ブライアン・ウィルソンのこと (美津島明)
昨日、CS放送のMUSIC・AIRチャンネルで、ビーチ・ボーイズの元リーダーのブライアン・ウィルソンと女性ロック・シンガーの草分け的な存在のジャニス・ショップリンの特集番組が放送された。それぞれ興味深い内容だった。今回は、ブライアン・ウィルソンに触れようと思う。
ブライアン・ウィルソンについては、次の逸話が有名であると思われる。1965年12月に発売された、ビートルズの『ラバー・ソウル』から、ブライアン・ウィルソンは、深甚な刺激を受けた。当アルバムは、従来のような、ヒット曲を寄せ集めただけのそれではなくて、一定のコンセプトによって収録曲が緻密に編集されたトータル・アルバムなのであった。そういうアルバムの作り方は、ブライアン・ウィルソンがその脳裡に温めていたアイデアでもあった。それで激しく対抗心を燃やし、『ラバーソウル』を超えるアルバム作りが、彼の目標となった。その結果、翌66年に発表されたのが、ブライアン・プロデュースの『ペットサウンズ』である。
『ペット・サウンズ』はいまでこそロック史上に残る名盤として扱われているが、当時のアメリカでは、その内省的な歌詞と音が、従来のビーチ・ボーイズの外向的なイメージとかけ離れていたせいで、あまり高い評価を受けなかった。一方、イギリスでは全英アルバムチャートで26週連続トップ10入りする大ヒットとなり、当年の『NME』の人気投票では、「トップ・ワールド・グループ」部門でビーチ・ボーイズがビートルズを抜いて1位になった。そうして今度は、当アルバムがビートルズに大きな刺激を与えることになった。その返歌が、翌67年6月に発表された世紀の傑作アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である。当アルバムのプロデューサーのジョージ・マーティンやポール・マッカートニーが「このアルバムはビーチ・ボーイズのペット・サウンズに影響された」と語ったのは有名な話。私見によれば、『ペット・サウンズ』は、確かに『ラバー・ソウル』をしのぐ出来栄えなのである。
ブライアンは、当アルバムが、『ペット・サウンズ』に対する返歌であることを正確に受けとめた。そこで今度は、『サージェント~』を超えるアルバム作りが、ブライアンの目標となった。で、彼は『スマイル』の制作に取り組んだ。しかし、発売の事前広告までされた当アルバムは、ついに完成されることがなかった(『スマイル』のその後の数奇な運命については略する)。諸般の事情が、ブライアンに当アルバムを完成させることを阻んだのである。その結果、ブライアンは精神に変調をきたすようになり、ドラッグの過剰摂取におぼれる日々を過ごすことになった。ビートルズVSブライアンというポップスの神々の闘いは、ひとまずブライアンの自滅によって終止符を打たれたといっても過言ではない。この華麗な闘いの代償として、ブライアンは、約二〇年間、ポップ・ミュージックの表舞台から姿を消すことになる。
話が長くなってしまったが、ブライアンに関してここでそういうことが言いたかったわけではない。番組中で、初期のブライアンが、フィル・スペクターから大きな刺激を受けたという指摘がなされていて、そのことに興味を持ったので、いささかその事実に触れたいと思っているのである。
スペクターが、女性三人グループのザ・ロネッツをプロデュースし、『ビー・マイ・ベイビー』を大ヒットさせたのは、1963年のことだった。まずは、どんな曲か聴いていただきたい。
Be My Baby [日本語訳付き] ザ・ロネッツ
いま聴いても、なかなかクールで素敵な曲だと思う。当曲では、後にオーバーダビングと名付けられることになる、当時においては斬新な曲作りがなされている。すなわちスペクターは、多人数のスタジオ・ミュージシャンを起用し、録音された複数のテイクを重ねる作業を何度も繰り返すことで、重厚な音を創り出している。その音は、当時「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれた。その「ウォール・オブ・サウンド」に、ブライアンは敏感に反応したのだ。この斬新な音作りに出会うことで、彼は、大衆を楽しませるポップミュージックを作ることと高度な音楽作りとが両立できるという確信を得た。次に紹介する『ドント・ウォーリー・ベイビー』が、スペクターの『ビー・マイ・ベイビー』から多大な影響を受けて作られたものであることは多言を要しないだろう。
Beach Boys - Don't Worry Baby (1964)
これらの曲を聴いていると、邦楽系のポップミュージックをある程度聴いた方なら、大瀧詠一、山下達郎という名がおのずと浮かんでくることだろう。つまり、スペクターやブライアンが作りだした当時の音楽は、後の日本ポップス界の最良の部分に深甚なる影響を与えているのである。ちなみに、スペクターは、後にビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』をプロデュースした。その事実の方がむしろ人口に膾炙しているのかもしれない。
昨日、CS放送のMUSIC・AIRチャンネルで、ビーチ・ボーイズの元リーダーのブライアン・ウィルソンと女性ロック・シンガーの草分け的な存在のジャニス・ショップリンの特集番組が放送された。それぞれ興味深い内容だった。今回は、ブライアン・ウィルソンに触れようと思う。
ブライアン・ウィルソンについては、次の逸話が有名であると思われる。1965年12月に発売された、ビートルズの『ラバー・ソウル』から、ブライアン・ウィルソンは、深甚な刺激を受けた。当アルバムは、従来のような、ヒット曲を寄せ集めただけのそれではなくて、一定のコンセプトによって収録曲が緻密に編集されたトータル・アルバムなのであった。そういうアルバムの作り方は、ブライアン・ウィルソンがその脳裡に温めていたアイデアでもあった。それで激しく対抗心を燃やし、『ラバーソウル』を超えるアルバム作りが、彼の目標となった。その結果、翌66年に発表されたのが、ブライアン・プロデュースの『ペットサウンズ』である。
『ペット・サウンズ』はいまでこそロック史上に残る名盤として扱われているが、当時のアメリカでは、その内省的な歌詞と音が、従来のビーチ・ボーイズの外向的なイメージとかけ離れていたせいで、あまり高い評価を受けなかった。一方、イギリスでは全英アルバムチャートで26週連続トップ10入りする大ヒットとなり、当年の『NME』の人気投票では、「トップ・ワールド・グループ」部門でビーチ・ボーイズがビートルズを抜いて1位になった。そうして今度は、当アルバムがビートルズに大きな刺激を与えることになった。その返歌が、翌67年6月に発表された世紀の傑作アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である。当アルバムのプロデューサーのジョージ・マーティンやポール・マッカートニーが「このアルバムはビーチ・ボーイズのペット・サウンズに影響された」と語ったのは有名な話。私見によれば、『ペット・サウンズ』は、確かに『ラバー・ソウル』をしのぐ出来栄えなのである。
ブライアンは、当アルバムが、『ペット・サウンズ』に対する返歌であることを正確に受けとめた。そこで今度は、『サージェント~』を超えるアルバム作りが、ブライアンの目標となった。で、彼は『スマイル』の制作に取り組んだ。しかし、発売の事前広告までされた当アルバムは、ついに完成されることがなかった(『スマイル』のその後の数奇な運命については略する)。諸般の事情が、ブライアンに当アルバムを完成させることを阻んだのである。その結果、ブライアンは精神に変調をきたすようになり、ドラッグの過剰摂取におぼれる日々を過ごすことになった。ビートルズVSブライアンというポップスの神々の闘いは、ひとまずブライアンの自滅によって終止符を打たれたといっても過言ではない。この華麗な闘いの代償として、ブライアンは、約二〇年間、ポップ・ミュージックの表舞台から姿を消すことになる。
話が長くなってしまったが、ブライアンに関してここでそういうことが言いたかったわけではない。番組中で、初期のブライアンが、フィル・スペクターから大きな刺激を受けたという指摘がなされていて、そのことに興味を持ったので、いささかその事実に触れたいと思っているのである。
スペクターが、女性三人グループのザ・ロネッツをプロデュースし、『ビー・マイ・ベイビー』を大ヒットさせたのは、1963年のことだった。まずは、どんな曲か聴いていただきたい。
Be My Baby [日本語訳付き] ザ・ロネッツ
いま聴いても、なかなかクールで素敵な曲だと思う。当曲では、後にオーバーダビングと名付けられることになる、当時においては斬新な曲作りがなされている。すなわちスペクターは、多人数のスタジオ・ミュージシャンを起用し、録音された複数のテイクを重ねる作業を何度も繰り返すことで、重厚な音を創り出している。その音は、当時「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれた。その「ウォール・オブ・サウンド」に、ブライアンは敏感に反応したのだ。この斬新な音作りに出会うことで、彼は、大衆を楽しませるポップミュージックを作ることと高度な音楽作りとが両立できるという確信を得た。次に紹介する『ドント・ウォーリー・ベイビー』が、スペクターの『ビー・マイ・ベイビー』から多大な影響を受けて作られたものであることは多言を要しないだろう。
Beach Boys - Don't Worry Baby (1964)
これらの曲を聴いていると、邦楽系のポップミュージックをある程度聴いた方なら、大瀧詠一、山下達郎という名がおのずと浮かんでくることだろう。つまり、スペクターやブライアンが作りだした当時の音楽は、後の日本ポップス界の最良の部分に深甚なる影響を与えているのである。ちなみに、スペクターは、後にビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』をプロデュースした。その事実の方がむしろ人口に膾炙しているのかもしれない。