数日後に予定している史料調査の予備作業として福山寺町界隈(洞林寺・賢忠寺→大念寺→一心寺)で罰が当らぬように掃苔家よろしく謹んでお墓参りをしてきた。
鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹。
北条霞亭(夫人・敬さんの墓は菅茶山墓地内)の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。北条悔堂夫人・由嘉さんの墓は神辺・菅茶山墓地にある。北条悔堂は幼名を新助と云い、福山河村玄漢と福山高橋孫右衛門女の間の子。北条悔堂の実母は離縁して松永・機織屋昌吉と再婚し、松永へ。機織屋岩井昌吉の親は機織屋要助(お墓は松永下之町・法林寺墓地に在った、現在今津善正寺本堂裏手、竹原屋高橋家墓地の隣に移設)。
賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら。
福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。
一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。
「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏は東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)
写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。
鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹。
北条霞亭(夫人・敬さんの墓は菅茶山墓地内)の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。北条悔堂夫人・由嘉さんの墓は神辺・菅茶山墓地にある。北条悔堂は幼名を新助と云い、福山河村玄漢と福山高橋孫右衛門女の間の子。北条悔堂の実母は離縁して松永・機織屋昌吉と再婚し、松永へ。機織屋岩井昌吉の親は機織屋要助(お墓は松永下之町・法林寺墓地に在った、現在今津善正寺本堂裏手、竹原屋高橋家墓地の隣に移設)。
賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら。
福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。
一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。
「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏は東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)
写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。