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八十路の青春賦 人生の黄金期を自分らしく あるがままに生きる幸喜幸齢者 感謝と幸せの生きがい日記 頑爺/肇&K

稀有な日本人 (essay)

2025年02月15日 | 自由 essay & 詩人クラブ
 幸喜幸齢 生きがい日記
2025  2.15  5/10℃  
稀有な偉人(essay)   

「賀川豊彦」と言う人を知っていますか。
ボクが10人に聞けば10人共に知らない、聞いたこともないという。
 明治42年クリスマスの日、21歳の賀川豊彦は在学する神学校の近くにあった神戸・新川の最貧民窟に居を移した。
 前年殺人があり借り手のいない3畳で板の間だけの部屋に引っ越し、苦難の中で延べ15年間、路傍伝道と貧民救済活動に奔走する。



 途中、宣教師の薦めでアメリカのプリンストン大学神学部へ留学する。そこで学んだのは貧民救済の為、それを防ぐ根本的な防貧活動が必要だと知り、後に初の労働組合、農業協同組合、漁業組合、医療組合、生活協同組合を創設、また健康保険、失業保険などの組織化を図り先頭に立った。



 また被災者340万人と言う未曽有の関東大震災では、いち早く救済活動を展開した事を知る。日本で初のボランティア活動を組織したのもこの時の事。
 その他、著作「死線を越えて」他は、国内外累計400万部以上という当時最大のベストセラー作家ともなった。著作の多くは翻訳されて世界へ流布され、海外でその活動は大きく評価された。



 また延べ死者310万人と言う悲惨な太平洋戦争では、日本が無条件降伏をした直後に、焦土と化した日本の地に降り立った連合軍総司令官の姿、天皇陛下と並ぶ写真を知る。
 そのマッカーサー元帥が後の回顧録に残している文面がある。それは賀川豊彦がマ元帥に招かれた時に「このままでは一千万人の国民が餓死する。至急食料品と医療品を送って欲しい」と訴えた時の事。


千里南公園のユーカリの木 10本以上あったが寿命か? 次々と伐採される 娘が幼い頃、オーストラリアの旅でユーカリの木の下でコアラを抱いた思い出😄

 マ元帥は「自分と日本政府との間には交渉というものはない。天皇陛下も日本政府も私の命令にただ従えばそれでよいからだ。しかし自分の自由にならない日本人が一人いる。それはドクター・カガワである。今世界は日本の賀川豊彦牧師を聖者として尊敬しており、私が彼に指一本加えれば、私の占領政策は世界の非難の的になりかねないからだ」と記している。



 その後アメリカの輸送船団が日本へ食料品・医薬品を次々と送ってきた。小麦粉はパンになり、粉ミルクは学校給食にも出たが、当時小学生で不味かった記憶がある。しかし、その支援のお陰で国民は最低限救われたのである。



 彼はまた世界連邦建設に尽力し、吉田茂はじめ政財界人、アインシュタイン博士やラッセル卿らとの交流、ルーズベルト大統領はじめ世界の指導者とグローバルに交わるなど、誠に稀有な日本人であった。


公園の梅林もやっと少し開花しだしたよ  昨年より3週間以上遅い開花だね🌸🎶

後に賀川豊彦は海外でインドのガンジー、アフリカのシュバイツァーと共に世界の三大聖人と称され、ノーベル文学賞2回、平和賞4回も推薦され、最終選考の途中、72歳で昇天した。その功績を称え、アメリカのワシントン大聖堂には賀川豊彦の銅像が建っている。


 ボクは高校時代に尊敬する人物の発表会で「賀川豊彦」を取り上げたが、それ以来忘れていた。だが街道歩き旅や列車旅をしている時に、偶然賀川豊彦の足跡を随所で知り、再び興味がわき、「80歳の生きがい探訪記」として取り上げた。 現在その資料収集と共にその足跡を辿り訪ねつつある。

肇&kirihara   自由essay&詩人クラブ  No.128






公園にもやっと春が来たよ🌱🍀🌿🌷




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