 刊の編纂作業、おそらくその名目上はともかく実質的中心は山路伯美=機谷本人ではなく武井節庵だったろう)


頼山陽の故郷でもある西国巡歴を始め、最終的に藤江村の山路機谷のところに転がり込む訳だが、江木鰐水が坂谷朗蘆に当てた手紙の中では都会育ちだが、昌平黌出身者でなかった武井はまったく信用の於けない取るに足らない人物(=同志とは扱えない人物)として分類され、武井は幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした輪から完全に外され、(多分に江木の性格にもよるのだろうが、)時として江木による失笑・苦笑の対象にすらされていた(『朗廬先生宛諸氏書簡集』山下五樹、1994)。どうしてそういうことになったのかは謎だが・・・、同時期に山路屋敷に居候していた河野鉄兜と違い武井には江木らにとって人物評価基準(例えば勤王家森田節斎は四書をすべて暗唱した素晴らしい学者だと江木は大絶賛)面で何か不十分なところでもあったのだろうか。あまりに気の毒なので少し武井を弁護しておくと、彼のルーツを考えた場合伯父武井見竜(1781-1844)が人生の後半期を信州国諏訪に「隠遁」していた肥前国の小藩鹿島藩(2万石)の家老坂部堅忠の息子(享保16年に坂部家改易のため浪人となった坂部忠廉(堅忠)の四男:貫之、出家して未了を名乗り、50歳代至り還俗して「天龍道人」を名乗る。未了時代には「国事に奔走し身危うくして踪跡を失し世その死所を知らず。年齢50左右にして諏訪に現れ(還俗して)姓王名瑾」を名乗り、天龍道人、渋川虚庵とも称す。この御仁がすなわち「貫之なることは明治年間に至り」、自身の祖父武井見龍『田疇斎遺稿』の校訂作業や見龍撰文「天龍道人碑碣銘」の考証作業を通して知ることを得た。武井一郎『天龍道人事迹考』大正5年、16頁、諏訪郡渋川氏系図参照)にして江戸中期の尊皇家渋川虚庵(1718-1809)→一説によると竹内式部,山県大弐(だいに)の宝暦・明和事件に関係した御仁(要確認)(通称「天竜道人」)の門下生であったし、その見龍亡き後、節庵は江戸を引き払い一時的に諏訪に帰省。それからほとんど間を置かない形で西国巡歴に出奔。そういう行動をした背景にはある種の故郷喪失-Heimatlos(例えば伯父や実父の死が惹起した類の故郷喪失)と云った類いの感情もあっただろうが,それ以上に尊皇の志という伯父一族(諏訪郡豊田村小川在住・武井家本家)ゆずりのやむにやまれぬ思いというか、パトスのようなものにつきうごかされるといった部分が26歳時の節庵にはあったようだ(『諏訪史概説』の著者山田茂保は武井家の言い伝えとしてそういう意味の話を紹介している)。ただ、山路機谷のもとに転がり込んだ後亡くなるまでの間における武井自身の生き方の中に"国事に奔走"したと言える部分が有ったのか、それとも無かったのか・・・。


江木は坂谷にあてた書簡中において「武井君は収入を得るために倉敷に行くんだって!」風に記述していたが、それは頼山陽風にいえば紙と筆一本をもって「行商」(頼山陽の主たる収入源は書/画を描いて得た礼金だった////徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』、1932、民友社、56頁)にいくことを示唆したものであったのだろう。
武井節庵墓(広島県福山市今津町薬師寺本堂裏墓地)
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武井一郎『天龍道人事迹考』については松尾和義『柳子新論と天龍道人事迹考』、2021年、99-192頁参照のこと。
なお、当該の『天龍道人事迹考』は天竜道人に対し流離した貴種のイメージを重ねる形で脚色された「渋川貫之」譚を念頭にそのbiographyをやや偉人化しつつ、潤色気味に再構成(テキスト・クリティークは必須)。例えば先祖の説明に鹿ケ谷の変において平清盛によって吉備中山に配流された大納言藤原忠親を登場させ、忠親の人生と天竜道人のそれとをさりげなくタブらせるといったことをしている。また、天竜道人自身が鹿島藩主の相続争いに巻き込まれたとか巻き込まれなかったとか、新藩主の徳川将軍への謁見が遅れその責任を被らされる形でお家改易になったとか、そういう芝居じみたプロットを含む部分のあることなどを念頭に置きながら、テクストとしての『天龍道人事迹考』を慎重に眺めていく必要ありそう。ただ、私的には武井節庵研究においてはこういう天竜道人に関する記述部分はノイズ(無用な情報)としてカットしていく。
『豊田村誌・下巻』(諏訪市豊田地区公民館/2013.3.)第五章13節(140-142頁)に「武井見龍とその影響」(未読)
吉田霊鳳の著書「不求堂文集初稿. 巻之1-4 / 吉田清 著」///節庵初集の跋文を所収。

参考文献及び史料類 鉄兜遺稿
「天龍道人碑碣銘/57」所収、武井一郎『天竜道人事迹考』1916、97頁。
阪谷朗廬関係文書
武井元卿著『節庵初集』養浩堂蔵刊、天保13年、

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース:武井節庵 節庵初集解説(一部引用)
○武井節庵は名恭のち亨のち葆真。字安卿のち元卿のち虚白。通称蘭之輔のち精一郎。別号養浩堂・雪庵。文政5年生。信濃高島藩儒吉田鵞湖(士廉)の次男。同藩武井家の養子となる。菊池五山門。天保7年版『〈当時現在〉広益諸家人名録』に「〈詩〉雪菴〈名恭字安卿/一号養浩堂〉 〈麹町貝坂〉武井蘭之輔」。天保13年版『〈当時現在〉広益諸家人名録二編』に「〈詩〉節菴〈名亨字元卿/一号養浩堂吉田霊鳳男〉 〈芝将監橋〉武井精一郎」。天保8年12月に致仕(本書巻4の一丁表参照)その後、西遊、備後沼隈郡藤江村(現・福山市藤江町)に滞在して子弟に教授する。後に今津駅(現・福山市今津町)に移る。安政6年8月4日病没38歳。墓所は今津薬師寺(『広島県沼隈郡誌』773頁に墓碑銘の写しあり)。その他の著作、『春秋百吟』(*日本左伝研究著述年表並分類目録等による)、天保9年序刊『諏訪八勝図詩』(編著)、『声画漫録』(*近世漢学者著述目録大成による)、『養浩堂雑集』(写:茨城大菅)、『養浩堂詩集』(*近世漢学者著述目録大成による)。塩田序と東条跋によれば、武井家は織田信長に仕えた右筆武井夕庵の後裔という。


参考までに河野鉄兜が和友・門弟に宛てた書状(80通)、知友・門弟が鉄兜に宛てた書状(20通)を収録した河野鉄兜 [著],田中真治 編纂『鉄兜及其交友の尺牘』、昭和4年には武井節庵関係のものは不在
2023年3月5日 追加資料:鉄兜遺稿 1-2,河野維羆 著 ; 河野天瑞 編

関連文献:田村祐之「河野鉄兜の四国・中国旅行の旅程について」,姫路獨協大外国語学部紀要 (27) 1-23 2014年

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文化12年5月「沼隈郡今津村新畑縄帳」をながめながら

2022年05月28日 | repostシリーズ
現在同時並行的にいろんな史料の分析に取り組んでいるのだが、感じることはやはり江戸幕府政治の中に汚職を蔓延させたとしてやり玉に挙げられがちな福山藩主阿部正精(まさちか、福山藩第五代藩主、1803-1826)の時代についてみると、岡山藩が作成した『備後国元禄13年検地帳』の問題(測量の不正確さ、地元案内人提供の虚偽情報を真に受けているなどなど)が表面化、ために藩政の根幹を担う藩領内の土地台帳の修正刷新に踏み切らざるを得なくなっていったという部分だ。言い忘れたが、この検地は岡山藩にとっても大変な財政負担を強いられるものだった。今回取り上げる史料はそういう時代に作成されたもの。

広島大学の検地帳公開サイトで文化12年5月「沼隈郡今津村新畑縄帳」を作成した担当役人「森嶋伊丹」らを見かけた。

「外新涯外末広」にあった「下々畑 1反6畝10歩」、サイズは35間×14間、請人は「保吉」とある。



「外新涯外末広」とは現在の「前新涯」外にある末広新涯のこと。場所はここだ。
黒線内・・・ただし黒線内の面積は4反7畝程度あるので、文化期段階のこの地区の新畑はその3分の一程度に過ぎなかった事が判る。

担当役人は高島良助・横井門平・上田覚助(学介)・石谷瀬兵衛・今川丈助・森嶋伊丹・中山斧介
寛政12年の『阿部家分限帳』(『福山市史・近世資料編1-政治・社会-』、27-48頁)によると上田は御勘定方/20俵2人扶持。今川は郡奉行/70俵。中山は御大目付/50俵(.。『福山志料』編纂にかかわった大目付役中山光昭とは同一人物か・・・要確認)。森嶋はこちらでも言及した御仁:御使番/230石。
そういえば、得能正通は備後叢書『西備名区』の中で、本書の自筆本が吉備津神社に所蔵されていた時に、福山藩の神祇関係の役職についていたこの森嶋伊丹家にそれらが持ち出され、この段階には見ることが出来なかったとも書いていた。
前掲分限帳l記載の「高島」は高島猪兵衛のみ。浜本鶴賓文庫「阿部家家中系図纂輯」2には次のように掲載あり。高島良助 御用吟方/20俵3人扶持。のこる横井・石谷についてはいまのところ不詳。


福山藩士高島氏に関する関連記事
メモ:浜野徳蔵(漢学者浜野源吉の父親)に関してだが、利益誘導とか私利を肥やすところはなかったと思ってきたが、慶応期に干拓される中新開の土地の一部を浜野儀八名義で取得したり、娘婿であった本郷金原氏[神主金原但馬君の長男興盛(1813-1896,1839年に濱野徳蔵二女:由喜と結婚]が幕末期に沼隈郡本郷村きっての資産家になったり、同家が同様の便宜供与を受けていたことから考えて、今日流にいえばあの手この手で利益誘導を行っていた。今津庄屋河本氏や福山城下東町のこの浜野家はともに明治の農民騒乱時に焼き討ちされるが、やはり中新開などの新田開発の一件で大いに民衆的な反感をかう原因を自ら作り出していたのだろう。(要確認)
江木鰐水日記には浜野徳蔵・津川右弓屋敷への焼き討ちに言及し、後者については津川右弓ほどの人が民衆の反感をかっていたことが理解できないといった風な書きぶりをしていた。右弓の墓石は浜野家と同じ東町・長正寺にある
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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2021年05月19日 | repostシリーズ
永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは房州某発の情報だったか。あるいは鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に救貧施設「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを墓地のある台東区瑞輪寺あたりが把握しているかも(娘カネ及びその婿鶴林の子孫:令和元年10月6日没の曾孫東京都江東区の大沼千早さん)。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊

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『宇都宮龍山傳并遺稿』

2021年05月12日 | repostシリーズ
宮原節庵遺稿の巻4に「遺芳湾十勝詠並序」という一文を見つけた。西国周遊時(宮原は尾道出身、頼山陽門下で昌平黌を出て京都で開塾)の滞在先とか名勝として尾道の橋本竹下、山南の桑田翼叔とか阿伏兎とかの記述が散見された。山路家の別業白雪楼での接待が以下のごとくハイライト化されていた。




宇都宮龍山

2021年5月10日 広島の古書店にて川ノ上亮作『宇都宮龍山傳并遺稿』尾道市教育会、1931を入手。「宇都宮龍山傳」部分(1-48㌻)は龍山の経歴を知り得る唯一の史料。
宇都宮龍山は山田方谷(子孫に二松学舎学長山田準など輩出)永井荷風『下谷叢話』に脇役として登場する鷲津毅堂(尾張丹羽郡の鷲津家の一族)の親友[徒士身分出身で山林奉行だった宇都宮龍山、新谷藩(愛媛県)脱藩前は原田姓を名乗っていたが藩主から「不埒千万」と怒りを買った。『宇都宮龍山傳并遺稿』18-20㌻に依れば、龍山還暦を迎える文久2(1862)年には25年ぶりの新谷帰参を計画。実現は見なかったが、そのとき鷲津らは龍山のために藩側に対していろいろ恩赦免責工作の労を執っている]だった。毅堂自身は永井荷風の外祖父。なお、『下谷叢話』は鷲津家の一族:大沼竹渓父子、就中子の大沼枕山に焦点を当てた歴史小説。勝ち組vs負け組という事で言えば、鷲津一族の負け組(荷風自身が自分の生き様と何となく重なり合う部分を感じ、幕末明治期の漢詩人大沼枕山一族)にスポットライトを当てた歴史小説の名作だ。
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宇都宮龍山墓@慈観寺

【参考データ】
こころを動かされたのはこちら(幼子3人:智仙童女・壽光童女・秀月童女を失った.。漢学者宇都宮清(1803-1886)夫婦の哀惜の情が伝わってくる)
本日(2020年12月12日)一番の発見(^-^)/



三童女の墓石と対面する形で慎ましく宇都宮龍山夫婦墓(脇に小さな石灯籠)が建っている。
国会図書館デジタルコレクション『宇都宮龍山遺稿』、1931

宮原節庵については最近集中的に行った尾道調査の中でわりとしばしば目にした名前。尾道には菅茶山ー賴山陽縁故の文人たちのことに関心をもつ福山藩側でいえば浜本鶴賓のような人が郷土史家達(例えば財間八郎)の中に何名かいて、いろいろ「山陽日日新聞」などタウン誌に興味深い話題提供していた。わたしはこの「山陽日日新聞」(一面A3サイズ)については平成13年以後のものは一通り目を通したが、残余についてはまた機会があれば悉皆的に当たってみたいと考えている。戦前は一時期地域史研究者青木茂も編集に関わっていた。

これまでだれも触れてこなかったことだが、尾道には宇都宮龍山の実兄:松田与南(医師)が養子に来ていた
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『連雀之大事』(国立歴史民俗博物館編『中世商人の世界』、1998)

2021年05月06日 | repostシリーズ
連雀(中世的行)商人宿町の市(町)立て作法書とされる『連雀之大事』(元和7年)を見ていて、ふとその記述方法やその背後に見られる多分に修験者特有の呪術宗教的というか易学的というかその類いの思考法にはどうにも手に負えない本荘重政『自白法鑑』理解をする場合のヒントが隠されているような、いないような、そんな思いが漠然とではあるが、ふとわたしの脳裏に去来。
支離滅裂


『連雀之大事』(国立歴史民俗博物館編『中世商人の世界』、1998)自体は『自白法鑑』研究とは無関係に、必要に迫られ読解中(正確に言えば単に字面を追うだけ)だ。思考法は修験道系のモノだが『自白法鑑』に負けず劣らず説明は呪文そのものというか、万事こじつけ気味で、前論理的だ♪───O(≧∇≦)O────♪
熊沢蕃山の著書の中にも難儀なモノがある。『増訂蕃山全集』の第4巻がそうだ(監修者の宮崎道生もお手上げ状態 )。安藤昌益の著書の中にもけったいな内容のものがあった。そういえば尾道市のある寺にも、私にとってはなんとなく個性的で不思議な墓石があった(^-^)/、ちょっと違っていたか?

江崎玲於奈氏曰く「何をやるかでなく、何をやらないのかを見極めるのが大事だ。やらなくていいことはやるな」。そういう意味では『連雀之大事』などは、その取り組む必要のない対象なのかも・・・。

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松永村出身の片山辰之助『広島県新地誌』、明治24

2021年05月04日 | repostシリーズ
ここのとこしばらく尾道調査を行った。そのなかのチェック項目の一つが明治24年頃尾道で漢学塾:瓊浦(けいほ)学館を開いた片山辰之助の消息確認。だが残念ながら失敗に終わった。松永在住の片山さん(むかし養魚場経営)には予てより「片山虎之助」(間違って幾度となく辰之助とすべきところを国会議員片山虎之助と混同)さんのことを息子で画家だった片山牧羊の名前を挙げて問い合わせてきたが自分の一族内ではその心当たりがないということだった。
ところでその片山辰之助だが旧福山藩学生会の草創期の会員で誠之舎の入寮していた確か松永村出身の御仁だ。学生会発足時には入寮生をを代表して演説していたから、当時はリーダー的存在(旧福山藩学生会雑誌3号)だったのだろ。人物評では高島平三郎は「文学家」、片山は「滑稽家」、井上角五郎は「能弁家」、平沢道次は「熱心家」だったようだ。
片山『広島県新地誌』訂正再版(2020年10月13日大阪の古書店にて入手)
無題広島県新地誌
中身は高等小学校1年の郷土地理の教科書を念頭に編集されたもののようだが、県内の山川、名物・名勝名所などを特集した名勝図誌風の旧態依然。明治23年2月現在の片山の住所は御調郡尾道町1850番地(奥書にあるのは寄留先として東京市本郷区西片町10番地=旧福山藩邸内)、出版人の三木半兵衛(三木文明堂):尾道町311番地。


明治24年に帰省し、尾道で私塾「瓊浦(けいほ)学館」を始めたようだ。漢詩が得意だった。辰之助の息子に片山牧羊(夫人は松永町出身)という日本画家がいた。片山芳湾が片山辰之助の号。参考までに遺芳湾(松永湾の雅号)の遺芳は丸山鶴吉の号。芳湾は遺芳湾に由来する名称だろうから、こんな愛郷心あふれた号を付けたくらいだから、おそらく松永村出身者だろう(要確認)。参考までに芳渓は西川国臣の長男一郎(ジャーナリストで児童文学作家)の号。

高島蜻蛉は高島平三郎のこと。

片山が行った明治23年の誠之舎生総代祝詞原稿(旧福山藩学生会雑誌3号)・・・・一昔前の漢文調


武勇節操が弛緩気味なことを憂慮し、小田勝太郎・高島平三郎・川崎寿太郎・川崎虎之進らは誠之舎修武場で演武会開催を企画という記事。明治24年に高島を頼って上京した河本亀之助、二番目のバイトが川崎虎之進の書生だった。かなりプライドを傷つけられた感じで長続きはしなかったようだ。このバイトは高島の紹介であったことはもはや説明を要すまい。

何年か前に尾道山路家が中央図書館に寄託した史料類の中に明治期の漢詩愛好家の薄っぺらな回覧ノート風の綴じ本(蒸芋会 『五句集』、鶉ノ巻)を見たことがある。走り書き風のもので、そのときは関心がそちらになく内容のチェックはしなかった。この中に片山芳湾の名前があったかなかったか・・・・・(2021年12月に確認したところ明治12年段階のもので、当然片山とは関係なかった。同人は石井竹雨・亀山則々・石屋町大石病院内の松本梧葉・藤本索残・辻本越水・平岡錦村・久米悟柳・岡田鱶州・村上百声・土居次郎ら)。
大正10年段階の片山辰之助の消息についてだが、なんど60才近い年齢だったと思われるが東京市麹町区5番町18在住で、日本国勢調査記念出版協会主事に収まっていた。
『広島県新地誌』を見るに付け、明治20年代段階に於いてさえ、漢詩漢文にご執心だった片山辰之助は時流を読み違え、先見の明には些か欠けるところがあったように思われるが、河本亀之助と同年代の向学心旺盛な向都離村型旧備後福山藩領民(青年)というカテゴリーの中には定位できるだろう。この人物については以上でリサーチ一時保留(or 終了)。

令和5年ペルー大使の片山和之の出自は福山市松永町の片山氏。
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矢野天哉「高諸神社神明記・3」

2019年05月31日 | repostシリーズ




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「秀吉一行は鞆に・・・・」

2019年02月23日 | repostシリーズ
木下勝俊が著した文禄元(1592)年文禄の役時に京都から肥前名護屋までの紀行文『九州の道の記』(長崎健ほか校注・訳『中世日記紀行集』、小学館 日本古典文学全集48)にある鞆・神島の記述:鞆の浦近くに10日余り滞在し、泊りがけで宿陣先から名所歌枕の地:鞆の浦に出かけたとある。また旧知の人物と出会い、神島では蹴鞠をして友情を温めあったのだろ。緊張を強いられがちな行軍中のひと時の息抜きの感じられる一文だ。てか吉備津宮~厳島間の木下の記述は、(現実には多忙を極める中にもわずかな暇を見つけたといったところなんだろうが)この人物(備中足守藩藩主木下氏のご先祖)の人間性の反映か武人というよりは行軍の疲れを吐露し(=弱音をはき)つつ、現実逃避を繰り返す豊臣政権内の教養ある”お坊ちゃま”武将のそれそのもの



稲田のいう「鞆」は山陽道上の宿営地に訂正した方がよい。この人のイメージした「鞆」と「鞆の浦」とは実際の地理的実体としては同じものだ。


木下勝俊の行軍ルートについて稲田利徳は上図のように明石~鞆間を海上ルートだったとして理解し、途中龍野(二十日ほど滞在ヵ・・・・稲田利徳注)・吉備津神社には軍務を離れる形で途中下車しわざわざ出向いたとみている。その点の妥当性についてはここではあえて論じないことにするが、神島ー鞆の浦間もその延長線上でとらえ、船旅を続けて来た勝俊は「鞆」に到着し、そこから名所歌枕の地:「鞆の浦」を訪れ、そこからの帰途に就く途中の事柄として、旧知の人物と出会った「神島」を前掲図のごとく位置づけたわけだ。
これがまったくの間違いだったのだ。

図中のKが神島。黒が九州道上の宿営地(神島近辺の宿陣地・・・福山市の山手~赤坂辺りか)。

木下勝俊としては「鞆の浦」からの帰り、「神島」という場所に立ち寄ったもので、かれが引き返そうとした場所は山陽道上にあった山手~赤坂あたりの宿陣地に他ならなかった。宿の近くには辻堂があったようだ。勝俊はその宿陣地から陸路尾道に向かった模様。そういう意味では稲田の文学作品の地理的舞台に関するフィールドワーク不足は明白で、それが災いし、稲田の提示した木下勝俊の行軍経路図は信ぴょう性の低いものとなっている。というか稲田の場合はこの木下勝俊『九州の道の記』研究を全面的にやり直した方がよい。こういうのはダメ!






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The children of Oberammergau 2010

2019年02月11日 | repostシリーズ
ドイツ・バイエルン地方で10年毎に開催される村民総出で行われるキリスト教受難劇。最近は日本人観光客が増加中らしい。その村とはOberammergau だ。少年少女合唱団が歌う典型的なコラールだが、心に残る旋律だ。


EU諸国では歩いたり、自転車を使ったグリーン・ツーリズムが盛んだが、日本でははやくも京都の美山町内でかやぶきの里あたりで中国人による観光公害も・・・・
2020年は祭典の開催年だ。

南バイエルン地方にあるアマルガウアルプス山麓にあるOberammergauとはこんな村


〇バッハの「マタイ受難曲・第一部
同上楽曲の第二部
音源はカール・リヒター指揮 / ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団、1958年盤
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RE)宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図」

2018年12月01日 | repostシリーズ
宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図

どちらが誤っているかは簡単に解ることだが、宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図」中では悪水が立入川に接続する南北の2水路と交差する場所に樋門が描かれ、松永村古図のケースと大きく異なる。

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東京帝大医学部長時代の永井潜

2018年10月12日 | repostシリーズ
東京帝大の学生の描いた戯画の中の永井先生は・・さてさてどれでしょ?

医学部卒業記念写真。▲印の人物は夏目漱石の主治医でもあった帝大総長・長与又郎。その向かって右隣が生理学者で東条内閣時代の文部大臣となる橋田。橋田文相時代(1940年代)といえば、早稲田大学では古代思想史研究の津田左右吉事件など様々思想弾圧をこうむっていた。その隣が生理学者永井潜だ。長与の向かって左隣りが病院長なのに医学部長の永井が橋田に席を譲ったのは何故なのか。医学上の業績の差???????  長与は癌研究の世界的権威、橋田は実験生理学の我が国における権威だった。彼らに比べると永井の医学面での業績はやや少なかったとされる。ただ一高⇒東京帝大医科という典型的な秀才コースを歩んだ人だけに、その存在はかなりgreatだったらしい。
そのことはともかく民族衛生とか優生学の方面に注力していた頃のなんとなく険しい永井の表情が印象的。

戦後東京都知事となる東龍太郎が二列目。小野田寛郎少尉の長兄敏郎(その後軍医)はこの卒業アルバム作成委員会の中心的人物(前列中央)


永井は松永浚明館(松永西町の石井竹荘が子弟教育のために建てた漢学塾、明治16-18年 沼隈郡内の頭の良い農村青年たちが入門した漢学塾、ただ時代は沼隈郡あたりでもキリスト教の布教が活発化し、かつ近代科学の流入時代を迎えていた)で長谷川櫻南の教えを受け、途中、高島平三郎の忠告で広島師範付属小学校に転入学し、その後福山中学(誠之館)⇒第一高校(ドイツ語専修、無試験で)⇒東京帝大に進学した秀才だった。長谷川櫻南の浚明館には恩師をしたって教え子の高楠順次郎(東京帝大教授・文化勲章受章者)らも時々訪れていたようだ。
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その足で長草田池へ

2018年02月24日 | repostシリーズ
お歯黒


近世の今津村風俗答書に両親のいる15歳の未満の男子を外泊させる風習が記載されていた。これは谷川健一がどこかで書いていた「試験婚」という風習と関係するのかいなか興味がある。私の祖父の場合もそうだったが近世の元服年齢14、5歳で入籍しているというのは奇妙な風習だと思ったものだ。

今津でも結婚したり子供が生まれたりすると女はお歯黒・引眉(眉毛をそり落とす風習)したようだ。お歯黒も引眉も醜態の極みだと思われるのだが、そういえばビルマ女性の顔に「タナカ」という白粉を塗る風習があるが、結婚してタトゥをする習慣なども女性の美醜の差を使った未婚/既婚の身体標識だったのだろう。髪型も既婚者は丸髷にしたようだ。

お歯黒をして「半元服」、眉を剃り落として作り眉にすることを「本元服」と言い、成人女性と認められる通過儀礼でした。次第にお歯黒をつける年齢は十三歳、十七歳と上がって、江戸中期以降は、結婚前後に歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすようになっています。現在の美観とは全く違う、“お歯黒・剃り眉”のメークが江戸時代には慣習になって定着していたのです。

お歯黒の女性(明治初期沼隈郡今津村の女性)


その足で長草田池へ・・・堰堤はアカメガシワが繁茂(胃腸疾患用の漢方薬)。クズ餅など和菓子用の澱粉とりに使われた根っこをもつ、いまや嫌われ者の筆頭:クズ全盛。昔、木蝋をとったウルシ科のやヌルデ(通称かぶれの木、お歯黒用に利用した有用樹)の木がわたしは草からしの薬剤で悉皆的に処理してきたので最近ここでは激減中。

馬酔木(あせび)の葉や花を煎じて、家畜の駆虫剤に使った


牛の皮膚病治療には有毒樹「馬酔木」を使ったらしい。健康対策として近世の年中行事では7月の七夕の日に家畜を海に連れて行って海水浴させたようだ。



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エコツーリズム:瀬戸内の島の中世を尋ねて(Medieval rice fields in Yuge island)

2017年07月10日 | repostシリーズ
エコツーリズム:瀬戸内の島の中世を尋ねて(Medieval rice fields in Yuge island)
















東寺百合文書WEB


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