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満州から帰国して1週間しかなかったが、それもつかの間!
17歳の母と佐賀の実家で結婚すました。
すぐに招集が来て、今度はフィリッピンに転戦した。
その別れの時、
父は「ポロっ!」と涙をながした。と母は言っていた。
ジャングルを彷徨い、大半の仲間を失った。
やっと「終戦後帰ってくると暖かい家庭生活が待っているだろう!」
と思うのは自然な想像かもしれない。
しかし、
実際はそれからがまた大変な人生が待っていた。
一つは
日本は一面焼け野が原であった。就職先がないのであった。
我が国全体が一からの出発だった。
実家の農業を手伝いながら、就職活動をつづけた。
次の年に姉が生まれ、その3年後にわたしが生まれた。
やっと見つかった先は小城の炭鉱だった。
私が3歳から5歳ころをそこで過ごした。
そこに追い打ちをかけたのは父は”PTSD”にかかっていた!(今思うに)
その為、
アルコールなしには生きていけない精神状態に追い込まれていた。
母の話によると夜寝ていても父が”寝ている気配がない”というのだ。
というのは、
もう戦争が終わっているというのに「四六時中戦闘状態」
言い換えれば「夜襲にいつも備えた塹壕の中」で、
常時、死の恐怖と緊張状態、
また目の前で血みどろになってなくなっていった戦友たちの様子が
頭から拭い去られていなかった。
その為、
いつも酒を浴びるように飲んで寝るようになっていった。
いつの間にかPTSDとアル中との合併症にかかっていたようだ。
その後、姉、私、次々家族は増えていった。
ある日父が突然帰って来なかった。
一族の供出用の米俵を持って現金に変えるために出掛けた。
だが2週間ほど帰って来なかったのだ。一族一同大騒ぎになった。
一族の生活の糧を使い込んだのだ。
帰ってくると直ぐに一族会議が行われた。
父は一応、家長の長男であり、一族の財産を一手に握る立場にあったが
全ての遺産放棄を迫られた。
当時生まれたばかりの姉をつれて
母は着の身着のまま姉とともに、大所帯の家事と農業に従事していたが
ボロ雑巾のように働いたあげくそこから放りだされた。
さらに、その後2人の妹が生まれたが
まともな仕事に就けない、続かない、おまけに酒、女におぼれ、酒乱。
特に酒乱と母への暴力は耐え難いものだった。
当然、その負担は家族に転嫁され、
母の労苦は並大抵のものではなかった。
素面(しらふ)の時の父は信じられない程おとなしい父でもあった。
これがアルコールが入ると豹変するから始末が悪かった。
この苦労は子供たち4人が無事、最終学業を終えるまで途絶えることはなかった。
だからといって国家、公共団体から何らかの援助を受けたわけではない。
また、
当時は今と違って公的に援助を受けるということは恥だという観念が残っていた。
母もまた古い家庭の昔気質の考えを持っていたので特に強かった。
しかし、
私から見た母はそんなにタフな女ではなかった。
身重の時、病気の時、それでも働くことを中断できなかった。
そのため、
母はいつあの世へ行くかもしれないという恐怖が私の念頭からは離れなかった。
そうなれば私はいつでも母の代わりに、
まだ「小学・中学性の2人の妹たちを何とか高校卒業するまでは背負わなければならない」。
という気持ちを念頭に置きながらの毎日だった。
中学、高校時代の思い出だ。
廃人同様の父と、母が決定的な別れをつげたのは私が高校3年の時だった。
母の奮闘はまだ2人の妹が高校・大学を卒業するまでは続けられねばならなかった。
4人兄弟(姉妹)が最低公立普通高校以上を
無事卒業できたことは母にとっては唯一の喜びであり、ご褒美であったかもしれない。
昼は会社で事務員として普通に働き、夜からはお好み焼き屋をし、夜中の12時近くまで働いた。
こういう家族が戦後無数に全国にあっただろうことは想像に難くない。
再びこういう悲惨なことが起きないことを戦後の平和憲法を固く守りながら祈りたい。