丁酉倫理会 倫理講演集(テイユウ リンリカイ リンリ コウエンシュウ) 1942年 10月号 第480号

「数年前まで、ほとんど毎号、本紙に投稿していた」とあるので、丁酉倫理会倫理講演集 1輯 - 519輯(1900-1946)に掲載された高島の論文をすべてチェックしてみる必要がありそう。参考までに高島が多数寄稿した福島四郎の「婦女新聞」、雑誌「教育時論」、「児童研究」などは復刻版が出ている。
しっかりとした高島平三郎研究を目指すなら、まず、全集を編さんすることを前提とするくらいの覚悟がいるだろ。


高島は沼隈郡内で生涯を終えるつもりも、またここでの教員生活に対しても自分の終生の仕事とは考えていなかったようだ。青年らしく現状からの脱出願望も強く、外国(欧米先進国)に対するあこがれも強かったようだ。
田舎の山の中で頑童相手の生活には不満があったようだが、高島の素晴らしいところは与えられた持ち場の中で常に最善を尽くし、かつ抜群の成果を上げてきたところだろ。


インテリそろいの町に住んでいたが、近所の道路の掃除をして広い家屋敷を構えた人とか官吏・実業家の家の前は概してゴミだらけと(強きをくじき弱きを助ける風の)高島節もちらり。
高島米峰と高島平三郎は年齢差をこえて深い友情で結ばれていたようだ。本エッセイは『高島先生教育報国60年』掲載の高島米峰の文章に対する返答的な意味合いを有する内容。

参照のこと
文章は軽妙洒脱でユーモア全開
雑誌の性格からいえばやや場所を弁えぬ高島一流の”羽目の外し方”が多少気になるところか。あわせて(言い方は悪いかもしれぬが)婦女新聞紙上での「文雄日記」(周りの空気が読めず、延々と連載)以来、毎号投稿という(良い意味での)相当の”投稿魔(=●●依存症気味)”だったという部分など高島平三郎を語る場合押さえておくべきキャラだったようだ。

枯淡(枯れた)というか諦観というか高島は、その後女子高等学園が休校(廃校)となり校長を退く、そしてしばらく間をおいてから、終戦前後には東洋大学学長を任されるのだが、そういう境地に達していたのだろうか。

「数年前まで、ほとんど毎号、本紙に投稿していた」とあるので、丁酉倫理会倫理講演集 1輯 - 519輯(1900-1946)に掲載された高島の論文をすべてチェックしてみる必要がありそう。参考までに高島が多数寄稿した福島四郎の「婦女新聞」、雑誌「教育時論」、「児童研究」などは復刻版が出ている。
しっかりとした高島平三郎研究を目指すなら、まず、全集を編さんすることを前提とするくらいの覚悟がいるだろ。


高島は沼隈郡内で生涯を終えるつもりも、またここでの教員生活に対しても自分の終生の仕事とは考えていなかったようだ。青年らしく現状からの脱出願望も強く、外国(欧米先進国)に対するあこがれも強かったようだ。
田舎の山の中で頑童相手の生活には不満があったようだが、高島の素晴らしいところは与えられた持ち場の中で常に最善を尽くし、かつ抜群の成果を上げてきたところだろ。


インテリそろいの町に住んでいたが、近所の道路の掃除をして広い家屋敷を構えた人とか官吏・実業家の家の前は概してゴミだらけと(強きをくじき弱きを助ける風の)高島節もちらり。
高島米峰と高島平三郎は年齢差をこえて深い友情で結ばれていたようだ。本エッセイは『高島先生教育報国60年』掲載の高島米峰の文章に対する返答的な意味合いを有する内容。


文章は軽妙洒脱でユーモア全開


枯淡(枯れた)というか諦観というか高島は、その後女子高等学園が休校(廃校)となり校長を退く、そしてしばらく間をおいてから、終戦前後には東洋大学学長を任されるのだが、そういう境地に達していたのだろうか。