- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

お墓参り-福山市寺町界隈編-

2024年09月14日 | 断想および雑談
数日後に予定している史料調査の予備作業として福山寺町界隈(洞林寺・賢忠寺大念寺一心寺)で罰が当らぬように掃苔家よろしく謹んでお墓参りをしてきた。


鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹

北条霞亭(夫人・敬さんの墓は菅茶山墓地内)の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。北条悔堂夫人・由嘉さんの墓は神辺・菅茶山墓地にある。北条悔堂は幼名を新助と云い、福山河村玄漢と福山高橋孫右衛門女の間の子。北条悔堂の実母は離縁して松永・機織屋昌吉と再婚し、松永へ。機織屋岩井昌吉の親は機織屋要助(お墓は松永下之町・法林寺墓地に在った、現在今津善正寺本堂裏手、竹原屋高橋家墓地の隣に移設)。

賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら

福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。




一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。

「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)


写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。



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久々に『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社

2024年09月07日 | 断想および雑談
馬部隆弘さんの対談を掲載していたので、ふと昔懐かし青土社の雑誌をみかけ図書館より借りだして見た。

これまでは高島平三郎『心理漫筆』、開発社、明治31年を通じて沼隈郡神村の鬼火伝説(「ややの火」)を、同様の話題は得能正通編纂『備後叢書』所収の馬屋原重帯編著『西備名区』にも収録されている。この手の話題は相も変わらず面白おかしく庶民の読書空間の中で飛び交っている(。一応断っておくが、この鬼火伝説(「ややの火」)は得能正通が『西備名区』を『備後叢書』編集刊行する段階にわざわざ記載ヵ所を変更し沼隈郡神村・和田屋石井又兵衛+関係の妖怪伝説としてハイライト化している。それを『沼隈郡誌』は踏襲。それに対して、妖怪を迷信として処理した高島の場合はそういう扱い方をしていない)。
嘯雲嶋業調製 万延元(1860)年「備後国名勝巡覧大絵図」記載の妖怪屋敷(『稲生物怪録』)などは江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、折口信夫が、そして最近では漫画家水木しげるらが作品化。
この大絵図には三原沖に出現するという「タクロウ火」も記載している。今川了俊『道行きぶり』にも鵜飼いの燈火のように見えると言う形で、三原ー本郷辺りの話題として深夜兵士達のもつ松明なのか否かは不明だが、水面に浮かぶ火の言及をしていた。宮原直倁は海辺の村の慣行として「イサリ」(漁り火のイサリヵ:深夜燈火をもって魚・カニを取る)に言及していた。これと関係するかどうかはわからぬが、私の幼少期には明治生まれの老人が行う夜中にカーバイドランプをもって魚取りに行く「風習」(風習ではなく伝統漁法?)が干潟の発達した松永湾岸には残っていた(『福山志料』上巻、巻1風俗に鯛網・イサリの記事、イサリは端午の早朝に神様にお供えするということで干潟の発達した海浜の村々で手火をもって行う漁法、この手火は幾千となく離合集散して動くさまを遠望していると”スコブル壮観”だと)。
わたしがGeosophie研究の一環としてこのところ取り組んでいるのが虚実混淆居士馬屋原重帯の人文学の在り方についてだ。『西備名区』は偽書ではないが、彼が生きた時代特有のドクサを相当に含んでいる。生活世界次元で言えば、馬屋原重帯は平田篤胤-椿井政隆らとは地続きのところに位置づけられると思うが、私の場合は勿論馬屋原に対して馬部隆弘氏が試みたような思想史的背景を視野に入れながらの椿井政隆=偽書・偽文書制作業者論(付随的に並河誠所の式内社考証批判など)や坂田聡氏らに学びつつも、それとは違った位相で捉え直していくことになろう。


これから『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社を専門分野に関係なくざっと目を通してみるが、執筆者達の学問的境地の違い、学問研究上のセンスや研究の進展度の違いからか中身は玉石混淆だ。この手の雑誌類には昔ほど期待してないが参考になる部分があればラッキーだと思う。


関連ブログ①
関連記事②
偽史言説(非公開)→「創られた由緒」という形では例えば坂田聡 『古文書の伝来と歴史の創造-由緒論から読み解く山国文書の世界』2020
向村九音(サキムラ チカネ )『創られた由緒 : 近世大和国諸社と在地神道家』、勉誠社、2021など。同傾向の研究事例としては近年は枚挙にいとまがない。
【メモ】粗雑な歴史考証結果を一切合切取り込んだ形のと言う面では馬屋原の『西備名区』と共通する教部省編『特選神名牒』
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