美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

国境を越えたBABYMETAL現象のキーワードは、「萌え」である(その4・完結編) (美津島明)

2015年07月02日 11時40分49秒 | 音楽
国境を越えたBABYMETAL現象のキーワードは、「萌え」である(その4・完結編) (美津島明)

前回、小林氏が、音楽ビジネス・アイドルビジネスの定石を無視したようなことばかりしているというお話をふたつしました。

そのみっつめに移りましょう。それは、ライブの会場の選び方の順序です。

地道なライブ活動の積み重ねの成果として、BABYMETALは、武道館のライブを実現しました。それは、ユニット結成から四年目の2014年3月1日と2日のことです。そのときの3人の平均年齢は14.6歳で、それは武道館ライヴの最年少記録を塗りかえるものでした。「その1」で申し上げたように、そのライブの模様は2枚のDVDに収められています。もしもこれからBABYMETALのDVDを自分も買って聴いてみようかと思われるのでしたら、私は、当DVDをお勧めします。巨大な魔法陣のなかで繰り広げられる彼女たちの歌と踊りと神バンドの演奏を、ほかの何にも邪魔されることなく心ゆくまで堪能できるからです。とくに、初日の最後の2曲、すなわち「ヘドバンギャー!!」から「イジメ、ダメ、ゼッタイ」への流れがドラマティックで感動ものです。「ヘドバンギャー!!」の終わりの方で、客を煽っていたYUI-METAL(水野由結)が図らずも舞台から奈落の底に転落して突然姿を消してからの、動揺を抑えながらのSU-METALとMOA-METAL(菊地最愛)の懸命の歌いぶりと踊りっぷり、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の冒頭での、SU-METALと舞台に復帰し「位置について」のスタンバイをするYUI-METALとの感情を抑えたストイックな、しかし十分に心のきずなを感じさせるアイコンタクト、曲の終末部で感情があふれそうになりながらも必至で自分を保とうとするMOA-METALのある種「壮絶な」と形容するほかはない可愛さ。総じて言えば、年齢に似合わぬ見上げたプロ意識が観る者を圧倒するのです。これは、BABYMETALファンならだれでも知っている話であり、この場面でハートを鷲掴みされないファンはまずいないと言い切ってもいいくらいなのですが、ファンならずとも、事情が分かるなら、それなりの感興をもよおすのではないでしょうか。

またもや、話が脇道にそれそうになってしまいました。ライブの会場の選び方の順序についてでした。小林氏は次のように言っています。

通常だったら、武道館の次はアリーナツアーきってって(ママ)やっていくと思うんですけど、その流れには乗らないほうがいいなと思って。せっかく中身にこだわって時間をかけてやっているのに、ちゃんと届かないうちに消費されて終わっちゃう感じがしたので。これは良くない、休もうって。それでひと区切りっていったら変ですけど、拠点を海外に移して向こうでツアーをやったりとかフェスに出たりしょうっていうのを、もう先に決めちゃって。何も決まらないうちに(笑)。
――そこに勝算はあったんですか?
いや、全然ないですよ。
――とりあえず行ってみようと。
はい。すべてそうなんですけどね。感覚でしか生きていないんで(笑)。

         (『音楽主義』NO68.2015 JAN-FEB)

これまでの話の流れから、ここで小林氏が、格好をつけて言っているとか、とぼけているとかいった可能性は、おそらくない、と言い切れます。というのは、このすぐ後で、海外ツアーの異様なほどの盛り上がりの要因を尋ねられて、「中途半端なものを出さずに、こだわって曲を作ってきた。そういうところが海外の人にも刺さったのかなって」と、ある意味ですさまじいほどの自信を感じさせる発言をしているのですから。つまり、“自分(たち)は「妥協しないで真剣にやらないとダメ」(『音楽主義』NO60.2013 SEP-OCT)
というモットーを守り続けてきた。その結果として、海外ツアーでの成功があったとしか自分には言いようがない。思い当たるのはそれくらいだ“と言っているのですね。その意味で、BABYMETALチームは一貫しているのです。そのモットーを最優先させ続けるのですから、その道筋が結果的に既成の音楽ビジネス・モデルやアイドル・ビジネスの常道から外れるのは避けられません。楽曲作りも、振り付け担当も、歌う側も、踊る側も、演奏する側も、舞台装置も、CDの音作りも、一切妥協を許さないというあり方は、実は音楽作りにおいて最高のプロ意識をキープするということです。その本気度を人々が敏感に感じ取り、深く支持し、CDを買い、DVDを買い、ライブ会場に熱心に足を運ぶことによって、心から応援しようとしている、ということなのでしょう。小林氏のそれこそ“オンリーワン”(BABYMETALの昔からのキーワード)の展開を許すアミューズ大里会長の、経営者としての度量の大きさとポップ・ミュージックへの愛は並大抵のものではないのでしょう。会長は巷ではいろいろと毀誉褒貶があるようですが、それはそれ、これはこれです。

海外ツアーの成功例として、挙げておかねばならないことがひとつありました。BABYMETALは、2014年7月7日、世界最大のメタルフェスであるイギリスのソニスフィアに参加しました。当初は、セカンドステージで出場する予定だったところ、問い合わせが殺到して、急遽メインステージに出場することになりました。このフェスは、聴衆の反応が厳しいことで有名で、演奏が気に入らないとブーイングの嵐が巻き起こったり、舞台にペットボトルなどの物がどんどん投げ込まれたりするそうです。そんななかで、BABYMETALは会場にぎっしり客を集め、ライブは大いに盛り上がり、結局は、その年のソニスフィアのベストアクトのトップ10に選ばれました。



マーティー・フリードマン、BABYMETALを語る
次に、メタルの頂点に位置するギタリストのひとり、マーティー・フリードマンにご登場願います。



マーティー・フリードマンがどういう人物であるかを語るだけで、メタル史の一コマを語ったことになります。つまり彼は、メタル史における重要人物のひとりなのです。いままで、当たり前のようにメタル、メタルと言ってはきましたが、世間であまりなじみのない音楽ジャンルなので(それゆえ偏見も多い)、この際、彼の人物像をやや詳しく語っておきましょう。とはいうものの、私がやや詳しく語ることができるのは60年代半ばからせいぜい70年代までのいわゆるロック・シーン一般なので、実は、80年代に台頭してきたメタルのことはあまり詳しくありません。若いころ、その仰々しい、もっと言えば、悪趣味なジャケットを見ただけで、聴く気が失せていたというのが本当のところです。

そこで、困ったときのWikipediaというわけで、それをアンチョコにして、マーティー・フリードマンについて触れることにしましょう。

と申し上げましたが、マーティー・フリードマンの話に入る前に、ひとつだけ触れておきたいことがあります。一般にヘビーメタルは、ブラックサバスから始まったとされています(諸説あるそうですが)。なにゆえブラックサバスがメタルの元祖とされるのかといえば、バレー・コードを簡略化したパワー・コード(五度コード)を使った曲作りを彼らがはじめてしたからであるそうです。パワー・コードは、教会音楽で使ってはならない悪魔の旋律であるとされていました。メタルの基本的性格を知るうえで、貴重な話であると思われるので、ちょっと触れることにしました。ちなみに、ブラックサバスは、1968年から30数年間活動しました。

では、本題に入ります。マーティー・フリードマンについて語るには、話の順序として、まずは、メタリカとメガデスの因縁話から始めるのが筋でしょう。

メタリカ (Metallica) は、1981年にジェイムズ・ヘットフィールド (Vo/G) とラーズ・ウルリッヒ (Dr) らが中心になって結成した、アメリカ合衆国はロサンゼルス出身のヘヴィメタル・バンドです。メタリカは、後に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において堂々の第61位になる超名門メタルバンドです。1983年にグループ内に異変が起きます。ギタリストのデイヴ・ムステインは、過度の飲酒や暴力などの問題行動、およびラーズ・ウルリッヒ、ヘットフィールドらのメンバーとの確執でメタリカを追い出されます。失意のうちにロサンゼルスに戻った二ヶ月後、D・ムステインは、ベーシストのデイヴィッド・エレフソンと出会い「メタリカを超えるバンドを作る」という決意をしてメガデスを結成します。「技量は、メタリカよりメガデスのほうが上」というのが定評のようです。また、メガデスは、メタリカ、スレイヤー、アンスラックスと並んで、スラッシュメタル四天王(Big 4)の一つに数えられています。

メガデスは、1990年、4thアルバム『RUST IN PEACE』を発表しました。そのアルバムから、新たにマーティ・フリードマンが、ドラマーのニック・メンザとともにメガデスに加わります。本作は、より正統的なヘヴィメタルに近づき、ムステインのアグレッシヴなプレイスタイルとフリードマンのメロディアスなプレイスタイルが見事に調和し、以前のどの作品よりも洗練されたアルバムとなりました。メガデス黄金期の幕開けです。つまり、マーティー・フリードマンは、メガデス黄金期を象徴するギタリストなのです。

マーティーは、1999年のメガデスの八枚目のアルバム『RISK』まで参加し、その後、同バンドを脱退しました。彼は10代のころから美空ひばりの『リンゴ追分』などの日本の演歌がとても気に入っていて、演歌のこぶしをギターで真剣に分析し、自分のギターの表現の幅を広げ、独自性を打ち出すのに分析結果をおおいに活用したそうです。日本好きが昂じたためか、2004年に、仕事も何も決まっていない状態で日本への移住を決めます。来日当初はいろいろと苦労をしたようですが、いまではテレビでよくその姿を見かけるので、仕事は順調なのでしょう。顔を見れば、みなさんも「ああ、あの流暢な日本語を話す面白い外人ね」と思われるのではないでしょうか。ところがどうして、メタラーにとって、マーティーは、「面白い外人」などという形容はとんでもないわけで、メタルの英雄のひとりと言っても過言ではないほどのキャリアの持ち主なのですね。

もうひとつ、忘れるところでした。BABYMETALのバックバンドを務める神バンドのギタリスト・大村孝佳は、マーティーのソロバンドのサポートギタリストでもあります。

そんなマーティーが、BABYMETALについて次のように語っています(以下は、すべて「エンタメ NEXT BABYMETALは言葉の壁を軽々越えた! マーティー・フリードマン★鋼鉄推薦版2014年9月11日」からの引用です)。

そうそう。まず、語らなくちゃいけないのは、彼女たちがある偉業をなしとげているということだよね。それが「言葉の壁」の問題。海外の人って基本的に、母国語じゃない音楽を聴かないんだ。日本人は英語の曲でも受け入れるけど、海外の人は「言葉がわからないから、いいや」って放り投げちゃうのが普通なんだ。

これ、よく分かりますね。マーティーは、「海外の人」とぼかしていますが、これは欧米人のことです。日本に何年住んでいようと、どんなに多くの日本人と接しようと、頑なに日本語を覚えようとしない欧米人、とくにアメリカ人とイギリス人に、私はこれまで何人か会ったことがあります。ある程度親しくなったイギリス人に対しては面と向かって、「あなたは、日本に何年も滞在しているのに、なぜ日本語を覚えようとしないのか」と真剣に尋ねたことがあります。彼は、私の問いをはぐらかしてまともに答えようとしませんでした。そのときの私はどこか虫のいどころが悪くて、「それはおかしなことだよ」と念を押しました。これは推測の域を出ないのですが、その現象の根底には、イギリス人とアメリカ人の、新旧の覇権国家としての傲慢さがあると私は見ています。それは、彼らにとって当然の前提なので、半ば無意識になってしまっています。そうであるがゆえに、いつでもどこでも英語で押し通そうとするのでしょう(厚かましいにもほどがありますね)。「言葉の壁」は、そういうこともあって、とても分厚いのです。

で、マーティーは、その高かったはずの壁をBABYMETALが一気に乗り越えてしまったと言っているのです。よく考えてみれば、それは驚異的なことですね。その理由を、マーティーは次のように分析します。

ではなぜBABYMETALは、ビルボードチャートに入るほど受け入れられているのか?その理由は「これまでにない新しいイメージを持っていた」ってことだよね。

次に、ヘビーメタルの停滞した現状の問題に触れます。この問題は、小林氏を含めた心あるメタラーが等しく心を痛めているものであるようです。

へヴィメタルというジャンルはお約束だらけの世界で、男っぽさや激しいイメージを売るのが基本だし、音楽的にも幅が狭い。でもBABYMETALのイメージは【カワイイ】だった。メタルなのに女の子がスカートを履いて踊っているし(笑)。そして、サウンドもそれまでのメタルとは異なっている。激しいギターや重たいドラムの上に女の子の歌声が乗っていたんだ。しかも、歌メロのサビは“超超超”ポップなメロディ。アルバムを聴くと、ヒップホップやEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージック)の影響も感じられる。正直、こんなメタルはありえないよ。もう、こうなると、言語云々の問題じゃなくなってしまう。海外の音楽ファンにとって、これは大きなカルチャーショックだったんだ。

おおむね〈BABYMETALの楽曲は、メタルの「お約束」をことごとく破っていながら、あくまでもオーソドックスなメタルの流れを受け継いでいる。そのことが、欧米のメタルファンによって、新鮮なカルチャーショックとして受けとめられたので、言葉の壁の問題など吹っ飛んでしまった〉という意味のことを、マーティーは言っているようです。ここで、メタルの「お約束」をことごとく破ることと、あくまでもオーソドックスなメタルの流れを受け継ぐことをつなぐものは何なのか、ちょっと立ちどまって考えてみたいと思います。それは、前回の「その3」で申し上げたこととつながります。小林氏は、神バンドのメンバーに対して、SU-METALの歌声を引き立たせるための配慮を一切せずに、ゴリゴリのメタルを全力で演奏することを求めている、という意味のことを申し上げました。そのことが、いま挙げた、一見矛盾するふたつのことがらを結びつけていると私は考えます。小林氏は、神バンドの、メタル的な意味での妥協なき演奏こそが、SU-METALのどこまでもまっすぐにのびる歌声の凄味をかえって引き立てることをよく分かっているのです。その意味で、一見矛盾するふたつのことがらを結びつけているものは、小林氏の、メタルへの深い愛とSU-METALの歌声へのこれまた深い入れ込みとその底力へのゆるぎない信頼である、と言いかえてもよいのではないでしょうか。

マーティーの言葉に戻りましょう。

メタルってジャンルはあまり進化しない。他のジャンルの影響を受け入れない壁があるからね。だけど、それに飽きてきている人も多いはずで、何か新しい要素を入れていかないとジャンルとして長続きしない。そう考えると、幅広い音楽性を持つBABYMETALはメタルの生命を守ったと言えるかもしれない。彼女たちのやり方を受けて、カントリーメタルとか演歌メタルとかが出来てきてもおかしくないよ(これは冗談じゃなくて本当にそういうのが出てきてほしい!)。

昔から演歌に真剣に取り組んできたマーティーが、本気でそういっていることは間違いありませんね。マーティーから「BABYMETALはメタルの生命を守った」と言われた小林氏は、きっと涙がちょちょびれる思いがこみあげてきたにちがいない、とも思います。

以上のような、メタルの専門家の発言は重大です。なぜならマーティーの発言は、BABYMETALの音楽が、海の向こうにいるメタルのコアな愛好者から心からの支持を受けていることを雄弁に物語っているからです。つまり、言語をビジュアル化した振付を含めてのBABYMETALの音楽性は、世界水準に達したものであるだけではなくて、世界のメタルのいわば不可避的な衰退の状況を突破する最前線に位置するものである、といえるのでしょう。マーティーの「カルチャーショック」には、そういう意味も含まれていると解してどうやら大過がなさそうです。とするならば、BABYMETAL現象が国境を越えて起こっているのはむしろ当然なことである、といっていいのかもしれません。

BABYMETALのライブステージは神話空間である
当論考の最後に、BABYMETALのライブステージは神話空間であるというお話をしようと思います。まずは、ふたたび小林啓氏の言葉に耳を傾けてみましょう。

BABYMETALの場合、メンバーの素のキャラクターをアイドルとしてとらえると、どちらかというとカッコいいよりはかわいらしいタイプなので、そっちに寄せすぎちゃうと想定内で収まってあんまり面白くなくなっちゃうなと思って。だから素の本人たちと真逆な存在、僕がメタル好きだからっていうのもあるんですけど、“神”みたいな存在の方が面白いなと。ライブでもしゃべらない、みたいな。                  (『音楽主義』NO.60 2013年SEP-OCT)

ここで、「“神”みたいな存在」というのはもちろんSU‐METALを指しています。また、「“神”みたいな存在」であるSU‐METALのバックバンドだから「神バンド」であるというのは分かりやすい話です(神業みたいな演奏をするので「神バンド」という意味合いもあると思います)。彼らが死人のメイキャップをしているのは、「自分たちはこの世の存在ではない」というメッセージを発するためではないでしょうか。

SU-METALについて、振付師のMIKIKO氏が、とても面白いことを言っています。あるインタヴューでの「これまでに振り付けをされてきた中で、特に印象に残っている方は誰ですか?」という質問に対して、彼女は、「しいて言うならすぅちゃん(中元すず香のことです――引用者注)かな。これは褒め言葉なんですけど、本当に感覚だけでやっている。なかなか、他人とは合わせられないんです。ちっちゃい頃から完全にアーティストでしたね。リハの段階から、音が鳴ったら歌もダンスも常に全力投球。まったくセーブができないんですよ。存在自体がブッ飛んでいますね」と答えています。

どうやらSU-METALは、音を合図にスイッチが入りトランス状態になってしまう「依り代」体質あるいは憑依体質の持ち主のようです。「“神”みたいな存在」にうってつけですね。彼女には、“メタルの神キツネさまは、メタルレジスタンスのためにこの世にBABYMETALの三人を送り出した”というBABYMETALライブの基本設定をすんなりと受け入れる素地があるのですね。というよりむしろ、彼女の独特の存在感をふまえたうえで、小林氏は、そのような基本設定をしたというべきなのかもしれません。

BABYMETALはリアリティ重視というよりはディズニーランドだと思っているんです。ミッキーの耳をつけた瞬間にその世界観に入れるみたいな、メタルもある種のファンタジーだと思っているんですよ。BABYMETALのライブに行ったら、その世界に入り込んでストーリーを楽しむ。会場を出たら現実に戻るんだけど、また行きたいなと思わせる。そういう現実と非現実の間を行ったり来たりするようなところに持っていきたいなっていうのはあるかもしれません。
(同上)

小林氏の言葉使いにひとつだけ注文をつけると、引用中の「ディズニーランド」という言葉はあまり適切ではないような気がします。これって消費文化のシンボルのような、ちょっとマイナスのイメージも含まれた言葉のような感じがするんですね。むしろ端的に「祝祭空間」、あるいは「非日常的祝祭空間」という言葉の方が適切なのではないかと思われます。とするならば、小林氏はここで、「BABYMETALのライブステージは神話空間である」という私の言い方を別様に言っていることになります。

では、YUI-METAL(水野由結)とMOA-METAL(菊地最愛)は、そういう神話空間のなかでどんな役割をしているのでしょうか。

SU‐METALを中心としてメンバーを探したが、彼女が独特な存在感を持っているので、まったく別のキャラクターを加えるのがいいのではという結論に至った。そこで、SU‐METALの周りを天使のような子たちが踊っているというのはどうだろうと、YUI-METAL(水野由結)とMOA-METAL(菊地最愛)に参加してもらうことになった。
(「異色メタルアイドル「ベビーメタル」はなぜ人気?」より 2012年10月31日)

当時この三人は、さくら学院という所属年齢限定のアイドル・グループに所属していました。さくら学院について話し始めるとまたもや脇道にそれてしまうことが必定なので、それはやめておきますが、運命的にそこに集まってきた三人を抜擢した小林氏の慧眼、あるいはその直観の鋭さはいくら讃えられても讃えられすぎるということはない、と言いたい気がします。

というのは、SU-METALという「“神”みたいな存在」にYUI-METALとMOA-METALという二人の天使、あるいは二匹の狛犬を配置することで、BABYMETALに、柳田国男のいわゆる「妹の力」がダイナミックに働くことになったからです。「妹の力」は、神話空間が人びとを吸引する力を説明したものであるという読み替えが可能であると私は思っています。その意味で、この三人の人選は、BABYMETALのライブが魅力的な神話空間として立ち現れるためにぜひとも必要なものであったと言いうるのではないでしょうか。

「妹の力」とはいかなるものなのでしょうか。柳田国男は、その威力がいかなるものなのかについての感知が鮮烈なイメージをともなって私たちの直観にじかにとどくエピソードを、提供してくれています。引きましょう。

最近に自分は東北の淋しい田舎をあるいていて、はからずも古風なる妹の力の、一つの例に遭遇した。盛岡から山を東方に越えて、よほど入り込んだ山村である。地方にも珍しい富裕な旧家で、数年前に六人の兄弟が、一時に発狂をして土地の人を震駭せしめたことがあった。詳しい顛末はさらに調査をしてみなければならぬが、何でも遺伝のあるらしい家で、現に彼らの祖父も発狂してまだ生きている。父も狂気である時仏壇の前で首をくくって死んだ。長男がただ一人健在であったが、かさねがさねの悲運に絶望してしまって、しばしば巨額の金を懐に入れ、都会にやってきて浪費をして、酒色によって憂いをまぎらわそうとしたが、その結果はこれもひどい神経衰弱にかかり、井戸に身を投げ自殺をしたという。村の某寺の住職は賢明な人であって、何とかしてこの苦悶を救いたいと思って、いろいろと立ち入って世話をしたそうだが無効であった。この僧に尋ねてみたらなお細かな事情がわかるであろうが、六人の狂人は今はなお本復している。発病の当時、末の妹が十三歳で、他の五人はともにその兄であった。不思議なことには六人の狂者は心が一つで、しかも十三の妹がその首脳であった。例えば向こうからくる旅人を、妹が鬼だというと、兄たちの目にもすぐに鬼に見えた。打ち殺してしまおうと妹が一言いうと、五人で飛び出していって打ち揃って攻撃した。屈強な若い者がこんな無法なことをするために、一時はこの川筋には人通りが絶えてしまったという話である。
                           (柳田国男『妹の力』より)

神話の吸引力がいかに絶大なものであるかが鮮烈なイメージで直截に述べられています。それがそういうふうに思えないのは、私たちが日々暮らしていて引力がいかに強烈なものであるのかをまったく意識しないのと似ているような気がします。ユングなどは、それがいかに絶大な力を私たちにふるうのかを一生かかって説いた人物なのでしょう。

BABYMETALのライブという祝祭空間には、そういう神話的吸引力すなわち「妹の力」が働いていると私は感じます。この力をたどっていくと私たちは、『古事記』の天照大神や舞姫・アメノウズメの世界にまでおのずといざなわれることになります。BABYMETALに対して欧米人たちが感じるカルチャーショックの淵源はとても深いところにある、というのが私なりの感触です。彼らは、それをそういうものとして意識はしていないでしょうが。まあ、いま言っていることは絶対に正しいと言い張る気はありませんよ。ここはとくに直観的なお話ですから。感じる人は感じるし、感じない人は感じない。それ以上はどうのこうのと言えません。

そろそろ話をまとめましょう。BABYMETALが発揮している「妹の力」に着目するならば、BABYMETAL現象のキーワードは「妹萌え」であると言っていいのではないでしょうか。BABYMETALの世界への入り口はそれぞれ異なるでしょう。「SU萌え」から入る人、「YUI萌え」から入る人、「MOA萌え」から入る人、「神バンド萌え」あるいは「メタル萌え」から入る人、あるいは、MIKIKO氏はとても素敵な女性ですから、「MIKIKO萌え」なんて人もいるにちがいありません。

それぞれ入口は異なるのですが、いったんBABYMETALの世界に参入してしまえば、結局その強力な神話力すなわち「妹の力」にそれぞれの形で感応することになっているのではないかと思われます。

そう考えると、BABYMETAL現象とは、柳田国男の「妹の力」が、日本の近代史上はじめて言語の壁を越え、文化の壁を越えて、世界の心ある人々の直観に訴えつつある画期的な精神史的できごとであると言えるのではなかろうかと思われます。そう考えると、いまさらながらですが、音楽の力は絶大であるという感慨が湧いてきます。「萌える男」・小林啓氏は、図らずも、そういうとほうもなく大きな仕事の推進者になっていることになります。むろん本人は、そう言われても、「さて、どうでしょう」と言うだけでしょうけどね。

「その1」で申し上げたように、「萌え」の一般化は、資本主義の爛熟期に特有の精神現象です。そうして「萌え」とは、エロスの領域にまで商品化のプロセスが微細に浸透した状況に対する意識的無意識的異議申し立てであり、そうであるがゆえに差し当たりそれは、フィクションの領域へのエロスの撤収という消極的な形をとらざるをえません。しかし「萌え」には、潜在的に、そのフィクションが神話構造を備えた場合、神話的次元への参入による生命力の更新という大きな可能性がある、ということが見えてきたような気がいたします。ここからさらにどういうことが言えそうなのか、これからもう少し考えを進めてみようと思っています。BABYMETALは、これからも私たちをとてもスリリングで魅惑的な場所にいざなってくれる予感があります。 (おわり)

〔オマケ〕MIKIKO氏が号泣したという、BABYMETALの最新PV映像をアップしておきましょう。「ROAD OF RESISTANCE」です。BABYMETALの三人の、海外ツアー経験の積み重ねによって大きく成長した姿が感動的です。たしか、今年の1月のさいたまアリーナでの、海外ツアー凱旋ライヴのラストではなかったかと思います。


BABYMETAL - Road of Resistance - Live in Japan - (Official Video)
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