サムエル記下6章
13節「主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた」(新共同訳)
1節「ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた」。小見出し「神の箱をエルサレムへ運び入れる」。目的はペリシテから奪い返した神の契約の箱をエルサレムに運び込む為であった。契約の箱の物語はサムエル記上4~6章で出ている。その箱はキリヤト・エリアムの人々によってアビナダブの家に運ばれその息子エリアザルによって守られていた。サウル即位から既に20年が経過していたが、ダビデが王位に着いてから加算すると50年とは言わない期間となる。
3節「彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた」。ウザとアフヨはアビナダブの家から神の箱を運び出し、ダビデとイスラエルの家は皆、糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。ところが牛がよろめき、車の後にいたウザが神の箱に手を出し押さえた(4~6節)。主は怒りを発しその場で彼を打たれ、神の箱の傍らで死んだ。箱の転落を防ごうとしたウザの行為は褒められてこそすれ、非難されるものではない筈で、彼が打ち砕かれたのを見てダビデも怒った(7~8節)。そして主を恐れて、神の箱を運ぶことを思い留まった(9~10節)。問題なのは「牛車」で運ぶことにあった。箱は祭司が肩に担ぎ、その為に担ぐ棒もあった(民数記4章15節、出エジプト37章4節)。ウザやダビデら一行は、箱にふれないで運ぶ規定を安易に考えたことから、聖なる神の意思に背く行為をしたのである。
11節「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された」。この噂を耳にしたダビデは直ちに出掛けて喜び祝って神の箱を肩に担いで運び上げた。担ぐ者が六歩進んだ時、彼は車でなく担いで運ぶことの違いを確認した。そして雄牛の燔祭を献げて罪の赦しを求め、力の限り踊ったのである(12~14節)。
17節「人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた」。この燔祭と酬恩祭の献げ物をし終わると、主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆すべてに輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与え、そして民は皆、自分の家に帰って行った(18~19節)。
20節「ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。『今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。』」。これは14~16節に書かれている事柄を指し、ダビデ王が麻のエフォドを着けて喜び跳ね踊って町に帰って来た時、ミカルが窓からこれを見下ろし、心の内にさげすんだことを、侮蔑と皮肉たっぷりに語った言葉である。「裸になる」とは王衣を脱ぎエフォドを着たため肌が露わになったことを指す。これに対してダビデは、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で踊ったのだ、わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろうと応えた。これはミカルが王位継承者とサウルの子孫とを失うことで報われることになった(23節)。
ここで詩149篇1~2節が示される「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。 イスラエルはその造り主によって喜び祝い/シオンの子らはその王によって喜び躍れ」。
13節「主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた」(新共同訳)
1節「ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた」。小見出し「神の箱をエルサレムへ運び入れる」。目的はペリシテから奪い返した神の契約の箱をエルサレムに運び込む為であった。契約の箱の物語はサムエル記上4~6章で出ている。その箱はキリヤト・エリアムの人々によってアビナダブの家に運ばれその息子エリアザルによって守られていた。サウル即位から既に20年が経過していたが、ダビデが王位に着いてから加算すると50年とは言わない期間となる。
3節「彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた」。ウザとアフヨはアビナダブの家から神の箱を運び出し、ダビデとイスラエルの家は皆、糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。ところが牛がよろめき、車の後にいたウザが神の箱に手を出し押さえた(4~6節)。主は怒りを発しその場で彼を打たれ、神の箱の傍らで死んだ。箱の転落を防ごうとしたウザの行為は褒められてこそすれ、非難されるものではない筈で、彼が打ち砕かれたのを見てダビデも怒った(7~8節)。そして主を恐れて、神の箱を運ぶことを思い留まった(9~10節)。問題なのは「牛車」で運ぶことにあった。箱は祭司が肩に担ぎ、その為に担ぐ棒もあった(民数記4章15節、出エジプト37章4節)。ウザやダビデら一行は、箱にふれないで運ぶ規定を安易に考えたことから、聖なる神の意思に背く行為をしたのである。
11節「三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された」。この噂を耳にしたダビデは直ちに出掛けて喜び祝って神の箱を肩に担いで運び上げた。担ぐ者が六歩進んだ時、彼は車でなく担いで運ぶことの違いを確認した。そして雄牛の燔祭を献げて罪の赦しを求め、力の限り踊ったのである(12~14節)。
17節「人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた」。この燔祭と酬恩祭の献げ物をし終わると、主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆すべてに輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与え、そして民は皆、自分の家に帰って行った(18~19節)。
20節「ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。『今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。』」。これは14~16節に書かれている事柄を指し、ダビデ王が麻のエフォドを着けて喜び跳ね踊って町に帰って来た時、ミカルが窓からこれを見下ろし、心の内にさげすんだことを、侮蔑と皮肉たっぷりに語った言葉である。「裸になる」とは王衣を脱ぎエフォドを着たため肌が露わになったことを指す。これに対してダビデは、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で踊ったのだ、わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろうと応えた。これはミカルが王位継承者とサウルの子孫とを失うことで報われることになった(23節)。
ここで詩149篇1~2節が示される「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。 イスラエルはその造り主によって喜び祝い/シオンの子らはその王によって喜び躍れ」。