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(1)北方戦線から南方戦線へ
父は大正生まれで
当時は明治以降、
日清戦争、日露戦争、
日独戦争(第1次大戦)
盧溝橋事件、シナ事変と
勝った勝ったの時代に育った人だった。
その為、
成人すると職業軍人を希望して
ソビエト満州国境地帯に
守備兵として配属された。
母の話によると父は兵長の位でだったそうだ。
その後、
日ソ不可侵条約が結ばれた。
真珠湾攻撃を起点として
太平洋戦争が始まった。
当時、
南方戦線の戦闘が激化し、
日ソ関係は条約上安泰ということで、
父たちは
一度本国に一週間ほど帰還し、
たった一週間しかなかったが、
その間に
私の母と略式の結婚式を済ませ、
すぐに
米軍との激戦地で、
南方戦線のフィリッピンにある
ジャングル地帯に配備された。
激戦を続けながらも
転戦転戦の中、
とうとうわが父の隊は
10人前後になってしまっていた。
2隊あったが一隊は峠を越える隊と
もう一隊は谷を下る隊に分かれて行進することになった。
父の話によると
ある日の夜中に
一発の銃声に飛び起きると
同僚の一人が
野営地の近くに
体ひとつ入るくらいの穴を自分で掘り、
その中に横たわっていた。
「銃の銃口を上に向け引き金はその兵士の足の指がかかっていた」とのこと。
負傷していて皆に迷惑をかけてはいけないと
自らにとどめを刺したのだ。平時では想像もできないことだ!
更に転戦を続ける中、数十人になってしまっていた。
山の峠に至り、2隊に分け、一隊は尾根沿いに上り、もう一隊は谷を下ることになった。
父の隊は谷沿いに下っていく事になった。
或る出来事が起きた。
「P51(双発の米国最新鋭機)」が突然上空から機銃掃射をしてきた。
父達は逃げ惑いながら前方にあった木橋の下に逃げ込んだ。
するとP51は反転して、全員が飛び込んだ橋に
今度は爆弾を投下した。
鋭い痛みとともに気が付くと、
周りの兵士たちは
「全員瓦礫の中で、粉々になった肉片の塊」で
自分自身は仲間達の血の海の中だったそうだ。
九死に一生を得たのだ。
その後、たった一人でジャングルの中を彷徨った。
食料は原始時代に逆戻りの自給自足で、
食料調達の道具は持っていた日本刀を半分に折ったものだった。
ジャングルで食べられるものは何でも食べたとのこと。
もっとも印象に残ったことは
ジャングルにたまたま実っていた、まだ青いままの実を食べ、
恐ろしい便秘にも襲われたことだった、とのこと。
腕に「爆弾の破片」を埋めたまま、
ある日突然!米軍に囲まれ投降した。
捕虜生活に入ったが、運よくすぐに終戦を迎え、
昭和20年末に帰国した。
直ぐの帰れたのは終戦直前に捕まったからで、
それが幸運だったようだ。
米軍にもらった”上等の真鍮製飯盒炊爨用カップ”
が私が物心ついた頃も台所に残っていた。
これらの戦いも”国防のため”と美名がついていたのである。
どんな戦争も誰のため、何のための戦争か
熟考してからで少しも遅くない。
よく考えよう!
親兄弟、家族、仲間、多くの国民の為なのか?
憲法に違反し、他国の領地にずかずかと侵入し、
民族自決権に違反し、他国の人々を犯すのか?
表現、言論の自由を圧殺することも
立憲国家ではファッシストのすることなのだ。
今の日本は立憲国家であることは正真正銘の事実なのだ!