小野田亮正 著『現代名士の演説振』、博文館、明41.8
高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁も講演を口述筆記されたものだった。内容的には、日清日露戦争と第一次世界大戦、および関東大震災後の荒廃した日本の社会状況を捉え、あるべき日本的倫理観を説いたものだが知性(舶来の話題)・感情(義侠心)・意思(実体験)といったものを巧みに操りながら、面白くわかり易い講演を展開。高島の偉いところは新武士道とか英国のゼントルマン精神といったものを引き合いに出す場合、見解はあくまでも健全な保守思想の範囲内、決してブルジョア的思考に偏したりすることがないあたりだが、いつもながらのbon sens(井上哲次郎のいう「常識」)をわきまえた内容で、物足らない部分もあるが、なかなか・・・・・。
英国のゼントルマンに関連して、日本語の中の「勿体ない」は世界中にない立派な言葉だと思う。これは足利の末、徳川の初めごろまでは「やくざもない、とか仕方がない」(・・・・・この部分意味不明。もしかすると誤植?or高島の誤解?)という意味だったが、今日では感謝の意味もあればお気の毒と言う意味もある。尊敬する意味もあれば愛慕する気持ちもあり、恐縮する心も懐かしく親しむ意味もあると思う。この勿体ない有難いという観念(or感情)は人間にはなくてはならぬこと。併し有難いと言えば道徳上の意味で、勿体ないと言うと宗教的な意味が入ってくる。英国のゼントルマンと言う言葉も、これと同じように一種特殊の包含的意味があるそうだ・・・・・(A)。
ところで「ゼントルマンと言う言葉は日本では紳士と訳されているが、周知のとおり、日本の紳士と言うものは夜一時ま過ぎまでも自動車へ芸妓を乗せて、ブーブー歩いてそうして方々飲んだくれになって歩く、日本では紳士と言う言葉は非常に悪い意味に使われている。情けない事」(47頁)だ、と。こういう紳士を引き合いに出して、子供を鼓舞していると子供の方は何も感化されず、逆に益々贅沢をするようになるだけ・・・・・(B)。
我が国ではいまでも田舎にいくと勿体ないという言葉が用いられているが、都会ではほとんど絶滅しかかっている。
むかしは母親から子供の喧嘩に敗けてべそをかいて家に走り帰ったり、弱いものを苛めたり、そして悪戯をしたときなど、母親から「お前は侍の子だろ」と戒められると、その都度きりっと身が引き締まる思いがした。人を鼓舞するときに「お前は日本男児だろ」とかいう調子で「少年団員ではないか」というだけで子供たちが自己を覚醒鼓舞出来るようになるところまで少年団運動をレベルアップして行きたいものだと・・・・・(C)。
ただ、ここでは新武士道という日本精神を、国際少年団運動の中で世界化するという論調は希薄で、やや英国流のゼントルマン精神を日本の少年団活動の中に浸透させるという方向での話に終わったような感なきにしもあらず。
この時の講演会には丸山鶴吉の岳父で、金沢県専門学校の学生当時の西田幾多郎の恩師北条 時敬(数学)も聞きに来ていたらしい。
高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁も講演を口述筆記されたものだった。内容的には、日清日露戦争と第一次世界大戦、および関東大震災後の荒廃した日本の社会状況を捉え、あるべき日本的倫理観を説いたものだが知性(舶来の話題)・感情(義侠心)・意思(実体験)といったものを巧みに操りながら、面白くわかり易い講演を展開。高島の偉いところは新武士道とか英国のゼントルマン精神といったものを引き合いに出す場合、見解はあくまでも健全な保守思想の範囲内、決してブルジョア的思考に偏したりすることがないあたりだが、いつもながらのbon sens(井上哲次郎のいう「常識」)をわきまえた内容で、物足らない部分もあるが、なかなか・・・・・。
英国のゼントルマンに関連して、日本語の中の「勿体ない」は世界中にない立派な言葉だと思う。これは足利の末、徳川の初めごろまでは「やくざもない、とか仕方がない」(・・・・・この部分意味不明。もしかすると誤植?or高島の誤解?)という意味だったが、今日では感謝の意味もあればお気の毒と言う意味もある。尊敬する意味もあれば愛慕する気持ちもあり、恐縮する心も懐かしく親しむ意味もあると思う。この勿体ない有難いという観念(or感情)は人間にはなくてはならぬこと。併し有難いと言えば道徳上の意味で、勿体ないと言うと宗教的な意味が入ってくる。英国のゼントルマンと言う言葉も、これと同じように一種特殊の包含的意味があるそうだ・・・・・(A)。
ところで「ゼントルマンと言う言葉は日本では紳士と訳されているが、周知のとおり、日本の紳士と言うものは夜一時ま過ぎまでも自動車へ芸妓を乗せて、ブーブー歩いてそうして方々飲んだくれになって歩く、日本では紳士と言う言葉は非常に悪い意味に使われている。情けない事」(47頁)だ、と。こういう紳士を引き合いに出して、子供を鼓舞していると子供の方は何も感化されず、逆に益々贅沢をするようになるだけ・・・・・(B)。
我が国ではいまでも田舎にいくと勿体ないという言葉が用いられているが、都会ではほとんど絶滅しかかっている。
むかしは母親から子供の喧嘩に敗けてべそをかいて家に走り帰ったり、弱いものを苛めたり、そして悪戯をしたときなど、母親から「お前は侍の子だろ」と戒められると、その都度きりっと身が引き締まる思いがした。人を鼓舞するときに「お前は日本男児だろ」とかいう調子で「少年団員ではないか」というだけで子供たちが自己を覚醒鼓舞出来るようになるところまで少年団運動をレベルアップして行きたいものだと・・・・・(C)。
ただ、ここでは新武士道という日本精神を、国際少年団運動の中で世界化するという論調は希薄で、やや英国流のゼントルマン精神を日本の少年団活動の中に浸透させるという方向での話に終わったような感なきにしもあらず。
この時の講演会には丸山鶴吉の岳父で、金沢県専門学校の学生当時の西田幾多郎の恩師北条 時敬(数学)も聞きに来ていたらしい。
①高島平三郎著『体育原理』、育英舎、明治37年
②高島平三郎・富永岩太郎(共)著『体育及遊戯法精義・前篇体操之部』、同文館、明治40年
③元文部省体育遊戯取調委員:井口阿くり・可児徳・川瀬元九郎・高嶌平三郎・坪井玄道(共)著『改訂體育之理論及實際 : 全』、明治45年(初版:明治43年)、国光印刷。『體育之理論及實際』明治39年、国光社の印刷責任者は河本亀之助。
③は理論編、②は教育現場で役立つ実践編。③の刊行は出版社(国光社)側の事情で3年遅れの明治43年。執筆者が多く少し足並みがそろわなかったか。8人の委員のうち執筆に応じたのは5名。
序文は高島平三郎が書いている。委員会が発足して39年7月までの1年数か月の間に37回の会合(研究会)をもった。2週間に1回のペースだからかなり精力的に会は運営されたようだ。本書は文部省に提出された報告書の解説編という位置付。
5人の執筆者の分担は・・・・・
遊戯の実際運動、運動の生理・心理、疲労現象には言及できなかったと総括。この部分の一部が②で扱われることになったようだ。
こういう書物が刊行されたのは元文部省体育遊戯取調委員たちのチームーワークの良さもさることながら、やはり高島の手腕によるところ大だったろ。
高島平三郎は長野師範の雇教師を辞した後、成城学校嘱託を経て明治33年に日本体育会教師に。明治34年体育に関する学術取り調べの委嘱を受け、同年日本体育会幹事に。翌年日本体育会常務幹事兼体育学校長。明治37年文部省体育遊戯取調委員を委嘱され、日本体育会体育学校長を辞す。明治41年内務省感化救済事業講師(児童研究)を委嘱される。その間の成果が以下の著書だ。いずれも先駆的な業績だが、ことに高島平三郎著『体育原理』は我が国における体育学史上の名著とされる。
内務省感化救済事業講師を委嘱された時代(明治41年~)の著書に高島平三郎「現代の傾向と心的革命」洛陽堂 1910
高島平三郎と西川光次郎(光二郎)との接点が出来るのもこの時代だ。
西川の研究者田中英夫も大著『山口孤剣小伝』で同様の事を記述しているのだが、西川著『入神第一』によると出獄直後の経済的難局期に、西川「心懐語」に感激した高島が出獄直後の西川を支援すべく河本亀之助を使者に立てて、自らが主宰する「楽之会」に西川を引っ張り込んでいったと。
わたしは西川の言葉を信じるかって?
・・・・・・・
高島と西川文子との接点は文子が京都府女学校国漢専攻科時代だったが・・・・・ご両人がそれを自覚していたか否かは不明。
大正3年までに洛陽堂(明治42年創業)から西川夫妻は各種の著書(何冊かは高島の序文つき)を刊行。
遊戯と言えば『ホモ・ルーデンス』の著者ホイジンガーを思い出すが、日本ではここで取り上げた高島平三郎が登場するまで人間教育の中での「遊戯」が果たす役割の大きさについて説得的に論述した人はなかっただろ。高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁でもそのこと(=少年団活動における遊戯の持つ意義の大きさ)は明言されている。
②高島平三郎・富永岩太郎(共)著『体育及遊戯法精義・前篇体操之部』、同文館、明治40年
③元文部省体育遊戯取調委員:井口阿くり・可児徳・川瀬元九郎・高嶌平三郎・坪井玄道(共)著『改訂體育之理論及實際 : 全』、明治45年(初版:明治43年)、国光印刷。『體育之理論及實際』明治39年、国光社の印刷責任者は河本亀之助。
③は理論編、②は教育現場で役立つ実践編。③の刊行は出版社(国光社)側の事情で3年遅れの明治43年。執筆者が多く少し足並みがそろわなかったか。8人の委員のうち執筆に応じたのは5名。
序文は高島平三郎が書いている。委員会が発足して39年7月までの1年数か月の間に37回の会合(研究会)をもった。2週間に1回のペースだからかなり精力的に会は運営されたようだ。本書は文部省に提出された報告書の解説編という位置付。
5人の執筆者の分担は・・・・・
遊戯の実際運動、運動の生理・心理、疲労現象には言及できなかったと総括。この部分の一部が②で扱われることになったようだ。
こういう書物が刊行されたのは元文部省体育遊戯取調委員たちのチームーワークの良さもさることながら、やはり高島の手腕によるところ大だったろ。
高島平三郎は長野師範の雇教師を辞した後、成城学校嘱託を経て明治33年に日本体育会教師に。明治34年体育に関する学術取り調べの委嘱を受け、同年日本体育会幹事に。翌年日本体育会常務幹事兼体育学校長。明治37年文部省体育遊戯取調委員を委嘱され、日本体育会体育学校長を辞す。明治41年内務省感化救済事業講師(児童研究)を委嘱される。その間の成果が以下の著書だ。いずれも先駆的な業績だが、ことに高島平三郎著『体育原理』は我が国における体育学史上の名著とされる。
内務省感化救済事業講師を委嘱された時代(明治41年~)の著書に高島平三郎「現代の傾向と心的革命」洛陽堂 1910
高島平三郎と西川光次郎(光二郎)との接点が出来るのもこの時代だ。
西川の研究者田中英夫も大著『山口孤剣小伝』で同様の事を記述しているのだが、西川著『入神第一』によると出獄直後の経済的難局期に、西川「心懐語」に感激した高島が出獄直後の西川を支援すべく河本亀之助を使者に立てて、自らが主宰する「楽之会」に西川を引っ張り込んでいったと。
わたしは西川の言葉を信じるかって?
・・・・・・・
高島と西川文子との接点は文子が京都府女学校国漢専攻科時代だったが・・・・・ご両人がそれを自覚していたか否かは不明。
大正3年までに洛陽堂(明治42年創業)から西川夫妻は各種の著書(何冊かは高島の序文つき)を刊行。
遊戯と言えば『ホモ・ルーデンス』の著者ホイジンガーを思い出すが、日本ではここで取り上げた高島平三郎が登場するまで人間教育の中での「遊戯」が果たす役割の大きさについて説得的に論述した人はなかっただろ。高島平三郎「新武士道の国際的運動に就いて」、少年団日本聯盟パンフレット、大正14年、1-52頁でもそのこと(=少年団活動における遊戯の持つ意義の大きさ)は明言されている。
児童(問題)に関する名著を出してきた洛陽堂だったが・・・・・、なんと恩地孝編のこういう単行本を出すなど・・・
科学と人生叢書中の一冊だが、河本亀之助による恩地の生活支援策の一環かな?
その道の第一人者を編者や著者に立てず、まったくの素人(但し、恩地は当時28歳で既婚)を新登用して何かを行わせるといったことは、おそらく新人画家竹久夢二での成功体験が根底にあったのだろか、しばしば洛陽堂刊の書籍の中では繰り返された。
恩地孝(恩地孝四郎のペンネーム)は学研的な人だったが、ま、まさか児童研究書の編者として登場していたとは・・・・。後年彼は児童文庫などの挿し絵をたくさん描いており、当然、ここでの経験は生かされていたことだろ。
児童問題史研究会監修『日本児童問題文献選集』全36巻と『現代日本児童問題文献選集』全42巻(1983.6~88.9・日本図書センター)の各巻解説・解題を集成・復刻(第1・2巻)し、新たに総解説、文献解説年表、補遺、索引を第3巻としたもの。
【目次】
第1巻
『「日本児童問題文献」解説』序
「日本児童問題文献選集」解説
1 留岡幸助 『家庭学校』『家庭学校第二編』………津曲裕次
阿達憲忠 『乞児悪化の状況』………古林世士子
2 富田象吉 『育児事業の実際的研究』
『児童保護問題に就いての私見』他………加瀬裕子
小河滋次郎 『児童保護概説』『児童保護問題』他………松原康雄
3 生江孝之 『児童と社会』………一番瀬康子
4 増田抱村 『児童社会史』………川瀬善美
5 高田慎吾 『児童問題研究』………寺脇隆夫
6 本庄陸男 『資本主義下の小学校』
小川実也 『地域中心としての学校施設』………柿沼肇
7 菊池俊諦 『児童保護論』………松矢勝宏
8 倉橋惣三 『社会的児童保護概論』『児童保護の教育原理』
『児童保護問題』………庄司洋子
9 城戸幡太郎 『生活技術と教育文化』………湯本貞子
10 野口樹々 『児童問題』………泉順
11 伊藤清 『児童保護事業』………古川孝順
12 日本青少年教育研究所編 『児童生活の状態』………窪田暁子
13 森知幾 『貧民教育策』『貧児寮無限の熱血』
………加登田恵子・塘林虎五郎
14 私立二葉幼稚園 『私立二葉幼稚園報告書』………村岡末広
15 大村仁太郎編述 『児童矯弊論』………津曲裕次
16 ローザ・M・バレット著 田中太郎訳
『開明諸国に於ける感化事業………窪田暁子
17 石川重幸 文部省
『盲人教育』『日本訓盲點字説明』………安藤房治
18 石井亮一 石井筆子他
『白痴児其研究及教育』『石井亮一伝』………一番ヶ瀬康子
19 乙竹岩造講 『低能児教育法』………山田明
20 瀬川頼太郎 『教育資料子供の聲』………庄司洋子
21 富士川游 呉秀三 三宅鋼一講述 『教育病理学』………北沢清司
22・23 榊保三郎 『異常児ノ病理及教育法 教育病理及治療学』上・下巻
………松矢勝宏
24 (感化院長協議会)(育児事業協議会)
『第一回感化院長協議会速記録』『第一回育児事業協議会速記録』
………古川孝順
25 川越児童保護学校 『保護児童ノ研究』………泉順
26 高島平三郎 乙竹岩造 渋沢栄一
『児童関係感化救済事業講演』………土井洋一
27 エレン・ケイ著 大村仁太郎解説 『二十世紀は児童の世界』
エレン・ケイ著 原田実訳 『児童の世紀』………一番ヶ瀬康子
28 大川善行 『児童個性の研究』………岡田英巳子
29 高島平三郎 『教育に応用したる児童研究』………加登田恵子
30 伊澤修二編 『吃音矯正の原理及実際』………上野益雄
31 脇田良吉 『低能児教育の実際的研究』………山田明
32 稲葉幹一 『体質改良の上より観たる教育期児童之健康法』
33 三宅鉱一 『白痴及低能児』………北沢清司
34 岡村準一 『児童保護の新研究』………古川孝順
35 小林佐源治 『劣等児教育の実際』………津曲裕次
36 (第1回)成澤金兵衛(第2回)児童研究所『児童教養講習録』………松本園子
太文字は洛陽堂刊
藤森賢三 訳 ; 恩地孝 編『幼児の世界及育児』、洛陽堂
[目次]
標題
目次
序
小引
上編
幼童の世界 / 1
発生の神秘 / 11
嬰児の生活 / 34
心の扉 / 55
新らしき世界へ / 85
自己と他と / 108
父母とその子 / 134
さみしき薄暮 / 181
下編 育児の実際
最初の一週間 / 213
母の一日 / 224
発育と健康 / 236
食料と営養 / 255
運動と衣服 / 297
心の扶育 / 317
小児の病気
一般にかかり易い病気その他 / 333
皮膚の病気 / 342
発疹する病気 / 348
口腔病 / 366
呼吸器病 / 380
ひきつけ / 385
脳膜炎 / 386
疫痢 / 388
下痢 / 389
膓虫 / 393
毒 / 395
体質 / 398
坊間薬 / 405
附幼童及その補育に関する諸表
奥付の編者: 恩地孝四郎
この程度の育児書なので恩地で十分間に合ったかな
最初東宮御所(東宮御學問所)の方で刊行予定だったらしいが、途中から方針変更され、ヰルヘルム・ミュンヒ 原著 ; 大津康 譯 ; 東宮御學問所 編纂『古今君主教育論』、1919の方が上梓されることに。為に西田宏翻訳版は民間の出版社から「普通出版」せざるを得なくなったものらしい。
”Gedanken über Fürstenerziehung dus alter und neuer Zeit”を「帝王教育思想史」とやってしまう西田の語学力に疑問符が付けられたかな?
河本亀之助側としては売れるはずもないこんな大部の翻訳書の出版を、上から無理やり押し付けられた形ではなかったろうか。
入手した古書には2か所に押印、その一つが扉にある「鼓渓子蒐集群書」の所蔵印。
ヴィルヘルム・ミュンヒ 著 ; 西田宏 訳『帝王教育思想史』
原タイトル: Gedanken über Fürstenerziehung dus alter und neuer Zeit
[目次]
標題
目次
第壱章 緒論
第弐章 古代の帝王教育思想
第参章 中世の帝王教育思想
第四章 人文主義及び文芸復興時代の帝王教育思想
第五章 第十七世紀に於ける帝王教育思想
第六章 第拾八世紀の帝王教育思想
第七章 第拾九世紀初葉以来の帝王教育思想
第八章 現代に於ける帝王教育の諸条件
第九章 現代に於ける帝王教育の諸問題
第拾章 考証
第壱 帝王教育思想史脚註 / 445
第弐 帝王教育思想に関する日本古代の文献
第参 帝王教育思想に関する支那古代の文献
第四 帝王教育思想に関する日本現代の文献
第五 帝王教育思想に関する西洋新古の文献(巻末に録す)
附録 ヴィルヘルム ミュンヒ小伝 / 16
洛陽堂は翻訳書ではかなりチョンボを繰り返している。
例えば、ロイス『忠義の哲学』、1916だが、岩波からジヨサイア・ロイス 著 ; 風見謙次郎 訳『道徳哲学』(西田幾多郎序)、1921が出され、翻訳書として聊か色あせてしまった。西田宏は本書を人の上に立つ人間の教育論書と述べているが・・・・・・、ここで取り上げた『帝王教育思想史』もそうだ。誤訳だらけの加藤一夫の『ベェトオフェン並にミレエ』、1915なども、想像以上に売れたようだが、翻訳内容のチェックは皆無でB級翻訳家加藤の為すがまま。それを刊行した洛陽堂の信用は失墜し、発行者の神経を疑われてもしかたないしろものだった。
「忠義(loyality)」とか「帝王教育(君主教育: Fürstenerziehung)」は高島平三郎の思考と情念とは完全に合致するものだった。ちなみに高島は雑誌「児童研究」にこのジョサイア・ロイスの文献紹介を行っていたし、後年秩父宮妃(旧姓徳川)喜久子の花嫁教育に関わった。
関寛之とか天野藤男の著書(洛陽堂刊)が入っている。第十章の考証(脚注、翻訳者の付け加えた内外の参考文献、著者紹介)が中身がない割に長大:500頁に及ぶ
早速、本書は修理・改装に出した。
改装前
改装後 あれれ・・・「帝王教育思想史 ● 西田宏紹述」
大正11年当時、現在の大阪市中央区伏見町に在住した小平さんの「不賣不興」印(蔵書印?)。これって、不興を買うを捩ったものか。
本書は国会図書館デジタルコレクションとして公開されている。
ヰルヘルム・ミュンヒ 原著 ; 大津康 譯 ; 東宮御學問所 編纂『古今君主教育論』、1919