日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

 不法から救ってくださる方

2018-05-30 | Weblog
 サムエル記下22章
 3節「わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え 不法から救ってくださる方」(新共同訳)

 1節「ダビデは、主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に、次の言葉をもって主に歌をささげた」。小見出し「ダビデの感謝の歌」。本章は詩18篇と殆ど同じである。1節は詩篇では「指揮者によって、主の僕の詩…」という序詞として記される。
 2節「主はわたしの岩、砦、逃れ場」。詩篇では「…主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」である。一介の羊飼いであったダビデが起伏の激しい苦難の人生を歩み、王として晩年を迎える今、「わたしはあなたを慕う」思いがこの詩篇に伺えよう。これが3節で繰り返される。勇将ダビデの真骨頂が伺える。苦難の中から主を呼び求め、神の向かって叫ぶという謙虚な祈りの姿勢が示される。主は苦難と死の支配から救う方である(4~7節)。
 8節「主の怒りに地は揺れ動き 天の基は震え、揺らぐ」。その救いは雷、地震、風と嵐をも支配される方から来る(8~16節)。
 17節「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ 大水の中から引き上げてくださる」。再び神の大能の力を仰ぎ、攻め寄せてくる敵に立ち向かい、助けを得て喜ぶことができる(17~20節)。
 21節「主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる」。ここから「わたし」が前面に出てくる。そこでは敵対するものに勝利、力、勇気、保護、安全を与えてくださる主なる神を賛美する(21~25節)。一つ気になるのは21節「わたしの正しさに報いてくださる」である。口語訳は「わたしの義にしたがって、わたしに報い返された」となっている。彼の生涯には人間的に正しからざることが多くあり、罪を犯し涙することがあった。この「正しさ」は神に義と認められねば言えない言葉である。つまり神に心砕かれて出る時に、受け入れられることである。ここから「信仰義認」を読み取りたい。
 26節「あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に~」。これは神に向かう姿勢であって、単なる因果応報ではない。「貧しい民を救い上げ…奢る者を引き下ろされる」のである」(26~31節)。
  32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない~」。重ねて神の主権が告げられる(36節、47節)。36節以下は、「わたし」はダビデ王朝に移行して歌われ、国々の頭として立てられ(44節)、敵の民は憐れみを乞い(45節)。
47節「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。」諸国の民は従うこととなる(48節)。敵からわたしを救い、刃向かう者よりも高く上げ、不法の者から助け出してくださいと願う(49節)。
50節「主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。」
勝利を与えて王を大いなる者とし 油注がれた人を、ダビデとその子孫をとこしえまで 慈しみのうちにおかれる(51節)。これがその結語である。