松永史談会7月例会のご案内
開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵2階
話題 宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について
松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
①『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には野村兼太郎編著『村明細帳の研究』, 昭和二十四年七月, 有斐閣發行とは異なり、中山氏の場合は村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相を懇切丁寧にうきぼりにしたもの(それ自体は有用)。ただ、中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想≠歴史意識が色濃く反映されているという『芸藩通志』は対象=藩領を)どういう切り口で構築(再構成or 再編成)するツールだったのかといった構築主義的な側面からの掘り下げ(=切り返し)、最後の一踏み込みが不足。・・・『芸藩通志』中の「革田」の扱い方が賴杏坪の思想の反映だと中山氏は考えているが、彼らに対する差別的扱い方に関しては(五代藩主浅野)吉長公御代記巻22下、享保11年/『新修広島市史・第七巻 資料編2』、200頁の「革田に対する触書」を見れば明らかなように、朱子学的racistであったとしても、賴の場合広島藩の従来方針を単に踏襲しただけ)の在り方や菅茶山『福山志料』(藩主用政治書)を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
【メモ】
参考文献 野村兼太郎編著『村明細帳の研究』、有斐閣、昭和24→見かけ上は千頁を超える厚冊だが、大半は関東地方の村明細帳を翻刻した史料編で本文編は151頁。この方面の研究の古典。
書評:三橋時雄が雑誌「社会経済史」16(1) 1950、141~143頁に書いたもの。
野村の視点は村落住民の身分的区別、村の負担、肥料問題、山野入会権の問題、農村人口、農間稼と農間余業、農民の食糧などの諸側面から村落生活の実態や貨幣経済の浸透度合いをチェックする。村明細帳自体は領主側が各村々の貢租その他の公課・村高・家数人口・牛馬数・普請場・米印地などを報告させたもので、農村の負担能力を判定する意図があって、それに対して村々側の答申は「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったと野村は指摘。
村明細帳を近世地誌の一種として捉える有元正雄・中山富広の場合はそういった深読みはなし。中山氏の場合はこれらは領主側からの指示で提出された村の概要報告(村勢調査)であって、今日の市町村要覧のような自発性のある資料との違いを指摘するも「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったといった類いの支配者ー被支配者間の「立場性(positonality)の差異」を強調するような視点は不在(これは暫定的記述→慎重な検討予定)。中山氏の場合頼 祺一の学説(『近世後期朱子学派の研究 』、渓水社、1986、237-283頁,本書は600頁のうち論攷部分は前半300頁、残余は賴春水の在阪期書簡の翻刻もの)を受容する形で『芸藩通志』についてやや安直に賴杏坪流朱子学思想に紐付けた説明を行っている。
古文書調査記録40集「宝永8年 差出帳の用語解説 上巻」、福山城博物館友の会、2023.ここでの差出帳理解は有元正雄によるもの。
開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵2階
話題 宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について
松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
①『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には野村兼太郎編著『村明細帳の研究』, 昭和二十四年七月, 有斐閣發行とは異なり、中山氏の場合は村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相を懇切丁寧にうきぼりにしたもの(それ自体は有用)。ただ、中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想
【メモ】
参考文献 野村兼太郎編著『村明細帳の研究』、有斐閣、昭和24→見かけ上は千頁を超える厚冊だが、大半は関東地方の村明細帳を翻刻した史料編で本文編は151頁。この方面の研究の古典。
書評:三橋時雄が雑誌「社会経済史」16(1) 1950、141~143頁に書いたもの。
野村の視点は村落住民の身分的区別、村の負担、肥料問題、山野入会権の問題、農村人口、農間稼と農間余業、農民の食糧などの諸側面から村落生活の実態や貨幣経済の浸透度合いをチェックする。村明細帳自体は領主側が各村々の貢租その他の公課・村高・家数人口・牛馬数・普請場・米印地などを報告させたもので、農村の負担能力を判定する意図があって、それに対して村々側の答申は「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったと野村は指摘。
村明細帳を近世地誌の一種として捉える有元正雄・中山富広の場合はそういった深読みはなし。中山氏の場合はこれらは領主側からの指示で提出された村の概要報告(村勢調査)であって、今日の市町村要覧のような自発性のある資料との違いを指摘するも「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったといった類いの支配者ー被支配者間の「立場性(positonality)の差異」を強調するような視点は不在(これは暫定的記述→慎重な検討予定)。中山氏の場合頼 祺一の学説(『近世後期朱子学派の研究 』、渓水社、1986、237-283頁,本書は600頁のうち論攷部分は前半300頁、残余は賴春水の在阪期書簡の翻刻もの)を受容する形で『芸藩通志』についてやや安直に賴杏坪流朱子学思想に紐付けた説明を行っている。
古文書調査記録40集「宝永8年 差出帳の用語解説 上巻」、福山城博物館友の会、2023.ここでの差出帳理解は有元正雄によるもの。