子供たちが幼い頃
子供の育て方で、
叔母達と考え方が違っていたり、母と衝突したこともあった。
叔母と違っていたのは
叔母は戦中、戦後生活が苦しかったので
子供たちにはあまり苦労させたくないという思いがあった。
その為、結構自分の子供たちには何もないながらも、
できるだけ「子供の要求に沿うようにさせてあげたい」と
思い我が儘させたようだった。
私は逆だった。
大人になってからは、
苦労していても「其れが自分の成長にとってプラスになった」
と思うことが多かった。
従って、
方針もなく贅沢させるのは子供たちが成長したとき、
忍耐強さや、自力で困難を乗り越える力が身につかないと考えた。
其れで何でも買い与えたり、甘やかしたりすることは控えた。
また、母とよく衝突したのは、
私が子供たちに厳しすぎるのを見て、
そんなに厳しく叱らなくてもいいのでは!と
何かあるたびに止めに入った。
私はカリカリしていたので、
つい大声で「この子は私の子だから、母さんは黙っていてくれ!」と
大声で怒鳴ってしまっていた。
すると母は「あんた達を私はそんなに厳しくしなかった。」
と、反論した。
このような衝突は度々あった。
確かに私の子供の頃、私に怒鳴ったことなど全くなかった。
そういう意味ではこうしてひねくれることもなく、
無事育ててくれたことに感謝している。
でも、私はこういう風に反論していた。
「私たちの子供の頃は、終戦直後で何もなかった。
そういう状況の中で、
パン一つでも、4人の兄弟で四つに分けあって仲良く食べていた」と。
その上、”社会状況も今と違う”。
「終戦後戦地から帰ってきた父は頭がおかしくなって帰ってきた」ので、
飲んでいないときは妙におとなしかったが、
「酒、と女に狂うアル中男」であった。
飲んでいなくても、母の話では「夜いつも起きている」という。
多分、
その後ベトナム戦争帰りの兵士達で話題になった「PTSD」
ではなかったか?と今思えば思えてくる。
とにかく、
このような環境の中で育った私たち姉弟は
母の愛情と涙ぐましい努力の中で育った。
しかし生活はどん底で赤貧の中であった。
母の給料日は借金取りがよく来ていた。
この母の苦労を見ていれば、
母の期待にそって、
兄弟姉妹全員が絆を強くして生きていくことは、
嫌でも自分たちに課せられた母に対する
「愛のお返し」だったのだろう。
でも、
当時の私たち家族は当時でも金持ちでも何でもないが、
子供たちにノート代がないからしばらく待ってくれとか、
子供に自転車を買う金がないから我慢してくれとか言うほど
貧乏ではない。
服装にしても親の着ていた昔の古着で作り替えて着せたとか、
いとこの古着をもらって着せるということもなかった。
家も、ローン返済で「しまつした生活」ではあるが、
返済で滞ることもなかった。
こういう生活状況は、
明らかに戦後の厳しい生活を脱して、
高度成長時代の中産階級化に
乗っかった生活環境にあったということだろう。
こういう環境の中では、
子供たちは、
贅沢を言えばいくらでも
贅沢できる環境になってきたということで
こういう時こそ「苦労は買ってでもしろ!」ということではなかろうか?
と思うのである。
このようなときに
子供たちの生活を律すると言うことは
親か学校の教師くらいしかないのではなかろうかと
思ったのは確かだ。
簡単に言えば私の子供の頃は、子育ては、主に社会環境が
律し育て、高度成長時代は親や教師が律するのでは?、
特に親の子育てのさじ加減が重要だったのでは?と
思っている。
しかし、
これは私の独断と偏見の産物なので
皆さんに色々と押しつける気は毛頭ありませんので
ご容赦ください。
思うところがあればご意見も拝聴したいものです。