- 松永史談会 -

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松永史談会7月例会のご案内

2024年06月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内

開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所    蔵2階

話題  宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について



松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には野村兼太郎編著『村明細帳の研究』, 昭和二十四年七月, 有斐閣發行とは異なり、中山氏の場合は村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相を懇切丁寧にうきぼりにしたもの(それ自体は有用)。ただ、中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想≠歴史意識が色濃く反映されているという『芸藩通志』は対象=藩領を)どういう切り口で構築(再構成or 再編成)するツールだったのかといった構築主義的な側面からの掘り下げ(=切り返し)、最後の一踏み込みが不足・・・『芸藩通志』中の「革田」の扱い方が賴杏坪の思想の反映だと中山氏は考えているが、彼らに対する差別的扱い方に関しては(五代藩主浅野)吉長公御代記巻22下、享保11年/『新修広島市史・第七巻 資料編2』、200頁の「革田に対する触書」を見れば明らかなように、朱子学的racistであったとしても、賴の場合広島藩の従来方針を単に踏襲しただけ)の在り方や菅茶山『福山志料』(藩主用政治書)を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
【メモ】
参考文献 野村兼太郎編著『村明細帳の研究』、有斐閣、昭和24→見かけ上は千頁を超える厚冊だが、大半は関東地方の村明細帳を翻刻した史料編で本文編は151頁。この方面の研究の古典。
書評:三橋時雄が雑誌「社会経済史」16(1) 1950、141~143頁に書いたもの
野村の視点は村落住民の身分的区別、村の負担、肥料問題、山野入会権の問題、農村人口、農間稼と農間余業、農民の食糧などの諸側面から村落生活の実態や貨幣経済の浸透度合いをチェックする。村明細帳自体は領主側が各村々の貢租その他の公課・村高・家数人口・牛馬数・普請場・米印地などを報告させたもので、農村の負担能力を判定する意図があって、それに対して村々側の答申は「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったと野村は指摘。
村明細帳を近世地誌の一種として捉える有元正雄・中山富広の場合はそういった深読みはなし。中山氏の場合はこれらは領主側からの指示で提出された村の概要報告(村勢調査)であって、今日の市町村要覧のような自発性のある資料との違いを指摘するも「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったといった類いの支配者ー被支配者間の「立場性(positonality)の差異」を強調するような視点は不在(これは暫定的記述→慎重な検討予定)。中山氏の場合頼 祺一の学説(『近世後期朱子学派の研究 』、渓水社、1986、237-283頁,本書は600頁のうち論攷部分は前半300頁、残余は賴春水の在阪期書簡の翻刻もの)を受容する形で『芸藩通志』についてやや安直に賴杏坪流朱子学思想に紐付けた説明を行っている。
古文書調査記録40集「宝永8年 差出帳の用語解説 上巻」、福山城博物館友の会、2023.ここでの差出帳理解は有元正雄によるもの。
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文政期の賀茂郡吉川村絵図

2024年06月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
村を流れる古河(ふるこう)川を見ると丸木橋・土橋・飛渡の区別がなされ、住民達の日常生活上の感覚や意識(地域的社会感情)がよく汲取れる素朴な村絵図だ。「田所(中世の村役場)」「国松内正尺(しょうじゃく=領主の手作地)」と言った地名や呼称には1820年当時この地域に残っていた中世村落の面影が感じられる。新開・楮畑は広島藩の専売制度の反映。

割庄屋亮平宅とあるが、亮平とは竹内氏、 のち亮左衛門のこと。

吉川地区全体の地形を立体的に見ることが出来る。↓



現在は東広島市八本松町吉川・・黒瀬川支流の古河(ふるこう)川流域。吉川村は台地上に立地。古河川河岸には河岸段丘が発達。


広島県立文書館は簡単に済ませたが、これからもいろいろ史料の原本調査が続きそうだ。

参考文献(服部英雄氏)

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岸田文雄邸とは目と鼻の先にある広島賴家比治山周辺墓巡り

2024年06月02日 | 断想および雑談
慌ただしく出かけたので、地図を忘れて出かけ、帰りを急ぐ余りにカバンに常備している巻尺での墓石の計測もし忘れた



比治山公園界隈は幼少期以来の訪問だった。正面に真言宗・多聞院。



最新のものは令和元年95才で没した頼 惟勤(1922-1999、山陽の長男:頼 聿庵/いつあんの子孫)夫人尹(ただ)子さんのもの。罰(ばち)があたらないように『芸藩通志』編者・賴杏坪墓によく手を合わせておいた。

ジャンボな毘沙門天本堂の背後に賴家墓地(googlemap上の「賴家の墓」表示場所は誤り)がある。そこは開析谷底の奥まったところに当たり、寺の人の話では原爆の影響は殆ど無かったらしい。比治山・多聞院周辺には賴山陽の記念施設(例えば賴山陽文徳殿)や時代遅れの楠公追慕塔などが立地する。率直な印象として、花こそ供えられていたが、広島県史跡「賴家之墓」(賴山陽・賴三樹三郎などの墓は不在)の現在は奥側の木立の中には放置された原爆被災建物と思しき木造の廃屋(下の写真では廃屋そのものは毘沙門堂の建物の背後に隠れて見えない)があったりして美観的には些か気の毒な状況にある。


安芸本郷で途中下車して中世・沼田庄辺りの探訪を考えていたが、通過時刻が16時近くになっていたので他日を期すことにした。
「賴家之墓」のご近所、広島市まんが図書館西側、長性院霊園崖下に岸田首相の実家(ポリボックス有り)がある。
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