2018年1月例会のご案内(第一報)
日時:1月22日(月)、10-12時
場所:喫茶店「蔵」
話題 作田高太郎(1887-1970)の歴史認識 or 歴史観
なお、「早熟型の文化人武井節庵のその後」(2017年12月例会)に関連した新史料(『史記』研究者・森田節斎の詩文)の紹介を一部時間をさいて行う。
西川國臣氏の孫(1929-)にあたる方が参加され,西川さんのよもやま話を拝聴。作田の話題は次回(2月19日)あらためて取り上げる予定。
レジュメの一部
森田節斎(1811-1868)の元治元年5月「伯耆守名和公肖像記」の木版墨摺り実物史料を持参し紹介した。
内容は「方今の士(勤王の志士)たちのことを念頭に、因幡の人赤石必という御仁が持参した後醍醐天皇の寵臣・名和長年肖像画の模写本に加えた詩文(=肖像記)に関して、中国の故事(梁の武将王彦章 オウゲンショウの肖像画に対して宗の詩人:欧陽修が加えた肖像記)に習って、節斎が付記したことを記述(参考までに、言及しておくと、この「肖像記」の文面と『節斎遺稿』所収「名和公畫像記」の文面とは随所に違いがみられる)。
王彦章は敵方の後唐の王から助命の申し出を受けたが、それを断り、梁の皇帝に対する忠義を尽くす形で、自ら死を選んだ。このことを捉え、臣下としての「礼」とか「忠義」といった儒教的な倫理に適った意思決定の出来た王彦章を詩人欧陽修がその肖像記の中で讃えていた。王陽修の肖像記は『唐宋八家詩集』に所収される形で幕末明治期の我が国において大いに人気を博し愛読された。なお、節斎は本肖像記において名和長年の残したとされる伝墨跡(宋詩)の摸本を美作国真島郡雲南寺で観て雄頸高逸(高尚で気高く)で書体なども晋唐の風(つまり王義之風の”行書”)で名和には文采風流(文体的にも格調の高さ)が感じられ、従って当然彼は普段から書物を読み、義理の大切さを周囲に説き聞かせていたであろうこと、そしてその結果として名和には王彦章同様に「身を殺して仁を成す」といった忠義全開の行動がとれたのだろうと感じ(=妄想し)たようだ(下線分は『節斎遺稿』にもある・・・・欧陽修は王彦章を無学の武人として形象化していたが、森田は武人名和長年を漢詩の素養、書学の心得と・・、この辺が森田の他人を評価する基準になっていた点なんだろう。)。赤石必は肖像画の摸本を自分にみせて肖像記を所望したが、自分は「一代の大手筆」でもないが、若い「方今の士」のことを考え力不足とは思うが名和長年が後醍醐天皇に対する「大義」という面でそれを尽くした人物なので、赤石必の依頼を引き受けることにしたという文面になっている。
従ってここでの森田節斎の文面は「勤王の志士」に対して忠勇の将王彦章・名和長年を手本に「身を殺して仁を成す」こと「人は死して名を留める」ことのカッコ良さを推奨したある種の勤王の志士たちや日清日露戦役に出征した青年たち向けの「檄文」としての性格すらもつものだった。
【解説】江木鰐水は日記中で、森田節斎を四書25万語を暗唱した人物だという言い方で敬意を表している。森田はここで取り上げた「肖像記」or「畫像記」の中では名和を、漢詩の内容、書写された筆跡を手掛かりとして評価(人物評価)するといったやり方をしている。私の感覚では江木・森田ともに幕末期の堕落した因習の世界にどっぷり状態であったことが判る。森田の名和に対する評価方法はまことに滑稽至極、単なる信仰告白の発露でしかない。
欧陽修の「王彦章畫像記」については、国訳漢文大成. 第七卷、国民文庫刊行会 編、国民文庫刊行会、1920-1924に所収 549-552頁
「肖像記」という名称の類例:嵯峨釈迦肖像記
日時:1月22日(月)、10-12時
場所:喫茶店「蔵」
話題 作田高太郎(1887-1970)の歴史認識 or 歴史観
なお、「早熟型の文化人武井節庵のその後」(2017年12月例会)に関連した新史料(『史記』研究者・森田節斎の詩文)の紹介を一部時間をさいて行う。
西川國臣氏の孫(1929-)にあたる方が参加され,西川さんのよもやま話を拝聴。作田の話題は次回(2月19日)あらためて取り上げる予定。
レジュメの一部
森田節斎(1811-1868)の元治元年5月「伯耆守名和公肖像記」の木版墨摺り実物史料を持参し紹介した。
内容は「方今の士(勤王の志士)たちのことを念頭に、因幡の人赤石必という御仁が持参した後醍醐天皇の寵臣・名和長年肖像画の模写本に加えた詩文(=肖像記)に関して、中国の故事(梁の武将王彦章 オウゲンショウの肖像画に対して宗の詩人:欧陽修が加えた肖像記)に習って、節斎が付記したことを記述(参考までに、言及しておくと、この「肖像記」の文面と『節斎遺稿』所収「名和公畫像記」の文面とは随所に違いがみられる)。
王彦章は敵方の後唐の王から助命の申し出を受けたが、それを断り、梁の皇帝に対する忠義を尽くす形で、自ら死を選んだ。このことを捉え、臣下としての「礼」とか「忠義」といった儒教的な倫理に適った意思決定の出来た王彦章を詩人欧陽修がその肖像記の中で讃えていた。王陽修の肖像記は『唐宋八家詩集』に所収される形で幕末明治期の我が国において大いに人気を博し愛読された。なお、節斎は本肖像記において名和長年の残したとされる伝墨跡(宋詩)の摸本を美作国真島郡雲南寺で観て雄頸高逸(高尚で気高く)で書体なども晋唐の風(つまり王義之風の”行書”)で名和には文采風流(文体的にも格調の高さ)が感じられ、従って当然彼は普段から書物を読み、義理の大切さを周囲に説き聞かせていたであろうこと、そしてその結果として名和には王彦章同様に「身を殺して仁を成す」といった忠義全開の行動がとれたのだろうと感じ(=妄想し)たようだ(下線分は『節斎遺稿』にもある・・・・欧陽修は王彦章を無学の武人として形象化していたが、森田は武人名和長年を漢詩の素養、書学の心得と・・、この辺が森田の他人を評価する基準になっていた点なんだろう。)。赤石必は肖像画の摸本を自分にみせて肖像記を所望したが、自分は「一代の大手筆」でもないが、若い「方今の士」のことを考え力不足とは思うが名和長年が後醍醐天皇に対する「大義」という面でそれを尽くした人物なので、赤石必の依頼を引き受けることにしたという文面になっている。
従ってここでの森田節斎の文面は「勤王の志士」に対して忠勇の将王彦章・名和長年を手本に「身を殺して仁を成す」こと「人は死して名を留める」ことのカッコ良さを推奨したある種の勤王の志士たちや日清日露戦役に出征した青年たち向けの「檄文」としての性格すらもつものだった。
【解説】江木鰐水は日記中で、森田節斎を四書25万語を暗唱した人物だという言い方で敬意を表している。森田はここで取り上げた「肖像記」or「畫像記」の中では名和を、漢詩の内容、書写された筆跡を手掛かりとして評価(人物評価)するといったやり方をしている。私の感覚では江木・森田ともに幕末期の堕落した因習の世界にどっぷり状態であったことが判る。森田の名和に対する評価方法はまことに滑稽至極、単なる信仰告白の発露でしかない。
欧陽修の「王彦章畫像記」については、国訳漢文大成. 第七卷、国民文庫刊行会 編、国民文庫刊行会、1920-1924に所収 549-552頁
「肖像記」という名称の類例:嵯峨釈迦肖像記