日頃の何氣ない風景 ・音楽鑑賞・株投資、感じた事を

音楽鑑賞の感想雑文と、相場から経済情勢を
御礼
7年間 総閲覧数2,907,866  

盤珪禅師の 意外な答え Ⅱ

2006-11-15 | 無能唱元・唯心円成会
それは、この鋳物師に対する慈悲心からなのです。罪の意識に恐れおののいている弱い凡夫を見た時、とっさに盤珪の慈悲心は発動し、このような寛容な答えとなったのです。

 では、盤珪は無法なことや不道徳なことを、いつでも、どうでもいいと思っていたのでしょうか? いいえ、そんなことはありません彼には次のような逸話もあります。

 盤珪が旅の途中で、渡し舟に乗った時のことです。
渡し守が、舟を岸に寄せ、陸に積んであった薪を、舟に積み込み、盗もうとしました、この時、客は盤珪一人であり、あたりに人影もなかったので、渡し守り悪心を起こしたのです。盤珪は、「盗んではならぬ」と渡し守に言いました。「うるさい、坊主、黙ってひっこんでいろ!」と渡し守は凄みました。「どうしても盗むなら、わたしを殺してから盗め。わたしはお前を泥棒にすることはできぬ」渡し守は、とうとう薪を盗むことができず、舟を置き去りにして、去って行ってしまいました。

 さて、前者の鋳物師の場合の、でたらめとも思える寛大さと、後者の渡し守の場合に見る、命を賭してまで示した厳しさと比べてみる時、そのどちらが本来の盤珪の姿なのでしょうか?
 実は、この両者とも、盤珪の本質ではないのです。あるいは又、両者とも、盤珪の本質なのです。そこには、固定した本質というものがある訳ではありません。
 盤珪は、ものごとを、本質をもって見たのではなく、虚心をもって見たのです。
すると、彼の心内には、パーニャの力がどっと流れこんできたのです。そして彼の心を満たしたこのパーニャが、その時、最も必要とされる行為を彼にとらせたのでした。すなわち、ある時は、並外れた寛大さを・・そして又ある時は、命がけの厳しさを・・
 盤珪はこれを「仏心の発露」というように表現しております。
 私に言わせれば「心を虚にして、そのあるがままを見つめれば、そのパーニャの力はおのずから生じてくる」のです。
 そして、盤珪禅師は、この力のことを「不生」という名をもって呼んだのでした。
(パーニャは般若の原語です)
///////////////////////////////////////////////////

あるがまま 見る なにもたさない なにもひかない・・
善 と 悪 真・信 偽り  目線を低く・・あるがまま


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唱元氏とは関係有りませんが↓盤珪禅師・・法話もあります
瑞雲院のHP


盤珪禅師の 意外な 答え

2006-11-15 | 無能唱元・唯心円成会
盤珪禅師の意外な答え
 ある時、ある鋳物師が、盤珪禅師に尋ねました・「私は鍋釜に穴があいた失敗作品ができますと、その穴を「そっくい」(飯粒をつぶして作った糊)でふさいで、見えないようにし、無きずの完成品だと言って売っておりますのが、どうも気になっております。
 こういうことをしていると、その罪で、いまに罰・ばち があたるでしょうか?」

この返答に、盤珪は驚くべき答えを出しているのです。
盤珪は彼に聞きました。「それは、お前だけがしていることか?」鋳物師は
「いいえ、世間では皆同じようなことをしております」と言いました。
盤珪「夜中に売るのか?」鋳物師「いいえ、真昼間に売ります」そこで盤珪はこう言って聞かせました。
 「相手の買い手も目があって買うのだ。もし、きず物を無き きずだと言って、夜中に売れば、罪になることだが、真昼間のことだから、向こうきず物だとわかったら買うまい、余り悔やむほどのことでもない。そんなに気にするな」

こんな、法にも触れるし、あきらかに人の道にもはずれた行為を「あまり悔やむほどのことでもない」と、しゃあしゃあと言ってのけた盤珪の図太さには、私もあっけにとられました。なぜ、盤珪はこんなことを言ったのでしょう?

 それは、この鋳物師に対する慈悲心からなのです。罪の意識に恐れおののいている弱い凡夫を見た時、とっさに盤珪の慈悲心は発動し、このような寛容な答えとなったのです。

つづく