日頃の何氣ない風景 ・音楽鑑賞・株投資、感じた事を

音楽鑑賞の感想雑文と、相場から経済情勢を
御礼
7年間 総閲覧数2,907,866  

空 観

2006-11-12 | 無能唱元・唯心円成会
空 観
 「人は病いの器である」という古い言葉があります。 まことに尤もと言わざるを得ない言葉であります。
 しかし、これは主として、「人の体について」の言葉です。私は、その他に「人の精神について」の部分があるべきだと思うのです。すなわち「人は失意の器である」という言葉そこに付け加えたいのです。
 人は、出来るだけ、病気にかからず、またかかっても、出来るだけ、速やかに治す、とこれは万人共通の願いであり、これを「養生」というのでありますが、この養生は、各人の人間としての権利であると同時に、義務でもありましょう。
なざなら、病気の苦痛を癒すのは、当然、当人の欲求ですが、同時に病気は、はた迷惑となるかです。つまり、病気を治すのは、人の義務でもあるのです。

 しかし、これも、沈んだ気分は、とかく、周囲の人々にマイナスの気分を引き起こすことを考えてみれば、その、はた迷惑さは、体の場合と同罪であると理解されましょう。
 否、体の病気は、気分を変えただけでは、なかなか治りにくいことが、しばしばあることと比べれば、精神の方のそれは、少なくとも、自分の氣分を変えれば済むことですから、その責任性はもっと重くなる筈です。

 私の記憶に誤りがなければ「不機嫌なるほど、大きな罪はない」と言ったのは「幸福論」を書いたアランだと思いますが、けだし名言だと思われます。
 この意味で考えれば、人がマイナスの気分でいるとことは、単に不健康というよりは、むしろ「精神的な病い」であると言っても、言い過ぎではないかも知れません。
 しかし とは言っても、これはただ単に「氣分を明るくせよ」と命じても、おいそれと、マイナスの気分をプラスに転換できるものではありません。こんな時はどうしたら良いでしょうか?
 仏教では「空観」という意識状態に入ることによって、マイナスの気分を払い捨てることが出来る と教えております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 けして 病があろうとも 心まで 病ます まい

コップ、イッパイの水を入れ替えるには、一滴一敵・・新鮮な水を注ぐ・・

心の垢も・・積極的な言葉を注ぎ込む・プラス言葉を・・